詩篇119篇
この詩は、ヘブル語の二十二のアルファベットから始まる句が八節ずつの組になっています。
א
ALEPH.
119:1 幸いなことよ全き道を行く人々主のみおしえに歩む人々。
「幸いなことよ」という言い表わしは、神の前に祝福された神の目に適っていることを表現しています。人としてあるべき最も幸いな状態にある人のことです。
この詩では、「全き道を行く人々」です。全きとは、「主の教えに歩む」ことです。それが人に求められている完全さです。
・「みおしえ」→法令。特に十戒、モーセ五書。
119:2 幸いなことよ主のさとしを守り心を尽くして主を求める人々。
それは、「主のさとしを守る」ことです。教えに歩むとは、教えを守ることです。そして、それは、「心を尽くして主を求める」ことであり、形式的に教えを守るのではなく、心を尽くして主を求めることとして教えを守るのです。
・「さとし」→証言。
119:3 まことに彼らは不正を行わず主の道を歩みます。
彼らは、不正を行わないのです。主の道を歩みます。
119:4 あなたは戒めを仰せつけられました。それらを堅く守るように。
主ご自身が、法令として律法を与えられました。それは、堅く守るべきものとして与えられたのです。
・「戒め」→法令。
119:5 どうか私の道が堅くされますように。あなたのおきてを守るために。
道が堅くされ、主のおきてを堅く守ることができるように願いました。
・「おきて」→法令。
119:6 そうすればあなたのすべての仰せを見て私は恥じることがありません。
そうすれば、主の命じられたことを守っているのですから、その命令を見ても恥じることはないのです。正しい道を歩んでいないならば、神の仰せを見て恥じることになります。
・「仰せ」→命令。まとめて法律。
119:7 あなたの義のさばきを学ぶとき私は直ぐな心であなたに感謝します。
義は、神の正しさです。裁きは、評決です。神は、善に対しても悪に対しても正しい評決をされます。この人は、それを学んだのです。すなわち、経験したのです。それで、その正しい評決を喜んで受け入れることができます。彼自身が正しさを喜びとしているからです。それを「直ぐな心で」と表現しています。
119:8 私はあなたのおきてを守ります。どうか私を見捨てないでください。
見捨てないことを求めるのは、それが正しい裁きに基づくことであるからです。掟を守る者を正しく評価するならば、見捨てることはあり得ないのです。それが主のおきての約束することであるからです。大胆に求めることができます。
ב
BETH.
119:9 どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。
若い人は、分別よりも欲情が強く働き、道を踏み外す可能性が高いのです。そのような人が道を清く保つためには、御言葉によることです。
「あなたのみことばのとおりに道を守ることです。」→「(道を)守ることに関しては、御言葉によることです。」
・「みことば」→言葉。
119:10 私は心を尽くしてあなたを求めています。どうかあなたの仰せから私が迷い出ないようにしてください。
この人は、心を尽くして主を求めました。彼が求めていたのは、主です。心を尽くして求めていました。主と一つであることを求めたのです。これは、形式的におきてを守ることとは全く違います。今日でも、形式的な信者は多いのです。彼が求めたことは、主の仰せから迷いでないことです。迷いでたら、主を逃してしまいます。
・「求める」→追跡するためについていく。
119:11 私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。
この人は、主の言葉を心に銘記しました。知識としてたくさん覚えたということでなく、心に刻んだのです。御言葉から逸れて罪を犯さないためです。
・「みことば」→語られた言葉。
・「蓄える」→秘める、銘記する。
119:12 主よあなたはほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。
主の道に歩むことで、この人は、賛美に導かれました。賛美の対象となる具体的な事柄は、次節以降記されています。おきてに歩むことで賛美が出てくるのです。それで、はじめにおきてを教えてくださることを願いました。おきてを守ることで大きな喜びを経験するので、おきてを教えられることを心から願いました。
119:13 私はこの唇で語ります。あなたの御口のさばきすべてを。
彼の賛美は、彼が唇で語ろうとしていることです。それは、主の御口の裁きの全てです。彼の口と、主の御口が対比されています。
御口の裁きとは、主の言葉による判断に基づく裁きすなわち評決のことです。主は、御言葉どおりに正しく裁かれるので、その全てを賛美するのです。
119:14 私はあなたのさとしの道をどんな宝よりも楽しんでいます。
さとしの道は、御言葉を守って歩む道のことです。そこでは、どんな宝にも勝って価値あるものを見出すのです。それで、楽しんでいるのです。
119:15 私はあなたの戒めに思いを潜めあなたの道に私の目を留めます。
それで、主の戒めに思いを潜めます。戒めをよく考えます。そして、歩む道をよく見ます。教えに適っているかどうか吟味しつつ歩むのです。
・「思いを潜める」→熟考する。
・「目を留める」→ひたすら見る。
119:16 私はあなたのおきてを喜びとしあなたのみことばを忘れません。
主の言葉に歩むことで楽しみを経験できますので、それをもたらす御言葉を喜びとしているのです。ですから、決してその言葉を忘れないのです。
ג
GIMEL.
119:17 あなたのしもべに豊かに報い私を生かし私があなたのみことばを守るようにしてください。
この人を生かすことは、豊かに報いることです。これは、御国での報いのことです。その報いがいただけるためには、御言葉を守る必要があります。そうさせてくださいと願っています。
119:18 私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。
目を開くことは、信仰によって見ることの比喩です。目を留めることは、注視すること、関心を抱くことを表しています。目を留めないと心には入らないのです。御教えを眺めていただけでは、自分のものにはなりません。心を留めるのです。それは、奇しいからです。奇しいことであると分かれば、関心を抱くのです。目を留めるのです。
119:19 私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。
地上では旅人であり、アブラハムのように天の故郷に憧れる者です。御国が目的ですから、この地上のことは価値がないのです。御国で栄光を受けるためには、主の仰せを守ることが必要です。その仰せを隠さないでくださいと求めました。
119:20 いつのときもあなたのさばきを慕い求めて私のたましいは押しつぶされるほどです。
たましいと言い表すことで、彼が求めていたことは、神の言葉に従って生きることです。主は、そのような歩みを正しく評価して、彼に永遠の資産としての報いを備えてくださいます。それを慕い求めていたのです。たましいは、押しつぶされそうになるほど神の裁きを慕い求めていました。
119:21 あなたはあなたの仰せから迷い出る高ぶる者のろわれるべき者をおとがめになります。
高ぶる者は、神の言葉に対して高ぶっている者です。それで、迷い出ます。また、神の言葉に背くことで呪われるのです。
119:22 私からそしりと蔑みを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです。
彼は、そしりと蔑みを受けていました。それは、人の評価によります。彼が求めていたのは、神の評価です。彼は、謗りと蔑みを取り去ってくださることを願いました。彼は、さとしを守っているからです。さとしを守ることは、契約の履行です。それに応えてくださることを願っています。
119:23 たとえ君主たちが座して私に敵対して語り合ってもこのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。
彼に敵対する者たちが君主であったとしても、彼らが彼のことを語り合ったとしても、彼は、神の掟に心を潜めました。彼は、神の言葉にこそ従うことを求めていました。
119:24 あなたのさとしこそ私の喜び私の助言者です。
彼は、そうすることを喜びとしていました。さとしが彼に助言を与え、導くのです。
ד
DALETH.
