黙示録21章

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 また、新しい天と新しい地を見ました。なぜならば、以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海はありません。

 以前の天と地は、存在しません。海に言及されているのは、海が神に反対する勢力を表しているからです。それが存在しません。

・「ない」→ある。の否定。存在。明確な限りのない存在。

21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

 また、聖なる都を見ました。それは、新しいエルサレムです。神の臨在の場所としての都を表しています。その都は、アブラハムが望んだ都です。それは、花嫁のように整えられていました。九節、十節の記述から、新しいエルサレムは、子羊の花嫁です。ここでは、夫のために飾られたことが強調されています。その飾りは、栄光の現れです。そのすべては、子羊の業による栄光の現れなのです。子羊の栄光となるためです。花嫁の持つ栄光の美しさは、子羊の業の偉大さを表すものです。

 それは、聖なる都であり、神のものとされ、神の臨在を表しています。神のみもとから、天から降りました。神のものとして、神の栄光をこの地上に現すために天から降ってきたのです。

21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

 御座からの声は、神の宣言です。見よ、と大声で叫ばれました。それは、注目すべきことです。神の幕屋が人々と共にあるからです。その意味は、神が人々と共に住むことです。そして、彼らは、神の民となります。その意味は、彼らの神として、共におられることです。

・「幕屋」→幕屋。住居を意味する。

・「住む」→幕屋を張る。すなわ住む。

21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 神は、彼らの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。それは、死はもはやないからです。悲しみ、叫び声、苦しみもありません。それらは、もはや存在しません。なぜならば、以前のものが過ぎ去ったからです。

 動詞は、全て未来形で記され、必ずそうなることを宣言しています。

21:5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

 御座に座っておられる方が言われました。見よ、わたしは全てのことを新しくしている、と。神が全てのことを新しくされる業は、今すでに行われていて、ずっと継続していることを表しています。

 また、書き記せ、と命じられました。なぜならば、これらの言葉は、信頼できるし、真実であるからです。

21:6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。

 そして、言われました。事は成就した、と。わたしは、ある。アルファであり、オメガである。はじめであり、終わりである。

 「わたしは、ある。」と言われたことの意味が、続く二つのことで説明されています。アルファとオメガ。ばじめと終わりです。それは、はじめであって、終わりであるとあるように、永遠の存在者であることを表しています。

 永遠の存在者が成就しようとしていた事は、渇く者に命の水の泉からただで飲ませることです。渇くことは、満たしがないことを表します。それは、サマリアの女が渇くことのない水をもとめたように、ユダヤ人が命のパンを求めたように、仮庵の祭りの終わりにイエス様が叫ばれたように、渇いている者は、イエス様を信じ、イエス様と共に御霊によって歩むことで命を得ます。その時、渇きを満たすいのちの水の泉から飲むことができます。これは、命をもたらします。水は、御言葉の比喩です。泉は、聖霊の比喩です。御言葉により、聖霊により主を知ることで命を経験するのです。それは、知識として主を知るだけでなく、聖霊によって歩むことで、実体験として知る命です。それは、すでに信仰者が地上で経験していることです。しかし、そのことは、永遠までも続くことがわかります。新天新地でも命の水の泉から飲むことができます。主は、ご自分の他誰も知らない名をお持ちです。私たちが聖書で知る以外の名がまだあるのです。名とは、その人の特性であり、行いです。

21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

 勝利を得ている者は、これらのものを必ず相続します。黙示録で勝利者が与えられるものは、報いのことなのです。勝利を得ることは、現在継続していることです。人生の終わりに勝利者になるということではありません。

・「勝利を得る」→現在形、分詞。勝利を得ている。

・「相続する」→未来形。必ず相続する。

・「なり」「なる」→未来形。必ずなる。

21:8 しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」

 勝利を得ている者に対比されて、第二の死を刈り取るものが取り上げらている。勝利を得ている者は、第二の死に入ることがありません。

 第二の死に入る者たちは、以下の者たちです。

・「臆病なもの」→恐れおののく状態や臆病な状態を表すのに使われる。それはしばしば否定的な意味合いを持ち、困難に直面したときの信仰や勇気の欠如を意味する。神への信仰から来る大胆さと自信と対比される。性格的に臆病な人もいますが、信仰により勇敢に立つことができるのでありそれがない人です。

・「不信仰な者」→信仰がない者。信じない者。ヨハネ20:27 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

