黙示録14章

14:1 また私は見た。すると見よ、子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。

 子羊が立っている場所は、シオンの山で地上です。そこに、十四万四千人の人たちがいました。

 その人たちの額には、額に子羊と父の名が記されていました。彼らは、人々の間から贖い出された者として、子羊と父のものとされています。彼らは、自分自身を捧げたのです。

 数字の構成は、一つの百と四十と四の千です。試練を経て訓練され、あまねく聖別された人々全体を表しています。

・「千」→絶対的な包括性(完全な全体性)。

・「百」→聖別。迷い出た羊と対比して、聖別されている羊の数。

・「四十」→試練。神の承認を得るために成功裏に乗り越えるのに必要な(危機などの)完全な期間。

・「四」→あまねく。

14:2 また、私は天からの声を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、激しい雷鳴のようでもあった。しかも、私が聞いたその声は、竪琴を弾く人たちが竪琴に合わせて歌う声のようであった。

 ヨハネは、天からの声を聞きました。彼のいる場所も地上であることがわかります。その声は、非常に大きなもので、大水の轟、また激しい雷鳴のようでした。実体は、竪琴に合わせて歌う歌でした。

14:3 彼らは御座の前と、四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかは、この歌を学ぶことができなかった。

 これは、十四万四千人がどういう性質の人であるかを説明しています。贖われたとありますが、これは、天に引き上げられたという意味として記されているのではありません。地から買い取られた人たちで、キリストのために選び分けられたことを表しています。

 彼らは、子羊とともにシオンの山にいたのです。彼らは、天から聞こえた歌声を聞いたのですが、その歌を学ぶことができたという意味で、彼らは、天にいるわけではありません。天にいるとすれば、十四万四千人の他には、誰もこの歌を学ぶことができなかったと記されていることは、天にいる彼ら以外の者は、その歌を学ぶことができなかったという意味になり、矛盾しています。また、彼らが天に引き上げられたという記述は、これ以前の時点では、存在しません。

 その他の人たちは、歌の声を聞き、その歌詞を聞いても、学ぶことができませんでした。彼らにとっては、理解できないものであり、一切、身に付くことがない歌なのです。次節にあるように、子羊に自分を捧げた者たちでなければ、たとい、聖書の言葉を読んだとしても、御心を学ぶことはできません。

・「彼ら」→動詞は三人称複数ですが、歌の元を指しています。十四万四千人が歌っていたということではありません。

・「地上から」→地から。地上と訳すと、地上と天上の対比が意識され、誤解を生む。彼らは、シオンの山の上にいたのであり、「地上から」と訳すことは、不適切。

・「贖われ」→買われ。地上から取り上げるという意味は無い。

14:4 この人たちは、女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞である。彼らは、子羊が行く所、どこにでもついて行く。彼らは、神と子羊に献げられる初穂として、人々の中から贖い出されたのである。

 女に触れて汚れたことがないことは、教えの誤りに染まっていないことを表しています。女の汚れは、そのことを表しています。聖書で、女は、誤った教えを持ち込む者として幾度かたとえられています。

テモテ第一

2:14 そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。

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 彼らは、子羊に捧げられました。そして、子羊が行く所どこにでもついて行きます。

14:5 彼らの口には偽りが見出されなかった。彼らは傷のない者たちである。

 口の偽りが問題とされているのは、正しい教えに基づいて正しいことを語る者であることが要求されているからです。彼らは、教えにおいて、誤ったものに染まらず、また、語ることにおいて偽りのないものであるのです。それで、彼らについては、傷のない者たちであると言われています。

14:6 また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。

14:7 彼は大声で言った。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」

 もう一人の御使いは、中天を飛び、地に住む人々に、永遠の福音を伝えるためにそれを携えていました。

 その内容は、神を恐れること、神に栄光を帰すること、神を礼拝することです。裁きの時が来たので、直ちにそうせよと命じられています。

・神を恐れること

 実在の神を認め、恐れることです。

・栄光を帰すること

 意味は広いですが、神の示した裁きを免れる道を受け入れることは、最低限のことです。そのうえで神に従って生きることです。

・礼拝すること

 その方については、すべてのものを創造された方として示されています。創造者であり、主権者なのです。礼拝することは、そのことを認め、恐れて崇めることです。

14:8 また、その御使いの後にもう一人、第二の御使いが来て言った。「倒れた、倒れた、大バビロンが。御怒りを招く淫行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた都が。」