119:25 私のたましいはちりに打ち伏しています。みことばのとおりに私を生かしてください。
たましいが塵に打ち伏すことは、「生かす」ことと対比されていて、正常な状態にないことを表しています。二十八節には、「私のたましいは悲しみのために溶け去ります」とあり、悲しみの中にあることが表現されています。その次の節には、「私から偽りの道を取り除いてください」とあり、悲しみの原因は、彼が道から逸れたことにあります。
彼は、そのような状態から立ち返ることを願っています。それで、自分を低くし、打ち伏しているのです。塵は、価値のないものを表しています。自分が神の前に価値のない者になっていることを表現しています。
彼の願いは、御言葉によって生かすことです。すなわち、神の言葉に従って生きることができるようにしてくださることです。
神の言葉に、生かすことが約束されているのです。生きることは、御言葉によるのであり、御言葉に従って生きることであるのです。
119:26 私は自分の道を申し述べました。するとあなたは私に答えてくださいました。どうかあなたのおきてを私に教えてください。
自分の道を申し述べたことは、自分の状態を告白することです。自分の不正を隠すことはありませんでした。そのような彼に主は答えてくださったのです。生かしてくださることを願いましたが、掟のうちを歩むことが生きることであるので、それを教えてくださることを願いました。
119:27 あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私があなたの奇しいみわざを語り伝えることができるように。
悟ることは、戒めを理解することすなわち行うことです。それによって、主の奇しい御業を経験し、それを語り伝えることができるためです。正しい求めの願いは、主の栄光のためです。
119:28 私のたましいは悲しみのために溶け去ります。みことばのとおりに私を強めてください。
たましいは、悲しみのために溶け去りました。そのような中から、御言葉により強めてくださることを願いました。溶け去ることは、力を失っていることを表します。
119:29 私から偽りの道を取り除いてください。みおしえをもって私をあわれんでください。
偽りの道を取り除いてくださることを願いました。また、御教えの約束どおりに喜んで応えてくださることを願いました。
・「あわれむ」→(主を)求める者に喜んで応えること。これは、御言葉に約束されていること。懇願(人の場合)。
119:30 私は真実の道を選び取りあなたの定めを自らの前に置きました。
彼は、神の定めを目の前に置き、それに従って生きる真実の道を選び取りました。
119:31 私はあなたのさとしに固くすがります。主よどうか私に恥を見させないでください。
彼は、さとしに固くすがり、離れることなく従うことを表明しました。それで、御言葉に従って生きるので、恥を見ないようにしてくださることを願いました。
119:32 私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが私の心を広くしてくださるからです。
彼は、走ると言い表しました。より御言葉に忠実に熱心に歩むことを表しています。その理由が言い表されていて、主が彼の心を広くしたからです。心は、御言葉を受け入れ従う部分です。彼は、御言葉を受け入れ従うことが強められたのです。
ה
HE.
119:33 主よあなたのおきての道を教えてください。そうすれば私はそれを終わりまで守ります。
掟の道を知らせることは、前の段落から続いています。非常に強い求めです。教えてくださるならば、それを終わりまで守ると言いました。
119:34 私に悟らせてください。私があなたのみおしえから目を離さず心を尽くしてそれを守るために。
その教えを固く守るために必要なことを求めました。前節では、教えてくださることを願いました。ここでは、さらに進んで、それを守ることを願い、そのために必要なことを求めています。それは、悟ることです。教えを理解することで、教えから目を離さなくなります。
そして、心を尽くして守るようになります。御言葉が、その人にとって非常に価値ある尊いものになるからです。それを守ることが大いなる利益をもたらすからです。もし、私たちが御言葉を守るならば、永遠の報いを資産として受け継ぐことになります。
もし、ある人にとって、聖書の言葉が無味乾燥に感じられ、関心を示すことがないとすれば、それは、書かれていることを理解しないからです。
ネヘミヤ
8:7 ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はその場に立っていた。
8:8 彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。
8:9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全体に向かって言った。「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。
8:10 さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」
8:11 レビ人たちも、民全体を静めながら言った。「静まりなさい。今日は聖なる日だから。悲しんではならない。」
8:12 こうして、民はみな帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。
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民は、読まれて解き明かされたことを理解しました。そして、その理解したことを強く心に留めました。彼らは、理解したので大いに喜びました。
・「悟る」→わかる。識別する。理解する。
119:35 私にあなたの仰せの道を踏み行かせてください。(なぜならば)私はその道を喜んでいますから。
次に求めたことは、仰せの道を実際に踏み行くことです。実践させてくださることを願いました。その人は、その道を喜んでいるからです。その道を歩むことが喜びであることを知っているのです。既に経験しているのです。さらに、その道を歩むことを願いしまた。
119:36 私の心をあなたのさとしに傾かせ不正な利得に傾かないようにしてください。
心が傾く方向について、さとしに傾かせ、不正な利得に傾くことがないようにと求めました。欲望に従い、教えから離れることがないことを願いました。心は、どちらか一方にしか傾かないのです。
119:37 むなしいものを見ないように私の目をそらせあなたの道に私を生かしてください。
また、むなしいものすなわち、全く価値のないものに目を留める事なくそらすようにしてくださることを願いました。そして、教えの内を堅く生きるように求めました。
・「道に生かす」→道の中で生きるようにする。強意語幹。
119:38 あなたのしもべへの仰せのことばが成り私があなたを恐れるようにしてください。
しもべへの仰せは、この人自身が示された御心です。それを実現してくださることを求め、その実現を見て、主を恐れるようにしてくださることを求めました。主の言葉を信じた者に対して、主がその約束を実現することを求めています。それとて、主を恐れることを目的としていて、主の栄光のためであるのです。
119:39 私がおびえているそしりを取り去ってください。あなたのさばきはすぐれて良いからです。
さらには、守りについて願いました。彼は、そしりを受けて怯えていました。そのそしりを取り去ってくださるように願いました。そのことは、主の裁きとして行われることです。それは、主の裁きは、良いすなわち主の目に適っているからです。
119:40 ご覧ください。私はあなたの戒めを慕っています。あなたの義のわざにより私を生かしてください。
戒めを慕っているので、その戒めどおりに正しく事をなすことを願ったのです。あなたの「義すなわち正しさ」の中に生かしてくださることを願いました。神の正しさが実現する中に生きることを願いました。神の御心を慕い求める者に、神が義をもって応えてくださることを期待したのです。
ו
VAU.