・「忌まわしい者」→完了形、分詞。忌むべき者になっている者。過去の状態が継続している。

・「人を殺す者」→殺人者。計画的な殺人を行う者。創造者の主権を否定する。

・「淫らなことを行う者」→売春婦。死に値する罪を日常的に繰り返すことで、神を否定している。

・「魔術を行う者」→毒殺者。毒。薬を扱う者。(発展して、)魔術師。

 魔術や霊的現象などによって神の御力に似せて人を惑わす者。それによって人々を薬物中毒のようにし、真理を知ることができないようにする。

・「偶像を拝む者」→存在しない空虚な神である偶像を拝むことで、存在者である主を否定することになる。

・「全て偽りを言う者」→道徳的な悪としての偽り、契約に対する不誠実、偽りを言わない神に対する背き。倫理的には悪ですが、神の真理に反することを語ることは、最も重大な罪です。

21:9 また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」

21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。

 御使いの一人は、子羊の妻である花嫁を見せます、と言いました。彼は、大きな高い山の上から、エルサレムが天から降って来るのを見せました。それが子羊の妻である花嫁です。それは神から、天から降ってきました。今まで、神の御そばにあったのです。それは、聖なる都エルサレムと呼ばれていますが、信者の集まりです。例えば、都市としての都は、子羊の妻となることはできません。

・「見せる」→動詞、未来形。

21:11 都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。

 その都には、神の栄光があり、その輝きは、最も価値ある宝石によく似た、透き通った碧玉のようです。

 神の栄光が宝石の輝きとして例えられています。神の前に最も価値ある輝きを放っていたのです。透き通っていることは、純粋さを表し、神の言葉に対して混じり気がなく純粋であり、神の御心に適った栄光であることを表しています。

 なお、ここで、碧玉は、透き通ったと形容されています。今日、碧玉は、不純物を含んだ不透明なものとされていますので、イイアスピスは、碧玉に該当しませんが、これは、それがどのようなものであるかという形容の言葉に意味があります。

21:12 都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。

 その都には、大きな高い城壁があり、十二の門がありました。門を通らなければ入ることはできません。その門の上には、十二人の御使いがいました。神の権威によって守られていることを表しています。

 門には、名前が刻まれていて、イスラエルの十二部族の名がありました。この都のうちにあるものは、イスラエルに対する契約の実現によるものであるのです。

21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。

 十二は、神の支配を表します。四つの方面に三つずつの門がありました。三は、欠けのない完全さを表しています。すべての方面において、完全であるのです。神の支配のもとにあって、人間的なものは一切入らず、完全なのです。

21:14 都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。

 都の城壁には、十二の土台石があり、子羊の十二使徒の名が刻まれていました。十二使徒の名が刻まれていることは、新しい契約の実現であることも示しています。土台石は、教えを表しています。使徒と預言者に啓示された教えです。そこには、奥義として異邦人も相続者になることが示されています。

エペソ

2:11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、

2:12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

2:13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。

2:18 このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。

2:20 使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。

--

21:15 また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。

21:16 都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。

 御使いは、測り竿を持っていました。金は、義を表しています。それが神の御心に適ったものであるかどうかを測るのです。都の長さも幅も高さも一万二千スタディオンです。数字は、十二の千です。十二は、神の支配を表し、千は、完全さを表しています。神の支配にあって、御心の実現として完全であったのです。

21:17 また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。

 城壁を測りました。その厚さです。百四十四は、百と四十と四です。百は聖別を表し、四十は訓練を表し、その一環として試みを表します。四は、あらゆる方面を表しています。あらゆる点で訓練を経て聖別されたことを表しています。

21:18 都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。

 都の城壁は、碧玉で造られていました。それは、十一節に示されているように、神の栄光を表す輝きを放ち、価値ある宝石のように価値あるものであり、透明と表現されているように純粋であることを表しています。

 なお、透き通った純金はないと考える必要はなく、これは、比喩です。

21:19 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、

21:20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。

 これらの宝石は、城壁の土台石を飾るものです。土台石は、教えを表しています。その教えは、神の栄光を表す宝石によって飾られていました。その教えを信じて実践することで、神の栄光が現されるのです。

21:21 十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。

 十二の門は、一つずつの真珠からできていました。聖書では、真珠は宝石の中で最も価値あるものです。それは、十二あることによって神の選びによりますが、キリストの代価による価値の偉大さを表しています。

マタイ

13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。

13:46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。

--

21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。

 都の中に神殿はありませんでした。神と子羊が神殿であるからです。神殿は、神の臨在を表しています。神殿に名を置くのではなく、そこにおられます。

21:23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。

 照らす光は、真理の光の比喩です。以前は、聖書を通して真理の光を受けていました。そこに神と子羊の栄光を見たのです。その栄光が直接示されることになります。

21:24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの(民の)栄光を都に携えて来る。

 諸国の民は、王にはなれなかった人たちのことです。王になる者たちは、勝利者です。イエス・キリストを信じ、信仰により御心を行って歩んだ勝利者です。諸国の民は、支配される者になります。その諸国の民は、都の光によって歩みます。それは、神と子羊から発せられた光であり、真理の光であり栄光です。彼らは、その光に教えられて歩み、神に栄光を帰す者になります。王たちは、自分たちの国の民の栄光と誉を都の中に携えてきます。

