詩篇139篇
指揮者のために。ダビデの賛歌。
139:1 主よあなたは私を探り知っておられます。
主は、ダビデを探り知っておられることが初めに言い表されています。ダビデは、主がすべてをご存じであることをよく認識していました。その全てを知る方の前に傷のない者として歩む事を願っているのです。そのことは、詩の最後の節に記されています。
人は、しばしば、ご覧になられる神を無視した行動をとります。ダビデにはそのようなことがないことが言い表されています。
139:2 あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られます。
座るのも、立つのも、ご存じあり、彼の考えの目的を読み取られます。
このことを言い表すことで、彼がどのような目的あるいは動機で、事をなすかを神が知っておられることを覚え、そのような点においても正しくある事を願っているのです。
・「思い」→目的。十七節にも「御思い」と記されている。
139:3 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り私の道のすべてを知り抜いておられます。
歩くのも伏すのもご覧になり評価しておられます。その道の全てを見抜いておられます。
歩みのすべてが評価されることを知っていました。その神の評価に耐え得る歩みを求めていたのです。
・「見守り」→ふるいにかける。
・「知り抜いて」→知っている。
139:4 ことばが私の舌にのぼる前になんと主よあなたはそのすべてを知っておられます。
言葉が発せられる前にそのすべてをご存じです。
彼の心に浮かんだことも、神がご存じなのです。表面を繕っても意味がありません。彼は、真実の言葉を語ること求めていました。
139:5 あなたは前からうしろから私を取り囲み御手を私の上に置かれました。
取り囲むことは、完全に主の中にあることです。御手を置くことは、一つであり、主が業をなすこと。十節には、御手が導くことが記されています。
彼の行動は、神と共にある者として、神の業であるのです。彼は、それにふさわく行動することを願っているのです。
139:6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議あまりにも高くて及びもつきません。
彼は、その知識を持っていましたが、あまりにも不思議であり、高くて及びもつかないと言い、彼の思いを超えたことであることを言い表しています。
彼は、その方の前に歩むことを願っているのです。及び難いからと諦めるのではないのです。人の歩みは、信仰によって義とされるのです。律法の行いでは、義とされません。まして、肉によって歩んで義とされることはありません。信仰により、御霊によって歩むのです。信仰により、キリストがうちに住まれることを信じて、歩むのです。キリストが業をなさいます。その業は、義なのです。
139:7 私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。
主の業は、御霊によるのです。その御霊の働きから逃れることはできません。それは、主の御前を離れることです。主は、ダビデを通して、御霊によって業を行われます。そこから離れることはできないと。彼は、主の御前を離れことなどできないのです。彼は、御霊によって歩み続けることを願いました。
139:8 たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。
天に上ったとしても、主はそこにおられます。よみに床を設けたとしてもそこにおられます。主から離れることなどできません。
139:9 私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも
139:10 そこでもあなたの御手が私を導きあなたの右の手が私を捕らえます。
暁は、夜明けです。暁の翼と表現することで、夜明けと共に空を飛んで海の果てまで行くことを表しています。速く、時間をかけて遠くに行くことを表しています。海の果てに住んでも、そこでも主の御手が彼を導き、主の力強い右の手が彼を捕えます。彼は、主の手の中にあって全てをなすのであり、離れることはできません。
139:11 たとえ私が「おお闇よ私をおおえ。私の周りの光よ夜となれ」と言っても
139:12 あなたにとっては闇も暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです。
闇が覆うことは、光を閉ざすことです。周りの光が夜になるように、暗闇となることです。しかし、主にとって闇も暗くないのです。隠れおおせることはできません。彼自身を隠すことはできません。すべてが明らかなのです。その方の前に恥じることのない歩みを求めているのです。
139:13 あなたこそ私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方です。