119:41 主よあなたの恵みが私にもたらされますように。あなたの救いがみことばのとおりに。
彼は、主が契約通りに忠誠をもって約束を果たすことを求めました。それは、信じる者に救いをもたらすこととして求められています。それは、御言葉に記されている契約に基づく求めです。
・「恵み」→契約に対する忠誠。後半に「御言葉のとおりに」と記されていて、御言葉による約束すなわち契約に基づくことがわかります。
119:42 そうすれば私をそしる者に対して言い返すことができます。私はあなたのみことばに信頼していますから。
そしる者は、彼が御言葉に信頼していることをそしるのです。彼が救いを求めたのは、主が記されている言葉のとおりに力を現されることで、その御言葉が偽りのない空しいものではないことが明らかにされるからです。そうすれば、そのそしりこそが見当外れであることが明らかになるからです。
119:43 (そして)私の口から真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私はあなたのさばきを待ち望んでいるのです。
「口から真理のみ言葉を取り去る」ことは、そしる者のそしりに口を閉ざすことになることです。前節と接続詞で繋がれていて、内容が、前節と深い関係にあることがわかります。主が御力を現してくださらないことでそうならないように求めているのです。彼は、主の裁きを待ち望んでいます。主が、御言葉を信じる者に応えることを待っています。
119:44 こうして私はあなたのみおしえをいつもとこしえまでも守ります。
このように、主が応えることを経験しつつ、いつも、とこしえまでも御教えを守ります。主は、ますます応えてくださるのです。ここには、成長の螺旋があります。
119:45 そうして私は広やかな所に歩いて行きます。(なぜならば)あなたの戒めを私が求めているからです。
119:46 (そして)私はあなたのさとしを王たちの前で述べしかも恥を見ることはありません。
「広やかなところ」を歩むことは、その理由が示されていて、戒めを求めていて、それを王たちの前で述べて恥を見ることがないからです。王であっても、神の言葉のうちを歩むことを押さえつけることができない自由の中に歩むことができることです。
ここでは、接続詞が節の関連付けを明確にしています。日本語に訳されていないことで、節の関係が不明確になっています。
119:47 (そして)私はあなたの仰せを喜びます。それを私は愛します。
さらに、この人自身は、神の仰せを喜び、愛します。それが彼のものとなっていて、彼は、それを愛していて、心からの喜びとなっているからです。
119:48 (そして)私は愛するあなたの仰せを求めて両手を上げあなたのおきてに思いを潜めます。
彼は、それを愛しているので、さらに主に求めました。両手を上げて、心からの求めとして求めました。そして、掟に思いを潜めました。単に聞くだけではなく、熟考したのです。
ז
ZAIN.
119:49 どうかあなたのしもべへのみことばを心に留めてください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。
彼は、神が彼に示した御言葉を心に留めてくださるように願いました。その言葉どおりに神が業をなすことを期待しているのです。彼に言葉が与えられたことで、彼は、それを待ち望むようになりました。
119:50 これこそ悩みのときの私の慰め。まことにあなたのみことばは私を生かします。
御言葉に基づく祝福がもたらされることは、望みであり、「励まし」なのです。その祝福を望んで力強く歩むことができるからです。その御言葉が励みになり、彼を生かす力となるのです。
・「慰め」→「慰める」は、悲しみや苦しみを共有して寄り添うこと、「励ます」は、力づけることをいいます。しかし、この日本語訳では、整合しません。心が宥められても、必ずしも生きる力にはならないからです。
119:51 高ぶる者はひどく私を嘲ります。しかし私はあなたのみおしえからそれません。
高ぶる者は、神の教えの上を行く者のことです。高ぶりの本質は、御言葉に対する高ぶりです。しかも、彼は、この人が御言葉を頼りに生きていることを酷く嘲るのです。
しかし、この人は、神の教えから逸れませんでした。
119:52 主よ私はあなたのとこしえからのさばきを心に留め慰めを得ます。
彼が目を留めていたのは、主の裁きです。主が、ご自分の目に適う評決を出されます。それは、とこしえの昔からなされてきたことです。彼は、その裁きに心を留め、神の言葉に従う者に対して祝福を与えることを信じ、励ましを受けていたのです。
・「慰め」→「慰める」は、悲しみや苦しみを共有して寄り添うこと、「励ます」は、力づけることをいいます。しかし、この日本語訳では、整合しません。心が宥められても、必ずしも生きる力にはならないからです。
119:53 悪しき者あなたのみおしえを捨てる者のゆえに激しい怒りが私をとらえます。
主の御教えを捨てる者を悪しき者と言いました。この人は、悪しき者に対して激しい怒りを持ちました。主は、不信仰に対して怒られます。彼も同じでした。それだけ彼は、神の言葉を信じることにおいて、真っ直ぐであり、神の言葉に従わないことがない歩みをしていました。少しでも、彼に、神の言葉を捨てるような点があるとすれば、彼は自分を裁くことになります。
119:54 あなたのおきては私の旅の家で私の歌となりました。
この人は、滞在の家で、掟を彼の歌としていました。いつでも覚え、口づさんでいたことを表します。
・「旅の家」→滞在の家。一時的に留まる場所での家。
119:55 主よ夜にはあなたの御名を思い起こしあなたのみおしえを守ります。
夜には、昼の出来事を思い起こし、そこに現された主の御名を覚えたのです。そこに主の栄光が現されましたから、ますます、主の言葉を守り、従うことを表明しています。そこには、成長の螺旋があります。
119:56 これこそ私のもの。私があなたの戒めを守っているからです。
このように、主の言葉に従うことで、彼は主の御名を知ることを非常に価値あることとしています。これこそ私のものと言い、手放すことがないことを言い表しています。それは、この人が主の戒めを守っているからです。戒めを守ることでその価値を経験しているからです。
ח
HETH.