 王は、彼らを治める者であり、彼らが実を結ぶために働きます。彼らは、キリストと同じように彼らの模範者であり、彼らを愛して牧します。彼らは、勝利者としてキリストと同じ者に変えられています。彼らは、諸国の民の結んだ実を携えてきて、神に捧げます。それは、栄光と誉を受けるに相応しい実です。

黙示録

2:26 勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。

--

・「自分たちの栄光」→自分たちの(「諸国の民の」すなわち自分が治める民の)栄光と誉れ。「民の」が訳出されていない。

21:25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。

 それで、都の門は一日中閉じられることがありません。なぜならば、そこに夜がないからです。神と子羊の栄光が常に輝いています。

21:26 こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。

 そして、彼らは、必ずその栄光と誉を携えて都に来ます。

 諸国の民の栄光を携えて来るのは、二十四節から、王たちです。諸国の民が都に自由に出入りすることではありません。いのちの木の葉が諸国の民を癒やしたのですが、それは、諸国の民が都に入ることを意味しているわけではありません。

・「人々」→動詞:「携えて来る」が、三人称複数であることに基づく。彼ら。文の流れからは、二十四節に王たちが携えて来ることが記されているので、「彼ら」が意味しているのは、「王たち」です。

21:27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。

 しかし、すべての汚れた者、また忌まわしいことや偽りを行っている者、子羊の命の書に記されていない者たちは、都には入れない。

 忌まわしいことや偽りを行っている者は、今、行っている者のことです。同様に、汚れたものも今の状態です。命の書には、評価に値する行いが記されているのですが、それが記されない人がいるのです。

 「子羊のいのちの書」は、今まで記されていた「いのちの書」とは別です。白い御座の前で開かれたいのちの書は、いわゆる旧約の聖徒に関わるものです。

 子羊のいのちの書に記されていることは、イエス・キリストを信じて義とされた者の「名」であり、キリストを主と告白し、実を結び続けた行いです。しかし、評価すべき行いが何も記されていない人がいるのです。イエス・キリストを信じ、火の池に入ることはなかったのですが、一つも実がないのです。そのような人の例として以下の聖句が参考になります。

黙示録

22:19 また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。

--

 この人は、いのちの木の実を受けることができないし、聖なる都から何かを受けることができません。その都に入り、神の御顔を仰ぐことはできません。また、その栄光を見ることもできません。それが都から受ける分であるからです。

 また、諸国の民は、イエス・キリストを目の当たりにして服従した人々です。いわゆる患難時代にも、イエス・キリストを目の当たりにしないでもキリストに対する信仰を持つ人たちはいたのです。しかし、キリストを目の当たりにしたのであれば、信仰はいらないのです。キリストが地上再臨されてから、地上で生きていた人々で、新天新地に入るにふさわしいとされた人々が諸国の民です。

・「行う者」→現在形、分詞。行っている者。

・「記されている」→完了形、分詞。

▪️真珠について

ヨブ記

28:18 珊瑚や水晶は言うに及ばず、知恵の価値は真珠にもまさる。

箴言

3:15 知恵は真珠よりも尊く、あなたが喜ぶどんなものも、それと比べられない。

8:11 知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これとは比べられないからだ。

20:15 金があり、多くの真珠があっても、知識の唇こそ宝の器。

31:10 しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。

マタイ

7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。

13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。

13:46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。

テモテ第一

2:9 同じように女たちも、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく、

 いずれも比較対象の一つとして取り上げられていて、その対象が最も価値あるものでなければ、文として成り立たない。

▪️王について

黙示録

2:26 勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。

2:27 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

2:28 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。また、勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

5:10 私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」

22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

▪️子羊のいのちの書について

黙示録

3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

13:8 地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。

 屠られた子羊のいのちの書は、キリストが十字架の御業を完成したことに対する信仰により、義とされる人々が記されていることを表しています。

 獣を拝むようになるのは、このいのちの書に名が記されていないからです。彼らは、キリストに対する信仰を持つことがないのです。

17:8 あなたが見た獣は、昔はいたが、今はいません。やがて底知れぬ所から上って来ますが、滅びることになります。地に住む者たちで、世界の基が据えられたときからいのちの書に名が書き記されていない者たちは、その獣が昔はいたが今はおらず、やがて現れるのを見て驚くでしょう。

20:12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。

20:15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

21:27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。