内臓正しくは腎臓は、たましいの比喩です。ここでは、体を造られたことではなく、腎臓だけがとり上げられていることで、比喩であることが分かります。たましいは、神の教えに従う座です。ダビデは、主に従って生きる者として造られたのです。
それは、母の胎で組み立てられました。胎は、大事にすることを意味しています。神の御心を行う者として造られましたが、大切な者として造られたのです。主は、一人ひとりを価値ある者とお考えになっておられます。その器を通して、神の栄光を現すためです。
139:14 私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいはそれをよく知っています。
主が、このようにダビデになしていることを覚え、それがあまりにも奇しいことであり、恐ろしいほどなのです。造り主が、一人の人をこれほど尊いものとして造っておられるのです。
これは、ダビデのたましいが知っているのです。たましいが経験してきたことであるのです。
139:15 私が隠れた所で造られ地の深い所で織り上げられたとき私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
そして、骨が取り上げられています。骨は、その人の持つ教えで、新約聖書では「良心」と訳されている言葉と同じことを表します。その人の行動の最終的な判断基準です。その教えが神の御心に整合し、神の御心どおりに歩むために、形造られるのです。そのために、御心を教えます。それが、骨組みを組むことです。
今日、私たちが知るべき神の御心は。聖書の言葉を通して知ることができます。私たちが聖書の言葉を研究し学ぶことは、非常に大切なことです。正しい神の御心を知ることなくして、神の前にそれを行うことはできないからです。
139:16 あなたの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々がしかもその一日もないうちに。
主の計画は、人が生まれる前にすでに定められました。
人は、それがどのようなものであるかを知ることはできません。しかし、そのことを覚える時、その日々は、神の目に適ったものとなるように願わないでしょうか。自分が神に背き、役に立たない器となることを求めるでしょうか。
139:17 神よあなたの御思いを知るのはなんと難しいことでしょう。そのすべてはなんと多いことでしょう。
その神の計画を知ることは難しいことです。そして、その計画のすべては、なんと多いことかと。
・「御思い」→目的。
139:18 数えようとしてもそれは砂よりも数多いのです。私が目覚めるとき私はなおもあなたとともにいます。
その数は、数え切れません。砂よりも多いからです。そのように多くの計画があります。その計画を神は、着実に実行されます。ダビデの幸いは、彼が目覚めるとき、なおも主と共にいることです。神の御心が実現されている中で、いつも主と共にいました。
139:19 神よどうか悪者を殺してください。人の血を流す者どもよ私から遠ざかれ。
突然、悪者の死を願っています。それは、神の御心に適わない歩みをしている者から、完全に分離するためです。彼は、そのようなことに全く関わらないことを願いました。
139:20 彼らは敵意をもってあなたに語りあなたの敵はみだりに御名を口にします。
彼らは、ダビデに近い人たちです。彼らは、御名を口にします。しかし、神に敵意をもって語るのです。彼らは、神の言葉を受け入れないのです。また、その前に謙ることをしないのです。これが悪者です。
139:21 主よ私はあなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。あなたに立ち向かう者を嫌わないでしょうか。
ダビデが、主に敵対する者を憎み、嫌うのは、彼らが主に立ち向かうからです。主の前に敵対しているからです。
139:22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。
彼は、そのような主を憎む者を憎しみの限りを尽くして憎みました。彼らはダビデの敵となったのです。
139:23 神よ私を探り私の心を知ってください。私を調べ私の思い煩いを知ってください。
ダビデは、主が自分の心を探ってくださることを願いました。そして、彼をよく調べ、ダビデの持つ考えを知ってくださることを願いました。
・「調べる」→調べる。試す。
・「思い煩い」→考え。
139:24 私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。
そして、ダビデ自身のうちに傷があるかないかを見てくださるように願いました。そして、とこしえの道に導いてくださることを願いました。
とこしえの道は、とこしえの栄光を受ける道です。御国において、報いとしての資産を受け継ぐ道です。それが誤った道であるならば、何の価値もなく評価されません。それがとこしえの道として主の前に覚えられるのは、御心に適った道にあるときです。そこに導いてくださることを願いました。