詩篇144篇
ダビデによる。
144:1 わが岩なる主がほめたたえられますように。戦いのために私の手を戦のために私の指を鍛えられる方が。
ダビデは、主が彼にとって岩であることをもって、その名が褒め称えられるように祈りました。岩は、彼を揺るぎない者として立たせることを例えています。それは、節の後半に具体的に、戦いにおいて彼が力強く戦うことができるように鍛えてくださる方であるからです。その手と指を鍛えられます。戦いのために使う手と指は、剣を握り、弓を放つためには、大切です。剣と弓は、御言葉の比喩です。彼は、御言葉を扱うものとして、主が支え、力付けられることの故に、褒め称えるのです。
144:2 主は私の恵み私の砦私のやぐら私の救い主私の盾私の避け所私の民を私に服させる方。
主は、契約を忠誠をもって果たされます。ダビデの砦として彼を守り、盾として守り、避けどころとして守ります。そして、王である彼に、民を服従させる方です。王としての権威は、神によります。
・「恵み」→契約に対する忠誠。
144:3 主よ人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
144:4 人は息にすぎずその日々は影のように過ぎ去ります。
はじめに人の空しさ、無力さを言い表しています。それは、人には何かをする力はなく、主の偉大さによって事がなることを求めるためです。
神が人を知っておられることは驚異です。人を顧みられることもそうです。人は、息に過ぎないような空しい存在です。また、日々生きていたとしても、影のように過ぎ去るからです。
144:5 主よあなたの天を押し曲げて降りて来てください。山々に触れて噴煙を上げさせてください。
144:6 稲妻を放って彼らを散らしあなたの矢を放って彼らをかき乱してください。
144:7 いと高き所からあなたの御手を伸べ大水からまた異国人の手から私を解き放ち救い出してください。
彼は、主の救いを求めました。天からの救いです。直接的な願いは、六節で「彼ら」と言われる、七節の「異邦人」の手から解き放ち救い出すことです。彼がそれを求めるにあたって、「天を押し曲げて降りてきてください」と求めていますが、それは、主の力や権威の偉大さを言い表しているのです。山々に触れることで、それらが噴煙を上げることも、主のなさることであることを覚えていて、そのような力で救いをもたらすことを求めています。
稲妻で、彼らをかき乱すことを願いしました。それは、矢とも言い換えられています。稲妻は、神からの光として御言葉の比喩です。そして、的を打ちます。矢は、内面を貫くものとしての御言葉の比喩で、彼らのうちにある彼らの考えに対する裁きを表しています。
144:8 彼らの口は嘘を言いその右の手は偽りの右手です。
彼らの悪が取り上げられていますが、彼らに対して裁きを求めた理由が示されているのです。それは、口で嘘を言うからです。彼らの内にあるものは悪で、正しいことを語らない悪い考えがあるからです。陥れるために嘘を語るのです。そして、その行いも偽りです。正しいことを行わないのです。「偽り」訳されている語は、見せかけであるということです。そのように、彼らが正しい考えに基づいて行動しいないので、彼らに対する裁きとして神の矢を放つことを願ったのです。そして彼らのうちにある悪い考えや教えを貫き裁くことを求めたのです。
144:9 神よあなたに私は新しい歌を歌い十弦の琴に合わせてほめ歌を歌います。
新しい歌は、彼の新しい経験に基づく歌です。主の業を見たならば、主に新しい歌を歌い、栄光を帰すことを表明しているのです。そして、十弦の琴に合わせることは、力強く賛美することを表しています。
このように言うことで、主がその栄光を現してくださることを強く求めているのです。
144:10 神は王たちに救いを与え神のしもべダビデを悪の剣から解き放たれます。
王たちは、自分を含めた、神を求める王たちのことで、彼の子孫のことも含めて言っています。彼が求めたことは、悪の剣からの解き放ちです。この場合、剣は、彼らの攻撃の言葉です。
144:11 私を異国人の手から解き放ち救い出してください。彼らの口は嘘を言いその右の手は偽りの右手です。
その悪は、異国人の中にありました。彼らは、嘘を言い、偽りの行いをするのです。
144:12 私たちの息子らが若いうちからよく育てられた植木のようになりますように。私たちの娘らが宮殿にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。
息子たちを例えた若いうちからよく育てられた植木は、その成長の豊かさが表現されています。娘たちに関して、隅の柱は、証しを表しています。宮殿にふさわしいことは、王の家に相応しいことを表しています。隅にあることは、彼女ら自身を現すのではなく、王に相応しい証しを担うことを表しています。
ここで、王は、キリストの比喩となっていて、息子や娘たちは、一人一人の信者の比喩です。彼らは、よく育てられて成長するのです。彼ら自身がキリストを現す者として成長することの比喩です。また、王の家は、神の家としての教会の比喩です。彼らは、神の家に相応しくその証しを担うのです。
144:13 私たちの倉はもろもろの産物で満ちますように。私たちの羊の群れは私たちの野で幾千幾万となりますように。
産物は、結ばれる実の比喩です。倉には、それが満ちています。それは、王のもとに集められた実を表し、キリストによって覚えられ、評価されるのです。
羊の群れは、キリストを信じる信者の比喩です。その数は、「私たちの野」と表現されているキリストのご支配のもとにあって、数え切れないほどの数となるのです。
144:14 私たちの牛が子牛をよくはらみ早産も流産もなく哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。
そして、牛は、キリストにしもべとして仕える者たちの比喩で、彼らも、多くの者が新しく生み出されるのです。そこには、死がないのです。新しく生み出される命に溢れています。これは、新しく生まれた者としての比喩で、そのような信者が生み出されるのです。肉にはよらず、御霊により歩む者となるのです。
144:15 幸いなことよこのようになる民は。幸いなことよ主を自らの神とする民は。
このような祝福をもたらすのは、主によります。その方を自らの神とする民は、幸いなのです。
キリストは、今も、信者を、多くの実を結ぶ者に成長させています。ご自分にふさわしい、ご自分を現す者に変えようと働かれます。信仰によりそれを自分のものとすることは幸いです。主を自らの神とすることは、この方に服従して御心を行うことです。それによって、このような祝福がもたらされます。それが、契約の実現であるのです。