詩篇147篇

147:1 ハレルヤ。(なぜならば)まことにわれらの神にほめ歌を歌うのは良い。(なぜならば)まことに楽しく賛美は麗しい。

 主を褒め称えよ。なぜならば、神に褒め歌を歌うことは、主の目にかなった良いことであるからだ。また、それは、喜ばしく、賛美は、ふさわしいからである。

・「良い」→主の目に適っている。

・「楽しく」→喜ばしい--心地よい、甘い。

・「麗しい」→ふさわしい、または美しい。

147:2 主はエルサレムを建てイスラエルの散らされた者たちを集められる。

 主は、エルサレムを建てられます。散らされたイスラエルを集めるためです。そのエルサレムが建てられることは、最終的には、いわゆる新天新地に天から下るエルサレムの出現のことです。そして、それはまた、この地上に建てられる教会の比喩です。イスラエル散らされた者たちは、信仰により異邦人も加えられます。

147:3 主は心の打ち砕かれた者を癒やし彼らの傷を包まれる。

 主は、心を癒し、傷を包まれます。心は、人の内面で、霊やたましいが含まれます。そこが傷ついているのです。正常に機能していないのです。それを癒し、傷を包まれます。そして、正常な状態にするです。

147:4 主は星の数を数えそのすべてに名をつけられる。

147:5 われらの主は偉大であり力強くその英知は測り知れない。

 主には、それができることを示しています。その偉大さを示すことで、この地に置かれた信仰者に対してもその偉大さを現されることを示すためです。

 主は、星の数を数えられて、その全てに名をつけられます。人は、その数を数えることができません。膨大なものです。主は、その一つ一つに名をつけることを示し、全てを覚えておられることを表しています。

 その方が、我らの主です。その方は、偉大です。力強いのです。英知は、ご自分の御心通りに事を行う分別のことです。ご自分の計画に従い、事を成し遂げられます。

 星の数を数えることから始まり、英知は、数えられないで終わっています。

147:6 主は心の貧しい者を支え悪しき者を地面に引き降ろされる。

 主は、謙る者を支えられます。対比されているのは、悪しき者です。謙る者は主の言葉を受け入れ従う人のことです。

・「貧しい」→柔和。謙る者。

147:7 感謝をもって主に歌え。竪琴に合わせてわれらの神にほめ歌を歌え。

 主の偉大な力は、主を求める一人一人のために用いられます。それで感謝をもって主に歌うのです。竪琴は、さらに強く主を讃美することを表しいます。我らの神と言い表し、一人ひとりにとって神であることを強調しています。

147:8 神は濃い雲で天をおおい地のために雨を備えまた山々に草を生えさせ

147:9 獣にまた鳴く烏の子に食物を与える方。

 そして、主は、一人ひとりに対して命を与える方として示されています。ここには、獣と鳥を養うことが記されていますが、これは、比喩になっています。主は、地のために雨を備えます。雨は、御言葉の比喩です。山々の草は、獣や鳥の食べ物です。山々と記し、霊的な高嶺を表しています。そこにある者たちに命としての食物を与える方です。真の食物は、イエス・キリストです。その方を食物とすることで満たされて、また、その方と同じものに変えられます。

 鳥の子は、神の子たちの比喩です。鳴くのは、神を呼び求めることの比喩です。

147:10 神は馬の力を喜ばず人の足の速さを好まれない。

147:11 主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。

 神は、馬の力を喜びません。人の足の速さも好まれません。それは、主を恐れるところから来るのでないからです。主が契約を果たされることを待ち望む信仰から来るのでないからです。

 馬は、人の目から見れば戦いにおいて力あるものです。人の足の速いことは、人の能力が優れていることです。しかし、主は、そのようなものを頼りとすることを好まないのです。人の間では、能力のある人、知恵のある人、賢い人が好まれます。また、人から尊敬されるし、自分も誇りたいと思うのです。しかし、神には好まれません。

・「恵み」→契約に対する忠誠。

147:12 エルサレムよ主をほめ歌え。シオンよあなたの神をほめたたえよ。

147:13 主はあなたの門のかんぬきを強めあなたの中にいる子らを祝福しておられるからだ。

 エルサレムに呼びかけられました。エルサレムは、教会の比喩です。主の名のもとに集う信者の集まりです。建物でもなく、人間的な組織でもありません。そのエルサレムに主を褒め歌えように求めました。シオンは、エルサレムのある所です。その方は、教会の神です。

