詩篇122篇

都上りの歌。ダビデによる。

122:1 「さあ主の家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。

 ダビデは、主と共にいることを本当に喜ぶ人です。主の家に行こうと人々が言う言葉を喜びました。

122:2 エルサレムよ私たちの足はあなたの門の内に立っている。

 エルサレムは、神の選ばれた都です。そこに御名を置くと言われました。門は、主の支配を表しています。その中に立つことを喜びました。

122:3 エルサレムそれは一つによくまとまった都として建てられている。

 エルサレム自体が一つによくまとまった都として立てられていました。そこには、秩序がありました。主の名を置くにふさわしい秩序があったのです。それは、神の家としての教会が一つとされて秩序を保っていることの比喩です。

122:4 そこには多くの部族主の部族が上って来る。イスラエルである証しとして主の御名に感謝するために。

 そこには、主の部族が上って来ます。主の御名に感謝するためです。それは、イスラエルである証しです。神の選ばれた民イスラエルは、主を知っているので、感謝のために来るのです。それが証しです。

 教会に集い、主を覚え、感謝することができることは、キリストを信じた者の証しです。主を知っているのでそうするのです。単なる形式には意味がありません。荘厳な儀式であったとしても価値はありません。

122:5 (なぜならば、)そこにはさばきの座ダビデの家の王座があるからだ。

 そこには、ダビデの家の王座があるからです。それは、裁きの座です。それが集まってくる理由だと記されています。主への感謝とともに、ダビデの裁きの座があるので、上って来るのです。

 裁きの座は、キリストの裁きの座の比喩です。神の前に出ることは、大いなる感謝ですが、それとともに、キリストの裁きの座で裁きを受けることになります。その人の歩みに対する評価が下されるときです。御心に適った歩みに対して、永遠の資産としての報いが与えられるのです。主を恐れ、主を喜ぶ者にとっては、それは、望みであり、この上ない喜びです。

ペテロ第一

1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、

1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

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122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

 エルサレムのために、その完全さのために祈るように求めています。それは、三節に一つにまとまった都として記されています。比喩としては、教会が完全になるために祈るのです。

 なお、平和は、争いのない状態ですが、ここでは、教会に争いがないことを求めよと言っているのではなく、もっと高度な完全さを求めています。平和であることは幸いですが、それだけではないのです。

 信者の集まりとしての教会を愛する人々に繁栄があるように祈るのです。

・「平和」→完全さ。主の御心を行うことによってもたらされる完全さ。

・「安らかである」→安息がある。繁栄がある。動詞。

122:7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」

 その城壁は、主の守りを表しています。その中に完全さがあるようにと。そして、王宮は、王の家です。それは、キリストがお住みになられることの比喩です。そのキリストに繁栄があるようにと。繁栄は、神の御心が豊かに実現することです。

・「平穏」→安らかさ、繁栄。名詞。

122:8 私の兄弟友のためにさあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」

 そして、ダビデ自身の祈りがあります。それは、キリストの願いです。その兄弟、友は、一人一人の信者です。彼らが完全であるようにと。

122:9 私たちの神主の家のために私はあなたの幸いを祈り求めよう。

 その祈りは、神主の家のためです。そこに臨在される神の栄光のためです。それですから、祈り求めることは、彼らが神主の御心に適うことです。

 なお、神の家のためと言っても、建物のために祈っても意味がありません。これは、神のためということです。そして、家と言っているのは、神がそこに臨在されてかられることを強調しています。そこに御名を置き、臨在されるのは、そこにいて、イスラエルのために御力を働かれされることを表しています。

・「幸い」→良いこと。神の目に適ったこと。名詞。