黙示録22章
22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
御使いは、いのちの水の川を見せましたた。都の通りの中央、川の中央で、こちら側とそこから離れた側に十二の木がありました。十二は、神の支配を表していて、その実は、毎月、一つ結ばれました。一つは、独り子の御子の栄光を表しています。その実は、御子の栄光なのです。
神のしもべは、いのちの木の実を食べます。いのちの水の川は、聖霊によって働く御言葉の比喩です。それは、神と子羊の御座から出ていました。水晶のように輝くことは、純粋であり、神の栄光を現す言葉です。そこからさらに御子を知ることになります。主は、ご自身の他は、誰も知らない名をお持ちです。
黙示録
2:7 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』
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その木の葉は、諸国の民の癒しになります。すなわち、のろわれるものは何もないが、いのちの木の実を食べることは、勝利者に許されたことです。諸国の民の栄光は、地の王たちによって都にもたらされます。彼ら自身が置かれたところにあって実を結び主の栄光を現します。王たちは、その栄光を携えてきて、神に栄光を帰します。祭司の務めを果たすのです。諸国の民は、都の光によって歩みます。彼らは、真理の光を受けて、また、神と子羊の栄光を覚えて、実を結び続けるのです。また、その木の葉によって、彼らは、御子の栄光を覚えて真理の光に歩むことを学ぶのです。彼らは、実を結ぶ者に変えられるのです。それが「癒し」です。
詩篇
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。
・「流れ」→水の流れ。水の川。
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葉は、なすことの全てにおいて成し遂げて、栄光を現すことを表しています。
エゼキエル書
47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」
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・「癒した」→癒す。肉体の状態の逆転に焦点が当てられている。それ自身、そのことを通して主に完全に仕える応答を含んでいる。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
もはや呪われるものは何もありません。神のしもべたちは、神に仕え、御顔を仰ぎ見ます。神は、子羊とは区別されていますので、この顔は、御父の顔です。彼らの額には、神の名が記されていて、神のものであることが明らかにされます。神と子羊の御座は、都の中にあります。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。
神である主が彼らを照らされるので、灯火の光も太陽の光も要りません。彼らは、神の栄光を直接見ることになります。人は、それまでそうすることができませんでした。今まで、神の御心は、御言葉として与えられ、それは、灯火や太陽の光として示されてきました。今度は、直接その御心が示され、また、その栄光が示されることになります。
神のしもべは、王として治める者たちです。神のしもべと、諸国の民は、区別されています。諸国の民は、治められる者たちです。
この章の記述は、いわゆる千年王国の時代のことではありません。イザヤ書の預言によれば、呪われる者がいます。また、ゴグのマゴグの反乱の時に付き従う者は呪われた者です。そのような者が存在しないので、時代が違います。
イザヤ書
65:20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
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22:6 御使いは私に言った。「これらのことばは真実であり、信頼できます。」預言者たちに霊を授ける神である主は、御使いを遣わして、すぐに起こるべきことをしもべたちに示された。
22:7 「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」
この言葉が真実であり信頼できることを告げました。それは、預言の霊によります。
これらのことは、すぐに起こるべきことです。また、主は、すぐに来ると言われました。幸いなるかな。この書の預言の言葉を守る者は、と。そこに記されていることをそのまま信じ、将来に約束されているものを最大限に受け継ぐために歩むことが「守る」ことです。
22:8 これらのことを聞き、また見たのは、私ヨハネである。私は、聞いたり見たりした後に、これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。
22:9 すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。」
御使いを礼拝しようとしましたが、止められました。自分は、しもべだと言いました。そして、ヨハネや預言者であるヨハネの兄弟、また、この書の言葉をまるも人々について、「しもべ」と言いました。「神のしもべ」と記されている人たちのことです。ただし、御使いは別です。
22:10 また私に言った。「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。
この書の預言の言葉を封じてはならないと強く命じました。時が近いからです、と。
22:11 不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」