119:57 主は私への割り当てです。私はあなたのみことばを守ると申し上げました。
この人にとっては、主は、割当すなわち相続地です。彼は、自分のものとして受け取りました。それを手放すことはありえないことです。
彼は、それで主の言葉を守りますと表明しました。相続地として受け継いだのであれば、その地の最大限の祝福を望むのです。御言葉を守ることで、その祝福を彼が獲得できます。
119:58 私は心を尽くしてあなたに乞い求めます。みことばのとおりに私をあわれんでください。
彼は、心を尽くして乞い求めました。それに対して喜んで応えてくださいと願っています。大胆な求めですが、後半に記されているように、それは、契約の条項です。御言葉に求める者には喜んで応えることが記されているからです。
・「あなたに乞い求め」→顔に乞い求め。
・「あわれむ」→求める者に喜んで応えること。「御言葉のとおりに」と記されているように、契約の条項です。
119:59 私は自分の道を顧みてあなたのさとしの方へ足の向きを変えました。
この人は、自分の道を考えました。彼は、向きを変えたのです。歩んでいるところが悪かったのです。
これは、考えを変えることで、新約聖書では、「悔い改め」のことです。
・「顧みる」→考える。
119:60 私はすぐためらわずにあなたの仰せを守りました。
彼は、考えて、それが御心に敵わないことを知ったならば、すぐにその仰せを守りました。
119:61 悪しき者の綱が私に巻き付いてもあなたのみおしえを私は忘れませんでした。
悪しき者の綱は、彼の歩みを妨げようとしたのです。御言葉に従うことをやめさせようとしました。しかし、そのような中で、御教えを忘れることはなかったのです。
119:62 真夜中に私は起きてあなたに感謝します。あなたの正しいさばきのゆえに。
主は、正しい裁きをしてくださいました。それで、真夜中にもかかわらず、主に感謝しました。
119:63 私はあなたを恐れるすべての人あなたの戒めを守る人たちの仲間です。
彼は、神を恐れる人また、その戒めを守る人と仲間です。
119:64 主よ地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください。
地は、主が契約を忠誠をもって果たされることに満ちています。御言葉を守る者に対して、主は、喜んで応え、御業をなしてくださいます。彼の割当は、このように祝福に満ちていました。それで、彼は、さらに教えを求めました。主が契約を果たされることをいよいよ知ることができるからです。
・「恵み」→契約に対する忠誠。
ט
TETH.
119:65 主よあなたはみことばのとおりにあなたのしもべに良くしてくださいました。
主は、御言葉どおりによくしてくださったのです。
119:66 良い判断と知識を私に教えてください。(なぜならば)私はあなたの仰せを信じています。
彼が求めたことは、良いことすなわち御心に適った判断と知識です。神の御心に適うことは、判断すなわち御言葉に従う分別と、知識すなわち御言葉です。
彼は、それを信じているからです。御言葉を教えて下さいと願うならば、それを信じる者でなければなりません。信じなければ、教えてもらう価値がありません。
・「良い」判断→良い:名詞。限定語。コンストラクト。
119:67 苦しみにあう前には私は迷い出ていました。しかし今はあなたのみことばを守ります。
この人は、迷い出ていました。しかし、苦しみを受けてから、回復しました。かつては、神の言葉を守らなかったのです。今は、守っています。
119:68 あなたはいつくしみ深く良くしてくださるお方です。どうかあなたのおきてを私に教えてください。
あなたは、良い方。良いことをされる。すなわち、御心に適ったことをされます。それで、自分が御心に適う者となるために、おきてを教えてくださることを求めました。
・「いつくしみ深く」→良い。御心に適っていること。
119:69 高ぶる者は私を偽りで塗り固めましたが私は心を尽くしてあなたの戒めを守ります。
高ぶる者は、御言葉に対して高ぶる者のことです。彼は、御言葉を受け入れていないし、従おうとしません。自分の考えを主張する人です。ですから、彼は、御言葉を信じて従う人を正しく知ることはないし、評価できません。そして、そのような人の生き方が誤っているかのように言うのです。偽りで塗り固めます。そのような中で、この人は、御言葉を受け入れ、その戒めを守る人です。
119:70 彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし私はあなたのみおしえを喜んでいます。
彼らの心は、鈍感です。脂肪のようにと形容されていますが、これは、自分を肥え太らし、神の言葉に従わないこととかけています。自分の欲望のままに生きているのです。そのような人が御言葉に対して鈍感なのです。御言葉が示す祝福について、それを考えたり、獲得するために飛びつくようなこともありません。そのような人は、自分で聖書を研究しようとはしません。教会での勧めの言葉に耳を傾けることもしません。居眠りしたりするのです。御言葉を自分のものするには、神言葉に対して敏感であり、それを本気に自分のものしたいという思いが必要です。また、技術的には、その教えを記憶したり、また、果たしてその通りかどうか調べること、メモを取るなどの工夫が必要です。
この人は、教えを喜んでいます。喜んで聞くし、喜んで行うのです。
119:71 苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。
苦しみに会ったことも良いことです。それは、主のおきてを学ぶからです。
・「幸せ」→良いこと。主の目に適ったこと。この段落は、「良い」という主題で繋がっています。
119:72 あなたの御口のみおしえは私にとって幾千もの金銀にまさります。
彼にとつて主の教えは、幾千の金銀にまさる価値があります。
比喩の一つの方法として、比較対象となっているものより優れていることを言っているのですが、その対象となるものが実は、比喩になっています。金は、義の比喩、銀は、贖われた者としての歩みすなわち、肉にはよらず御霊による歩みの比喩になっています。それが御口の教えによってもたらされる価値です。
י
IOD.
119:73 あなたの御手が私を造り私を整えてくださいました。どうか私に悟らせ私があなたの仰せを学ぶようにしてください。
主の御手が体を造り、整えてくださいました。彼が求めたことは、彼の霊を整えることで、主の言葉を悟り、その仰せを学ぶようにしてくださることです。
119:74 あなたを恐れる人々は私を見て喜ぶでしょう。私がみことばを待ち望んでいるからです。
主を恐れる人々は、この人を喜びます。それは、この人が彼らと同じように御言葉を待ち望んでいるからです。
119:75 主よ私は知っています。あなたのさばきが正しいこととあなたが真実をもって私を苦しめられたことを。
彼は、主によって苦しめられました。それは、主の正しい裁きによることであり、それが誠実をもってなされたことを知っていました。
119:76 どうかこのしもべへの約束にしたがってあなたの恵みが私の慰めとなりますように。
前節に記された苦しみは、契約に基づくものです。彼は、苦しみがあることにより主のおきてを学び、さらに御心に適った者になり、祝福を受け継ぐからです。
そのような、主の契約に対する忠誠がこの人の励ましになることを願いました。この「恵み」は、「約束に従って」と修飾されていて、これが約束に基づくものであることが明確です。
・「恵み」→契約に対する忠誠。
・「慰め」→励ます。「慰める」は、悲しみや苦しみを共有して寄り添うこと、「励ます」は、力づけることをいいます。しかし、この日本語訳では、整合しません。心が宥められても、必ずしも生きる力にはならないからです。
119:77 どうかあわれみを私に臨ませ私を生かしてください。(なぜならば)あなたのみおしえは私の喜びです。
彼のことを大切にお取り扱いくださることを願いました。その理由が語られていて、主の御教えを喜びとしているからです。そのような信仰に応えてくださることを願っています。
・「あわれみ」→胎。大切にする。
119:78 どうか高ぶる者が恥を見ますように。(なぜならば)彼らは偽りで私を曲げたからです。しかし私はあなたの戒めに思いを潜めます。
高ぶる者は、それと対比して、神の言葉に対して高ぶる者です。そのような者が恥を見るように願いました。彼らは、嘘をついてこの人を曲げたからです。悪い者のように言ったのです。そのような悪の中でも、彼は、主の戒めに思いを潜めました。いかに、その戒めに適うかを熟考したのです。
119:79 どうかあなたを恐れる人々とあなたのさとしを知る者たちが私のところに帰って来ますように。
高ぶる者の働きによってこの人は悪く言われ、主を恐れる人はこの人を離れて行きました。主のさとしを知る者たちも、この人が主の御心に適わない悪い者として離れたのです。しかし、この人が主を恐れる者であり、そのさとしを知る者であることをその人たちが知って戻ってくるように願いしまた。
119:80 どうかあなたのおきてのうちに私の心が全きものとなりますように。私が恥を見ることのないためです。
この人の心が主の教えの内に全き者となることを願いました。そうすれば、この人が恥を見ることがありませんす。おきてを心から信じて従う者に主が応えられるからです。
כ
CAPH.
