詩篇125篇
都上りの歌。
125:1 主に信頼する人々はシオンの山のようだ。揺るぐことなくとこしえにながらえる。
都を目指す人々の目に映るシオンの山を主に信頼する人々に例えて歌っています。彼らは、山のように揺るぐことがいないのです。そして、とこしえにながらえます。彼らは、永遠の御国において、祝福を受けるのです。
125:2 エルサレムを山々が取り囲んでいるように主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。
エルサレムは、山に囲まれていました。そのように、主は、御民を今から永久までも囲まれます。主が囲まれることは、今既に行われていることなのです。主は、とこしえにそれをされます。
125:3 それは悪の杖が正しい人の割り当て地の上にとどまることがなく正しい人が不正なことに手を伸ばさないようにするためだ。
主がそのように御民を囲まれるのは、「悪の杖」すなわち悪の支配がその民に及ばないためです。悪魔の思いのままに支配されないためです。
そして、その影響についても言及されていて、正しい人が不正なことに手を伸ばさないためです。神の御心に適わない者にならないためです。
125:4 主よ善良な人々や心(心臓)の直ぐな人々にいつくしみを施してください。
「主は、良い者(主の目に適った者)と心(神の言葉を受け入れる部分)の正しい者に良いことをされる。」「良い者」の「良い」は、形容詞、「良いことをする」は動詞。ここでは同じ語根を使うことで、主がふさわしく報いられることを表しています。良いは、天地創造のときに、神が良しとされたという言葉と同じで、美しいとも訳され、主の目に適っていることを表しています。
神の言葉に従う者にいつくしみが施されることを願いました。
125:5 主は曲がった道にそれる者どもを不法を行う者どもとともに追い出される。イスラエルの上に平和があるように。
曲がった道にそれる者は、正しい道に歩んでいながら、それる人のことです。それは、非常に残念な人達です。しかし、彼らも不法を行う者とともに追い出されます。
イスラエルは、神の民です。そこに求められていることは「完全さ」です。前半は、悪について語り、イスラエルがそのようなものでないことが後半に求められています。そのような人たちに対して、四節で、主のいつくしみがあるのです。主が囲み、守られるのは、彼らが正しさを保つためです。なお、「平和」では整合しないのです。
・「平和」→完全さ。