詩篇149篇
149:1 ハレルヤ。新しい歌を主に歌え。敬虔な者たちの集まりで主への賛美を。
新しい歌は、その人自身の霊的経験から生まれて来ます。その歌は、主の御心を行っている敬虔な者たちの集まりに相応しいのです。
・「敬虔な」→深い愛。それを現す者が他の神の御心に適う性質を現すことから、敬虔。神の御心の信仰による具現化。
149:2 イスラエルは自らの造り主にあって喜べ。シオンの子らは自らの王にあって楽しめ。
造り主は、主権者です。そして、御心を行う者としてのイスラエルを造られました。その方は、シオンにあって統べ治める方です。その自らの王に従う者として、王にあって楽しむのです。四節にあるようにその方が、ご自分の民を愛されるからです。
149:3 踊りをもって主の御名をほめたたえよ。タンバリンと竪琴に合わせて主にほめ歌を歌え。
それは、踊りをもって主の御名を褒め称えるほどに大いなるものです。タンバリンと竪琴をかき鳴らすほどに、大いに褒め称えるべきことであるのです。
149:4 (なぜならば)主はご自分の民を愛し貧しい者たちを救いをもって装われる。
その理由が示されていて、主は、ご自分の民を愛し、謙る者たちに救いを与えるからです。主を求める者に主は応え、主の御心を行うことができるようにしてくださいます。それが救いです。それは、神の前に実を結ばせ、永遠の報いをもたらすからです。
・「貧しい者」→謙る者。
149:5 敬虔な者たちは栄光の中で喜び躍れ。自らの床の上で高らかに歌え。
このことは、敬虔な者たちに呼びかれられています。すでに見たように、敬虔な者たちは、信仰によって神の御心をこの地にあって具現化する人たちであるのです。すなわち、神の御心のうちを歩む者たちであるのです。
彼らは、主が応えることで、主の栄光を見るのです。そして、彼ら自身も、栄光を受けます。ですから、神の御心を行う敬虔な者たちは、喜び踊ることができるのです。床の上で、一日を振り返る時、高らかに歌うのです。
149:6 彼らの口には神への称賛があり彼らの手には両刃の剣があるように。
神への賞賛と共に、彼らの手には、両刃の剣があるようにと求めています。両刃の剣は、御言葉の比喩で、その判別の鋭さが強調されています。
149:7 それは国々に復讐しもろもろの国民を懲らしめるため
それは、国々への復讐のためです。また、懲らしめのためです。イスラエルが国々の間に高く上げられ、国々を裁くことは、イエス様が地上を治める時に実現します。
149:8 彼らの王たちを鎖に彼らの貴族たちを鉄のかせにつなぐため
国々の支配者たちを捕縛し、服従させます。
149:9 また書き記されたさばきを彼らの間で行うため。これは主にある敬虔な者すべての誉れである。ハレルヤ。
それらは、書き記されている裁きを彼らの間で行うためです。彼らは、王たちや貴族たちに対しても、裁きを行い、彼らを鎖につなぎます。非常に大きな力をもって事をなすのです。
その裁きは、「書き記された」裁きです。主の御言葉に基づいてなされる業であるのです。これは、敬虔な者たちの御言葉の実践なのです。六節で「彼らの手には、両刃の剣があるように」祈られていますが、それは、御言葉の比喩です。そして、両刃の剣は、御言葉の鋭さすなわち判別能力の鋭さを表現しています。彼らは、裁きをなすにあたって、御言葉により判別し、裁きをなすのです。御言葉は、打つための道具でなく、判別するための道具です。彼らは、判別能力に優れた御言葉を自分のものとしているのです。それで、裁きを行うことができるのです。
これが、主にある敬虔な者の誉です。主の御心を行う者として、敬虔な歩みをした者を、主の御心として、裁きを行う者として用いられるのです。彼らは、御言葉を自分のものとしており、その鋭い判別能力を遺憾なく用いることができる人たちであるのです。彼らが御言葉の中に生き、それが身についているのです。それは、彼らの誉です。
また、敬虔な者には、それに相応しい報いが与えられ、栄光を受けるのです。それが、敬虔な者の誉となるのです。それゆえ、彼らは、日々に喜び踊ることができ、神への賛美に溢れるのです。
ヘブル
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
4:13 神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。
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神の言葉は両刃の剣よりも鋭く、判別能力に優れています。たましいと霊は、判別しにくいものとして取り上げられいますが、御言葉によれば、霊とたましいは、判別できるのです。それぞれの役割は異なります。神の前には全ては明らかですが、人の心の思いやはかりごとは、通常は、人にはわからないものです。神の領域です。しかし、御言葉は、それらを見分けることができるのです。