119:81 私のたましいはあなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。
この人は、主の救いを慕っていしました。これは、たましいの救いです。神の御心を行って報いを受けることを指しています。
これは、今日、肉にはよらず御霊によって歩み、御心を行うことです。それにより天で報いとしての資産を受け継ぎます。これがたましいの救いです。なお、これは、永遠滅びから救われることだけを意味していません。
そのために必要なものは、主の御言葉です。彼は、御言葉を待ち望んでいました。
ペテロ第一
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
1:9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
--
ペテロの手紙では、「救い」は、御国で報いを受けることを意味しています。その意味を無視しては、正しい理解ができません。イエス・キリストを信じて、永遠の滅びから救われることだけを意味していません。信仰による救いを強調するあまり、聖書の正しい意味を無視してはいけません。
119:82 私の目はあなたのみことばを慕って絶え入るばかりです。私は言います。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と。
彼が御言葉を慕う程度は、彼が絶え入るばかりであると。それが与えられたならば、彼は、慰めを受けるので、御言葉を求めています。
・「慰め」→深い息。
119:83 (なぜならば)煙の中の皮袋のようになっても私はあなたのおきてを忘れません。
なぜならば、煙の中の革袋のようになったが、あなたの掟を忘れなかったからです。彼は、慰めを要求していますが、その根拠を示していて、煙の中の革袋のように干からびてしまっても、主の掟を忘れなかったからです。そのような者に、主が御言葉を示してくださらないでしょうか。
119:84 このしもべの日数はどれだけでしょうか。あなたはいつ私を迫害する者どもにさばきを行われるのでしょうか。
この人の日数は、主の主権により定めています。それがどれだけであるかを問うていますが、迫害する者への裁きを見ることができることを期待しています。
119:85 高ぶる者は私に対して穴を掘りました。彼らはあなたのみおしえに従わないのです。
高ぶる者は、御言葉に対して高ぶる者です。この人は、御言葉を待ち望む人であり従う人です。その高ぶる者は、神の言葉を聞かない者であり、迫害者です。彼らは、この人に対して穴を掘り、陥れようとしています。
119:86 あなたの仰せはことごとく真実です。彼らは偽りで私を迫害します。どうか私を助けてください。
この人は、主の仰せに聞き従う人です。その仰せが真実ですから。しかし、敵対者は、偽りで彼を陥れ、迫害するのです。それで、真実である神の言葉だけが立つように、救い出してくださることを願いました。
119:87 彼らはこの地上で私を滅ぼそうとしています。しかし私はあなたの戒めを捨てませんでした。
偽り者は、この人を滅ぼそうとしています。そのような中でも、この人は、主の戒めを捨てませんでした。困難の中でも、御言葉に立っていたのです。
119:88 あなたの恵みによって私を生かしてください。私はあなたの御口のさとしを守ります。
彼は、主が契約を果たすことで彼を生かしてくださることを願いました。生きることは、単に肉体の命を言っていません。むしろ、彼が主と一つになって歩むことができることです。また、永遠の報いをいただくような歩みができることです。前節には、主の戒めを捨てないことが言い表されていますが、その信仰に応えて、主が契約を果たすことを願っています。
そして、彼は、主の御口のさとしを守ります。彼は、ますます主の契約による祝福を受け継ぐのです。
・「恵み」→契約に対する忠誠。
ל
LAMED.
119:89 主よあなたのみことばはとこしえから天において定まっています。
主の御言葉は、とこしえから天において、決して揺るぐことなく立っているのです。
・「定まっている」→立っている。
119:90 あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えられたので地は堅く立っています。
その御言葉に従って神が事をなさることが「真実」と言い表されています。誠実に、立てた言葉通りに事をなさることです。それは、世々に至ります。それで、具体的に、御言葉に従って立てた地は、今も堅く立っています。
119:91 それらは今日もあなたの定めにしたがって堅く立っています。万物はあなたのしもべだからです。
それらが堅く立つのは、主の定めによります。万物は、主のしもべであり主の言葉に従うのです。
それは、人にも求められていることです。
119:92 もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったらそれなら私は私の苦しみの中で滅んだでしょう。
御教えが喜びであることは、進んでそれを行っていたのです。それが、彼を満たしていたのです。
もし、御教えを喜びとしていなかったならば、苦しみの中で立つことはできなかったのです。この滅びは、彼が永遠の滅びに入ることではなく、いわば信仰の躓きを経験することです。神の前に生きた歩みができず実を結ばないことです。それは、また、永遠の報いを失うことです。
彼がそのような状態に陥るとこがなかったのは、御言葉を喜びとしていたからです。主が定めたことが必ずなると信じ続けていたからです。
119:93 私は決してあなたの戒めを忘れません。それによってあなたが私を生かしてくださったからです。
滅びと対比されて、生かしてくださったことが言い表されています。彼が生かされたのは、主の戒めを決して忘れないことによります。
119:94 私はあなたのもの。どうか私をお救いください。私はあなたの戒めを求めています。
自分が主のものであることを言い表しているのは、すべてのものは主のしもべであり、自分がそのしもべの一人として、自分を通して主が御言葉の定めの通りに事をなしてくださることを願っての言い表しです。それで、続けてお救いくださいと具体的な願いを言い表しています。その救いは、主の言葉を求めて従う者に主が応える定めによることなのです。救いを与える根拠を続けて言い表し、主の戒めを求めているからです。
119:95 悪者どもは私を滅ぼそうと狙っています。しかし私はあなたのさとしを聞き分けます。
彼が会っている苦しみは、悪者どもが彼を滅ぼそうとしていることです。そのような苦しみの中で、彼は、主のさとしを聞き分けていました。多くの人にとって、苦しみは、あってほしくないもの、避けたいものと考えます。しかし、苦しみであっても主のさとしを聞き分けることで、その言葉に信頼し続けることができます。
苦しみを見て、不平や不満、あるいは恐れなどを抱くのでなく、主の言葉によって、御心に適って行動することができるのです。
119:96 私はどんな全きものにも終わりがあることを見ました。しかしあなたの仰せは実に広いのです。
→「すべての完全さに終わりを見ました。」
すべての完全なものも終わるのです。しかし、主の仰せは、実に広く、終わりがないのです。
悪者どもがどれほど働いて滅ぼそうとしたとしても、終わりがあるのです。しかし、主の仰せは、いつまでも厳然として立っています。
מ
MEM.