 門の閂(かんぬき)は、支配と守りを表しています。教会は、キリストの支配のもとにあり、守られています。「あなたの中にいる子ら」は、信者一人ひとりを表しています。その一人ひとりを祝福しておられるのです。

147:14 主はあなたの地境に平和を置き最良の小麦であなたを満たされる。

 主は、エルサレムの領地に完全さを置きます。そして、そこは、最良の(油の多い)小麦で満たされます。教会のうちには、主の御心を行うことでもたらされる完全さがあります。そこは、小麦で満たされます。小麦は、キリストの人としての歩み、また、よみがえられたことを表します。粉は、人としてのキリストですが、穀粒は、よみがえられたキリストを表しています。教会は、キリストで満ちていますが、ここでの比喩は、信者がキリストと同じものになることを表していて、そのような者たちで満たされることを表しています。油の多い小麦は、それらが聖霊に満たされていることを表しています。聖霊による聖い歩み、キリストが死者の中からよみがえられたように、もはや肉に死んで新しく生まれた者として聖霊によって歩む者たちで満ちているのです。

147:15 主は地に仰せのことばを送りそのみことばは速やかに走る。

147:16 主は羊毛のように雪を降らせ灰のように霜をまかれる。

147:17 主は氷をパン屑のように投げつけられる。だれがその寒さに耐えられるだろうか。

 主は、御言葉を送ります。それは、すぐに人の元に届けられます。その御言葉は、雪、霜、また氷です。そのようにして投げつけられた時、人はその寒さに耐えることができません。それらは、そのままでは命をもたらすものにはなりません。人にとっては耐え難いものであるのです。エジプトをでた民がもう聞きたくないと言ったように、受け入れることができないのです。

147:18 主がみことばを送ってこれらを溶かしご自分の風を吹かせると水は流れる。

 主は、御言葉を贈られ、すでに送った御言葉を溶かし、命を与える水とされます。さらに、ご自分の風を吹かせられると水が流れるように、聖霊は、御言葉とともに働き、豊かな実を結ばせるのです。

コリント第一

2:13 それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。

 神が恵みとして与えてくださったものを語るのに、人間の知恵によって教えられた言葉ではなく、御霊に教えられた言葉を用います。それは、御霊により啓示されたものです。今日は、その啓示されたものは、聖書として完成しています。ですから、霊的なものを霊的なものによって緊密に比較し理解し把握するのです。霊的なものは、御霊の啓示による言葉であり、それをもって、霊的なものすなわち神の言葉である聖書を理解し把握します。用いたのは、聖書の言葉ですが、それを解くのは、啓示された言葉です。御霊の啓示した言葉は、奥義であり今まで隠されてきたものです。ですから、すでに記された聖書によって、その奥義を解くことはできません。啓示された言葉で、聖書を解くのです。

 それで、人間的な知恵は、一切入る余地がありません。

・「説明する」→緊密に比較する。聖書のある真理を他の書かれている箇所と比較し、びったり合うことで理解し把握すること。

2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。(なせならば)それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。

 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。なぜならば、それは、彼らには愚かであるからです。そして、理解できないのです。理解できない理由は、御霊に属することは、霊的に注意深い研究、評価、判断の過程を通して綿密に調べることで区別することであるからです。

・「判断する」→注意深い研究、評価、判断の過程を通して綿密に調べる(調査する)ことによって区別すること。調べる、調査する、質問する。

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147:19 主はヤコブにはみことばをイスラエルにはおきてとさばきを告げられる。

 主は、ヤコブに御言葉を告げられます。ヤコブは、肉の弱さを持つ神の民を表していて、御言葉を与えて神の御心に歩むようにされます。イスラエルは、神の選びの民を表していて、彼らには、守るべき掟を与えます。それとともに、そこに歩む者に対して裁きをされます。それは、評価です。彼らの地上で成した行いに対して、善であれ悪であれすべて評価されます。

147:20 主はどのような国々にもこのようにはなさらなかった。さばきについて彼らは知らない。ハレルヤ。

 主は、どのような国々にもこのようにはされません。彼らは、さばきついて知らないのです。神が永遠の祝福をもって報いてくださることを理解しません。

 ですから、御言葉を受けていて、歩むべき道を知らされていることは、大きな祝福なのです。神の裁きに目を留める人は幸いです。神は、すべてのことを評価されます。

コリント第二

5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

5:11 そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかしそれが、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

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 これは、信者がキリストの裁きの座で裁かれる時のことです。肉体においてした行いは、すべて評価されます。