詩篇126篇
都上りの歌。
126:1 主がシオンを復興してくださったとき私たちは夢を見ている者のようであった。
シオンの復興は、ネヘミヤの時代に城壁が築かれたことで実現しました。それは、思いの及び難いことでした。城壁は、破壊されたまま、多くの日を経たのです。ネヘミヤの願いは聞き入れられ、ペルシアの王の強力な援助が与えられ、復興されました。それは、ユダヤの人々には、夢を見ているような出来事でした。
126:2 そのとき私たちの口は笑いで満たされ私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき諸国の人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなさった。」
その時、彼らの口は、笑いで満たされました。彼らは、喜びの叫びで満たされました。主が彼らのために大いなることをなさったからです。それは、諸国の民の目にも明らかになりました。
126:3 主が私たちのために大いなることをなさったので私たちは喜んだ。
彼らの喜びは、主が大いなることをなさったからです。
126:4 主よネゲブの流れのように私たちを元どおりにしてください。
そして、彼らががネゲブの流れのように元に戻されることを願いました。
彼らの状態が流れのように元に戻されることは、比喩になっています。ネゲブは、ユダの南の地域の荒れ地で、流れは期待できません。しかし、そこにある流れは、渇いていた者が聖霊に満たされることの比喩です。
そして、この詩全体が比喩となっていて、シオンの復興は、神が臨在する神の都としての教会の比喩です。そこは、かつて荒れ果てていました。そのことは、信者の霊的状態の荒廃を表しています。主は、それを復興させることができます。
そして、ここでの祈りは、信者がさらに聖霊に満たされて、教会が神の栄光を現すことです。
・「流れ」→聖霊の比喩。
126:5 涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。
種をまく人は、教会の牧者です。信者が聖霊に満たされ、神の前に復興するように熱心に御言葉を蒔く人です。彼は、現状を本当に悲しむ人です。神の前に荒廃して、霊的に低い状態にあることを悲しむので、彼らを元に戻すために、御言葉を蒔くのです。彼らを復興させる手段は、御言葉を伝えることです。彼らが、御言葉を信じて、信仰によりそのうちを歩むならば、聖霊に満たされ、御心を行う者になり、神の祝福を受けるのです。
126:6 種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。
そして、泣きながら、復興を願って種を蒔く者は、喜んで帰ってきます。御言葉が実を結び、信者が聖霊に満たされ、多くの実を結ぶのを見るからです。それは、あたかも、束を抱えて帰って来るようです。