119:97 どれほど私はあなたのみおしえを愛していることでしょう。それがいつも私の思いとなっています。
この人は、主の御教えを愛していました。それは、この人がいつも主の仰せを自分の思いとしているからです。
自分の考えを主張する人、肉に従う人、この世のものを求める人は、主の仰せを自分の思いとはしていません。
119:98 あなたの仰せは私を敵よりも賢くします。それがとこしえに私のものだからです。
主の教えは、この人を賢くします。その賢さは、敵と比較されています。敵よりも賢くするのです。その理由が示されていて、主の仰せがとこしえにこの人のものであるからです。その有効性、継続性は、永遠であるからです。敵が賢く見えるのは、一時であるからです。
なお、ここからは、節の後半に理由が記される構成になっています。
119:99 私には私のすべての師にまさる賢さがあります。あなたのさとしが私の思いだからです。
その賢さは、師と比べられています。師にまさるのです。なぜならば、主のさとしがこの人の深い思いであるからです。
・「思い」→瞑想。
119:100 私は老人たちよりも見極めができます。私があなたの戒めを守っているからです。
次は、見極めすなわち区別の能力について、老人と比較されています。この見極める能力は、霊的経験によって養われます。この人が、老人よりもその能力について優れているのは、戒めを守って歩むことを日常の経験としているからです。
119:101 私はいかなる悪の道にも足を踏み入れません。あなたのみことばを守るためです。
彼がいかなる悪の道にも足を踏み入れないのは、主の御言葉を守るためです。
119:102 私はあなたの定めから外れませんでした。あなたが私を教えられたからです。
彼には、御言葉に従う歩みがありました。主の定めから外れませんでした。なぜならば、主がこの人を教えられたからです。この人は、教えられたとおりに歩んでいました。
119:103 あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
主の御言葉は、彼の口に甘かったのです。彼は、喜んでその御言葉を受け入れました。それは、蜜よりも甘かったのです。蜜は、喜びの比喩でもありすが、御言葉を受け入れることに勝る喜びはなかったのです。
人は、御言葉の全部を受け入れようとはしません。自分にとって都合の良いことだけを受け入れようとします。テモテに対して、人々が自分のために教師を寄せ集めることが警告されています。
キリストによって愛されていることを教える御言葉を喜びとしますが、キリストのために自分を捧げる教えからは耳を背けます。
119:104 私にはあなたの戒めがあり見極めができます。それゆえ私は偽りの道をことごとく憎みます。
彼は、知識として主の戒めがあり、彼の経験を通して学んだ見極めがありました。それで、全ての偽りの道を憎みます。知識においても、歩みにおいてもそれを憎み、完全に退けるのです。
נ
NUN.
119:105 あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。
この人にとっては、主の御言葉は、足のともしび、道の光です。ともしびは、足元を照らすものとして表現されてます。今、歩むときにいいかに歩むかを教えます。
それと対比して、道は、彼の進んでいく方向性を示します。将来を見据えた歩みを教えるものです。
119:106 私は誓いまたそれを果たします。あなたの義の定めを守ることを。
彼の誓いは、義の定めを守ることです。神の前に義とされることが何であるかを示す定めです。彼は、それを誓い、果たすのです。
119:107 私はひどく苦しんでいます。主よみことばのとおりに私を生かしてください。
この人は、生かしてくださることを願いました。これは、肉体のことではなく、彼が生きた歩みをすることを求めているのです。それを求める理由が前半に示されていて、彼が主の前に謙っているからです。この自分を低くすることは、主の言葉に対する謙りであり、主の言葉を受け入れ従うことを表しています。そのような人だから、神の前に生きた歩みをなさしめてくださいと願っているのです。生かす願いは、強意語幹で、強い求めになっています。
なお、苦しむことと、神の前に生きた歩みをすることは、直接には関係ありません。また、苦しんでいるから主が救わなければならない理由とはなりません。
・「苦しんでいる」→低くなっている。
119:108 どうか私の口から出る進んで献げるものを受け入れてください。主よ。あなたのさばきを私に教えてくだもさい。
この人は、主の裁きを教えてくださるように願いました。これは、強意語幹で、強い求めになっています。裁きは、神の正しい裁きを現すことで、知識というよりも、彼がそれを経験として知ることを求めています。それで、前半の賛美が関係していて、そのようにして知る主の栄光を賛美するので、それを受け入れてくださるように願いました。
119:109 私はいつもいのちがけです。それでもあなたのみおしえを忘れません。
たましいが掌の内にあることは、物理的にはあり得ないことで比喩です。手は、行いを表しています、たましいは、神の言葉に従う部分です。この人の行いの全ては、たましいの活動であることを表しています。
前半と後半は、接続詞「そして、あるいは、しかし」でつながれています。ここでは、そしてであり、主の御教えを忘れないのです。
御言葉に従って生きる中で、その御言葉は、彼に堅く結びつくのであり、その教えを忘れることはないのです。教えを忘れるのは、その教えの中に生きていないからです。
・「私はいつもいのちがけです」→私のたましいは、私の掌の内にあります。
119:110 悪者どもは私に対して罠を設けました。それでも私はあなたの戒めから迷い出ません。
悪者どもの罠の中でも、その戒めから迷い出ることはありません。神の戒めの内を歩むことが、前節に示されているように日常の経験であるからです。
119:111 私はあなたのさとしを永遠に受け継ぎました。(なぜならば)これこそ私の心の喜びで(あるからで)す。
彼が主のさとしを永遠に受け継いだのは、彼にとって、それは心の喜びであるからです。永遠に受け継いだことは、確定したことではなく彼にとってそれが永遠に自分のものであることを強調した表現なのです。
119:112 私はあなたのおきてを行うことに心を傾けます。いつまでも終わりまでも。
主のさとしは、本当に彼のものになっているのです。彼は、それを行うことに心を傾けました。彼は、それをいつまでも続けるのです。とこしえまでも。これは、誇張でなく、いのちの水の川は、御言葉と聖霊の比喩です。主を知ることは、永遠のことであり、御言葉と聖霊の働きによります。