 次の御使いは、バビロンが倒れたと言いました。それは、バビロンが淫行のぶどう酒をすべての国々の民に飲ませたからです。淫行は、神の教えと異なる教えを受けることを表しています。そのような者は倒れ、価値の無いものとなるのです。バビロンは、すべての国の民にとって、自分たちを満たすよりどころでした。それが失われたことを宣言することで、神に立ち返るように促しています。

14:9 また、彼らの後にもう一人、第三の御使いがやって来て、大声で言った。「もしだれかが獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けるなら、

14:10 その者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。

14:11 彼らの苦しみの煙は、世々限りなく立ち上る。獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない。」

 続く第三の御使いは、獣の刻印を受ける者に対する裁きについて大声で警告しました。彼らは、神の怒りを受け、永遠の火と硫黄で苦しむことになります。その苦しみが絶えることはありません。昼も夜も苦しむのです。

 彼らは、獣を礼拝し、獣の刻印を受けた者たちです。

・「安らぎ」→内面の休み。

14:12 ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。

 獣の刻印を受けない者たちは、売り買いできず、生活ができないようにされます。また、殺されます。そのような中で、聖徒として、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続けるためには忍耐が必要です。

14:13 また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」

 地上にあっては、忍耐が必要ですが、彼らの死は幸いなのです。獣を礼拝し、刻印を受ける者たちは、永遠に苦しみますが、彼らは、安むことができます。労苦から開放されます。その理由が記されていて、彼らの行いは、彼らについていくからです。その行いに応じて報いを受けることになります。地上における歩みに対する報いが備えられて、もう労苦して忍耐する必要がないのです。

・「安らぐ」→「休む」安らぐは、心の問題ですが、ここでは、必要とされた仕事を果たした後に休みを経験することです。十一節の「安らぐ」とは、原語が似ているが異なる。「休むことができる。」

14:14 また私は見た。すると見よ。白い雲が起こり、その雲の上に人の子のような方が座っておられた。その頭には金の冠、手には鋭い鎌があった。

14:15 すると、別の御使いが神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に大声で叫んだ。「あなたの鎌を送って、刈り取ってください。刈り入れの時が来ましたから。地の穀物は実っています。」

14:16 雲の上に座っておられる方が地上に鎌を投げると、地は刈り取られた。

 二つの刈り入れが行われますが、一つは、イエス様による刈り入れで、神殿から出てきた御使いがその時であることを告げています。神の時なのです。

 この刈り取りは、地上の実った穀物の刈り入れです。これは、主に従って御心を行い、実を結んだ人たちを身許に集めることを表しています。

マタイ

24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。

24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。

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14:17 それから、もう一人の御使いが天の神殿から出て来たが、彼もまた、鋭い鎌を持っていた。

14:18 すると、火をつかさどる権威を持つ別の御使いが祭壇から出て来て、鋭い鎌を持つ御使いに大声で呼びかけた。「あなたの鋭い鎌を送って、地のぶどうの房を刈り集めよ。ぶどうはすでに熟している。」

14:19 御使いは地上に鎌を投げて、地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れた。

14:20 都の外にあるその踏み場でぶどうが踏まれた。すると、血がその踏み場から流れ出て、馬のくつわの高さに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。

 もう一つの刈り取りは、御使いによります。刈り取られたぶどうは、踏み潰されます。これは、裁かれることを表しています。彼らは、地のぶどうの房に例えられています。その実は集められて、都の外の踏み場で踏まれました。血が流れ出て、彼らは命を失うのです。

 葡萄は、自分を捨てることを表しています。主イエス様は、ご自分を捨てて、都の外で十字架に命を捨てました。ここで踏まれる人たちは、主によって打ち立てられた十字架のの御業を拒み、神の前に自分を捨てることがなかった人たちです。それに相応しい裁きがなされます。

 数字の千六百は、千と六百です。人全体を表します。すなわち、神に従わない人のことです。

 十二章から十四章まで、挿入になっていて、霊の世界に焦点を当てて、キリストが来られる時までを記しています。

・「六百」→人を表す。