不正を行う者は、不正を行い続けよ。汚れた者は、汚れた者になり続けよ。正しい者は、正しいことを行い続けよ。聖なる者は、聖なる者になり続けよ。
直ちに従うべき命令文で記されています。直接の呼びかけなのです。不正や汚れを行う者にもそれをし続けよと命じています。これは、強い警告です。
・「ならせなさい」→アオリスト命令形で記されている。各命例文には、「~し続ける」を意味する副詞がついています。
22:12 「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。
イエス様がすぐに来ることを示されましたが、正しく歩み、聖なる者とされる者は、報いを受けることができることが示されていて、励ましておられます。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
ご自分が永遠の存在者であることを示しました。この世の一時の肉の働きのために、神の御心に背いてはならないのです。永遠の報いこそ価値があり、主はそれを与える方であることを宣言されました。
22:14 自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。
現在、衣を洗う者たちは、正しいことを行い続け、聖なる者とされ続けている人たちのことです。彼らは、命の木の実を食べる特権が必ず与えられます。そして、門を通って都に入ることができます。都の外に置かれる者もいるのです。
・「洗う」→現在形、分詞。衣を洗っている者。
・特権が「与えられ→ある」→未来形。必ずある。
・「入れるようになる」→アオリスト、接続法。別の行動の結果として起こる明確な結果。
22:15 犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。
すべて偽りを愛し続けており、また、行っている者は、外にとどめられます。今、行っている者のことです。同様に、犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者すなわち婚外性交を行う者、人を殺す者、偶像を拝む者は、今の状態です。
現在、信者でありながら、これらの列挙されている者は、外に置かれます。彼らは、白い御座の裁きで火の池に入らず、永遠の滅びに入ることはありませんが、都には入れません。外に置かれるのです。命の木から食べることができません。
彼らは、「しもぺ」や「諸国の民」とは異なります。クリスチャンでありながら、都に入れないのです。
彼らは、福音書に記されている、外の暗闇に放り出された者たちです。諸国の民は、都の光で歩み、実を結びますが、この人たちは、もはやそれができません。
黙示録
21:27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。
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・偽りを「好み」→現在形、分詞。好んでいる。
・「行う」→現在形、分詞。行っている。
22:16 「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
イエス様は、御使いを遣わして証しされました。それは、諸教会に対する証しです。今日、主イエス・キリストを信じている者に対して示しているのです。
ご自分は、ダビデの根として人となって来られた方です。生涯にわたって肉を持ち、その戦いの中に勝利された方です。そして、今は明けの明星として輝く方です。まだ、今は暗闇です。その中に、栄光を受けた方として輝いています。信じる者だけが見ることができる明けの明星です。やがて夜明けとなり、神と子羊の栄光に満ちた時が来るのを、イエス様と同じように肉との戦いに勝利しつつ待つように諭しています。
22:17 御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。
いのちの水は、渇く者を満たします。それは、命を受けます。永遠の報いを受けることで、満たされるのです。それは、花嫁の受けるものです。御霊も言われます。御霊は、信者が神の御心を行い永遠の報いを受ける者となるために働いています。主の現れは、それが実現する時であるのです。ですから、来てくださいと言うのです。言えと命じられていますが、それを強く待ち望むように促されているのです。
ヨハネ
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
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いのちの水は、私たちが御霊によって変えられ、御心を行い、報いを受けることを指しています。
22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。
22:19 また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。
言葉を取り除く者は、いのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれます。彼は、都の外に置かれる人の一人です。都には入れないのです。
22:20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
主は、すぐに来ると言われます。ヨハネは、それを受けて来てくださいと言いました。
22:21 主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。
主イエスの恵みは、主イエスが好意によって備えた祝福です。永遠の栄光を受ける祝福が用意されています。それをすべての者が絶対に確かに獲得できるように祈りました。
・「ありますように」→アーメン。絶対に確かにそうある。