詩篇141篇

ダビデの賛歌。

141:1 主よ私はあなたを呼び求めています。私のところに急いでください。私があなたに呼び求めるときに私の声に耳を傾けてください。

 ダビデは、主を呼び求めていました。急いで彼のところへ来てくださることを願ったのです。彼が呼び求める時、聞いてくださることをお願いしています。

141:2 私の祈りが御前への香として手を上げる祈りが夕べのささげ物として立ち上りますように。

 彼は、その祈りが主への香となり、夕べの捧げ物となることを願いました。香や捧げ物は、主イエス様を捧げ物として捧げ、父が満足されるのです。それと同じように、彼の祈りが、神の栄光を現すものとして、神が受け入れ満足されるものとなることを願ったのです。彼の祈りは、自分中心のものではなく、神を満足させ、神に栄光を帰す祈りであることを願いました。

141:3 主よ私の口に見張りを置き私の唇の戸を守ってください。

 そのように、彼の祈りが主に栄光を帰すものであるためには、彼自身がきよくなければならないのです。汚れた者の祈りが神に栄光を帰すことはありません。

 それで、彼の語る言葉が清められるように願いしました。主が守ってくださることを願ったのです。

141:4 私の心を悪に向けさせず不法を行う者たちとともに悪い行いに携わらないようにしてください。私が彼らのごちそうを食べないようにしてください。

 次に、彼の心を守ってくださるように願いました。心を悪に向けさせないように。

 そして、その行いについて、悪い者の行いに携わらないように願いました。悪者のご馳走を食べることは、悪者の仲間になることです。

141:5 正しい人が真実の愛をもって私を打ち頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように。私の頭がそれを拒まないようにしてください。彼らが悪行を重ねてもなおも私は祈ります。

→「正しい人が、契約に対する誠実に従って私を打ち、そして、彼に私を戒めさせ、頭の油を私の頭が拒まないようにしてください。なぜならば、私の祈りは、まだ、悪の中にあります。」

 この節は、ダビデが主に祈りを聞いていただくために、自分自身の祈りが清められることを願ってのものです。主の前に、正しくなければ、清くなければ、主は祈りを聞いてくださらないことをわきまえていました。

 そのために、正しい人が彼を打つように願いました。それは、単なる暴力ではなく、彼が清められるために、契約すなわち御言葉に従って、彼を打つことを願ったのです。そうすれば、彼が清められるからです。

 そして、彼にダビデを叱責させるように主に願いました。その叱責により、彼が頭に油を注がれるからです。これは、比喩で、彼が聖霊の働きを豊かに受ける者となることです。彼は、清められ、聖霊に満たされることを願いました。

 その理由を示していて、彼は自分の祈りが清めらていないことをわきまえていました。いまだに祈りが悪の中にあるのです。構文としては、祈りと悪(形容詞:悪い→悪)が結び付けられていて、悪の前置詞は、「~の中に」です。主に申し上げる祈りは、その人自身の霊的状態によって、清いかそうでないかが評価されます。祈りの言葉自体の正しさではありません。彼は、きよい手を上げて祈れることを願っています。それは、祈りが聞かれるためです。

・「真実の愛」→契約に対する誠実。

141:6 彼らのさばき人たちが岩の傍らに投げ落とされるとき彼らは私のことばがどんなに優しいものだったかを知るでしょう。

 悪者の裁き人たちが崖の傍に投げ落とされる時は、彼らが裁かれた時です。低くされるのです。その時、彼らは、ダビデの語っていた言葉を聞くのです。なぜならば、それは、受け入れるに値する良い言葉であるからです。その時彼らが聞くというのは、彼らが思い出し、納得することです。

・「岩」→崖。

・「どんなに優しい」→受け入れられる。心地よい。

141:7 人が地を掘り起こして砕くときのように私たちの骨はよみの入り口にまき散らされました。

 ダビデの置かれている状況は、骨がよみの入り口に撒き散らされているかのようです。骨は、その人の持つ教えで、旧約聖書では、「思慮」と訳されている語がその意味です。その人の持つ考えや教えです。良い意味では、その考えは、神の教えに整合しています。悪い意味では、神に対する敵意と訳されています。その骨がよみの入り口に撒き散らされるというのは、滅びに近いことを表しています。神の教えに従って生きているのに、迫害などにより苦しみを受ける時、その考えが揺らぐ可能性があるのです。神の言葉に堅く立つことができなくなるのです。そうするならば、神の言葉から逸れた死の状態になります。それが滅びです。信者は、それによって即座に永遠の滅びに入るようなことはありません。しかし、神の前に実を結ぶことはなく、また、神と共に歩む命を経験できないのです。また、御国に永遠の資産としての報いが与えられることはありません。

 そのようなことにならないように願っているのです。

141:8 私の主神よまことに私の目はあなたに向いています。私はあなたに身を避けています。私のたましいを危険にさらさないでください。

 彼が求めていたことは、たましいが危険にさらされないことです。その危険は、神の言葉に従って生きることから逸らされることであり、滅びに入ることです。

 そのために、目は、主に向いていました。目は、信仰の比喩です。主に適うことを求めていたのです。そして、主に信頼し、主に身を任せていました。主の言葉を信じる信仰と、主に信頼する信仰の両面について言い表されています。

141:9 どうか彼らが私に仕掛けた罠から不法を行う者の落とし穴から私を守ってください。

 それで、悪者が仕掛けた罠から、不法を行う者の落とし穴から守ってくださるようにと。それらが信仰の滅びをもたらすからです。

141:10 私が無事に通り過ぎるとき悪者が自分の網に陥りますように。

 彼が無事通り過ぎるまで、悪者が自分の網に陥るように求めました。ダビデの守りと、悪者への裁きは、同時に行われ、それによって守られるように願いました。

・「とき」→~間。まで。