ס
SAMECH
119:113 私は二心のある人たちを憎み(しかし、)あなたのみおしえを愛します。
彼は二心のある人たちを憎みました。彼らは、主の教えを受けますが、それに従う心がありません。そのような者を憎んだのです。
しかし、この人は、主の御教えを愛します。
私たちが、主を信じると言いながら、主の教えを愛していないならば、二心なのです。
119:114 あなたは私の隠れ場私の盾。私はあなたのみことばを待ち望みます。
彼が御教えを愛していることは、主がその言葉に従って行動されるからであり、主を隠れ場としまた盾としていました。その時待ち望んでいたのは、主の御言葉です。御言葉どおりに事をなされるからです。
119:115 悪を行う者どもよ私から遠ざかれ。この私は私の神の仰せを守る。
彼は、悪を行う者とは分離しました。離れ去れと。この人は、主の仰せを守りました。悪とは決して交わらないことを表明しています。
119:116 あなたのみことばのとおりに私を支え生かしてください。私の望みのことで私を辱めないようにしてください。
彼が主の言葉を待ち望み、それを守ったのは、主は、その御言葉どおりに彼を支えるからです。主の言葉に従う者に対して、御言葉に示した祝福を与えるからです。この人が望みとしていたことは、御言葉どおりに主が祝福してくださることです。その望みが辱められないように願いました。主が応えてくださらなければ、恥を受けるのです。
119:117 私を支えてください。そうすれば私は救われ絶えずあなたのおきてを見つめることができます。
主が彼を支えるならば救われるのです。そうすることで、彼はますます主の言葉を絶えず見つめるのです。主が御言葉どおりに事をなすことを知り、いつでも御言葉を信じて、従うのです。見つめることは、比喩で、信仰の比喩です。深く信じ、信頼し、従うのです。
119:118 あなたはあなたのおきてから迷い出る者をみな退けられます。(なぜならば、)彼らの偽りは欺きだからです。
主は、主の掟から迷い出る者をみな退けられます。その理由は、彼らは、御言葉に従うように見せて従わないのです。偽りなのです。それは、欺きで、偽りを意図しているのです。人は、欺かれるかもしれませんが、主は、欺かれることなく、彼らを退けられます。
119:119 あなたは地の上のすべての悪しき者を金かすのように取り除かれます。それゆえ私はあなたのさとしを愛します。
主は地の上の全ての悪しき者を金かすのように取り除かれます。真に価値あるものを残されるのです。それですからこの人は、主のさとしを愛します。
119:120 私の肉はあなたへの恐れで震えています。私はあなたのさばきを恐れています。
この人は、自分の肉を省みたとき、神への恐れで震えていました。それは、神の裁きを恐れていたからです。彼の歩みが神の目に適うことを願っていますが、肉が主の御心に適っていない恐れがあるのです。
ע
AIN.
119:121 私は公正と義を行います。私を虐げる者どもに私を委ねないでください。
このように願っているのは、神の契約に頼っているからです。それは、百二十四節に記されている「恵み」すなわち契約に対する忠誠です。彼が公正と義を行うことを表明しているのは、そのためです。神の言葉を守り、神の御心に適う歩みをしてるならば、主は、契約を忠誠をもって果たし、虐げる者にゆだねるようなことはなさらないからです。
・「公正」→神の評価の良い面。
・「義」→正しいこと。
119:122 あなたのしもべの幸いの保証人となってください。高ぶる者が私を虐げないようにしてください。
この人が神の目に適っていることの保証人になってくださることを願いました。この人が守られるのは、主がご自分の目に適っていることによります。御心にかなわない者を喜んで祝福することはないのです。それで、この人は、そのことを求めたのです。そうすれば、神の言葉に対して高ぶる者が彼を虐げることはありません。神が守られるからです。なお、「幸いの保証」では漠然としています。
・「幸い」→良い。神の目に適っていること。
119:123 私の目はあなたの救いとあなたの義のみことばを慕って絶え入るばかりです。
彼は、主の救いに目を留めていました。この地上の歩みを守ってくださいます。そして、御国に報いを備えてくださいます。それは、義の言葉の内を彼が歩むことで実現するのです。ですから、その救いと義の言葉を慕っていました。絶え入るばかりに慕っていたのです。
119:124 あなたの恵みによってあなたのしもべを取り扱ってください。私にあなたのおきてを教えてください。
彼が求めていたのは、契約に対する忠誠をもって、祝福を与えることです。それは、神の言葉を行うところに実現します。それで、神の掟を教えてくださるように願いました。
・「恵み」→契約に対する忠誠。
119:125 私はあなたのしもべです。私に悟らせてください。そうすれば私はあなたのさとしを知るでしょう。
しもべであることを言い表したのは、神に服従すものであることを表明しているのです。それで、従順に従うことができるために、さとしを悟らせてくださるように願いました。その教えを理解し身に着けることを願ったのです。それが知るということです。単に言葉を知っていても、知ることにはなりません。御言葉を理解して、それが身に着いていなければ、役に立たないのです。
後半の知るは、実体験として知ることです。さとしを自分の経験を通して知ることになるのです。
119:126 今こそ主が事をなさる時です。彼らはあなたのみおしえを破りました。
彼は、彼を虐げる者たちに対して、主が事をなさることを期待しました。それは、彼らが主の教えを破っているからです。
119:127 それゆえ私はあなたの仰せを愛します。金よりも純金よりも。
このように、この人は、神の仰せを、金より、純金よりも愛しました。
直接的には、彼が求めているものの価値が、この世の金や純金よりも価値があることを言い表していますが、比較の対象があらわす比喩は、この人が真に求めているものの比喩になっています。それは、金が表す義であり、純金が表す神聖です。彼は正しくあることを求めただけでなく、神のようになることを求めていました。
エペソ
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
--
キリストの愛を知ることで、神の満ち満ちた豊かさに満たされます。これは、神と全く同じ者になることを表しています。
119:128 それゆえ私はすべてにおいて戒めにしたがってまっすぐに歩み偽りの道をことごとく憎みます。
その価値を覚え、この人は、全てにおいて戒めに従って真っすぐに歩むことを求め、偽りの道をことごとく憎むのです。
פ
PE.
119:129 あなたのさとしはそれゆえ私のたましいはそれに目を留めます。
主のさとしは、奇しいのです。さとしは人の理解を超えたものです。人の常識で測れるものではないのです。人の心に浮かんだことがないものなのです。それゆえ私のたましいはそれに目を留めます。理解し、それを自分のものとするためです。たましいは、神の言葉に従う座です。神の言葉に従おうと目を留めるのです。
・「奇しい」→驚異的な。並外れた。素晴らしい。理解されるのが難しい。
119:130 みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。
御言葉の戸は、開けられる必要があります。少なくとも、それを聞いたり読んだりする必要があります。光が差すのは、神が悟らせようとするからです。浅はかなもの者も悟りを得ます。理解することができるのです。
119:131 私は口を大きく開けてあえぎます。まことに私はあなたの仰せを慕います。
彼が口を大きく開いてあえぐのは、主の仰せを慕っているからです。
119:132 御名を愛する者のために定めておられるように私に御顔を向け私をあわれんでください。
主が御顔を向け、喜んで答えてくださることを願いました。それは、愛する者のために定めておられることで、契約の条項です。
・「あわれむ」→求める者に喜んで応えること。
119:133 みことばによって私の歩みを確かにしどんな不法にも私を支配させないでください。
この人が求めていたことは、確かな歩みです。それができるのは、御言葉によります。御言葉によって歩みますから、どんな不法にも支配されません。
119:134 私を人の虐げから贖い出しあなたの戒めを守るようにしてください。
人の虐げは、時として神の言葉に従う道から離れさせます。この世の多くの困難によって、信仰者は、躓くことがあるのです。彼が求めたことは、そのようなことの中でも、主の御言葉を守るようにしてくださることでした。
119:135 御顔をあなたのしもべの上に照り輝かせあなたのおきてを教えてください。
御顔を照り輝かすことは、神がその人を顧み、光を現すことです。その光は、後半で、主の掟と言い換えられています。この光は、教えです。主は、それを教えてくださる方です。三十節にも、光は、御言葉と関連付けられています。
光は、闇と対比されていて、神の御心に適った命の歩みを表しています。それを与えるものとしての御言葉なのです。
光は、希望として解釈されることがありますが、人にとって、神の前における希望は、御心の内を歩み、永遠の資産としての報いを受けることです。この世の希望とは異なります。
119:136 私の目から涙がとめどなく流れ落ちます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです。
この人は、泣きました。彼を虐げる人々が主の御教えを守らないからです。彼らは、イスラエル人です。しかし、虐げをする者たちです。御教えを守らないならば、報いはないのです。もし、信仰がないとすれば、永遠の滅びです。彼は、それを悲しみました。
צ
TZADE.
119:137 主よあなたは正しくあられます。あなたのさばきは真っ直ぐです。
この段落では、主の正しさ、主の裁きがまっすぐであることが記されています。
119:138 義をもってあなたはさとしを与えられました。この上もない真実をもって。
主は、義を命じられました。そのことは、百四十四節にも記されていますが、そのさとしは、義の命令です。主の証言は、非常に堅いものです。
・「義をもってあなたはさとしを与えられました」→主は、義を命じられました。
・「この上もない真実をもって。」→主の証言は、非常に堅いものです。
119:139 私の激しい思いは私を滅ぼし尽くすほどです。私の敵があなたのみことばを忘れているからです。
激しい思いは、ねたみや熱意であって、憎しみのような思いではありません。彼が激しい思いを抱いたのは、彼の敵が主の言葉を忘れているからです。彼は、人が神の言葉から離れることを激しみねたみました。神に対する熱意がそうさせるのです。その思いが彼を滅ぼすほどに強いものでした。
・「激しい思い」→嫉妬、ねたみ、熱意。
119:140 あなたのみことばはよく錬られていてあなたのしもべはそれを愛しています。
この人自身は、主の御言葉を愛していました。それは、よく練られていました。主がその知恵をもって練られた言葉です。
聖書の言葉は、主が人に知らせるべきことを記されたのです。よく練られた言葉であり、愛すべき言葉です。
119:141 私は取るに足りない者で蔑まれています。しかしあなたの戒めを忘れてはいません。
彼は、人から蔑みを受けていました。人は、彼を正しく評価しません。人間的な判断基準によって判断し、価値のないものとして扱います。しかし、彼は、主の戒めを忘れてはいませんと言い表しました。それは、次の節の言い表しと関係していて、主が義をもって事をなされることを知っており、主の戒めを守る者に対して、その業を現してくださるからです。
119:142 あなたの義のわざは永遠の義あなたのみおしえはまことです。
主の義の業は、永遠の義をもたらす業です。永遠の義が目的となっています。たとえば、この人の場合、敵対者がいますが、人は、その敵対者が取り除かれることを願ったりします。しかし、それは、この世におけるものです。主は、そのような敵対者を備えたのです。そして、ご自分が業をなすことで、永遠の栄光を現すことを目的としています。その栄光は、主が義であるという栄光として現されるのです。人間的な思いに応えるだけの業ではありません。
その御教えも、永遠の義を目的としてものであり、真実です。永遠の義こそ価値あるものであり、それをもたらす主は、真実です。
119:143 苦難と窮乏が私に襲いかかっています。しかしあなたの仰せは私の喜びです。
苦難と窮乏の中でも喜びがあります。主の仰せが喜びであるからです。主の仰せのうちに歩むことが永遠の義をもたらすからです。それは、永遠の資産としての報いをもたらします。苦難や窮乏は、この上ない喜びをもたらします。
119:144 あなたのさとしは永遠に義です。私に悟らせ私を生かしてください。
主のさとしは、この世に関するものではなく、永遠のものです。それは、義に関する教えです。それを悟らせてくださることを願いました。永遠の義を求めることを理解することを願ったのです。そうすれば、私は生きますと。永遠の義を求める者は、神の御心に適う歩みを求めるのです。それが生きることであり、いのちです。
・「さとしは永遠に義です」→あなたのさとしの義は、永遠に関してのものです。
ק
KOPH.
119:145 私は心を尽くして呼び求めます。主よ私に答えてください。私はあなたのおきてを守ります。
彼は心を尽くして呼び求めました。答えてくださいと求めました。これは大胆なことです。しかし、彼は、求めました。自分が主の掟を守っていることを表明しています。これは、百四十九節の「恵み」を信じていたからです。
信仰によって呼び求める者に喜んで応えることは、契約の条項です。
119:146 私はあなたを呼び求めます。私をお救いください。私はあなたのさとしを守ります。
次は、呼び求めることに対して救ってくださることを願いました。さとしを守ることが再び言い表されています。この救いも、主が契約を果たしてくださることで与えられるものです。それで、契約の一方の当事者として、御言葉を守ることを表明しているのです。
119:147 私は夜明け前に起きて叫び求めます。あなたのみことばを待ち望んでいます。
主が喜んで応え、救いを与えてくださることを知っているので、夜明け前から起きて叫び求めます。そして、御言葉を守るために、御言葉を待ち望んでいます。
119:148 私は夜明けの見張りよりも先に目覚めあなたのみことばに思いを潜めます。
彼は、夜明けよりも早く目覚め、御言葉に思いをひそめました。御言葉が何を示しているかを考え、それを守るためにどうあるべきかを考えたのです。
119:149 あなたの恵みによって私の声を聞いてください。主よあなたの定めにしたがって私を生かしてください。
主が声を聞いてくださることは、主の契約に対する忠誠によります。契約の条項であるからです。後半も、「あなたの定めに従って」と言い表されているように、神が契約に示した祝福なのです。それに従って彼を生かしてくださることを願いました。「生かす」とは、肉体の命ではなく、神の前に生きることで、神の御心を行い、義の実を結ぶことです。それは、いのちです。その歩みに対して永遠の資産としての報いが与えられます。
・「恵み」→契約に対する忠誠。
119:150 悪意を遂げようとする者が近づきました。彼らはあなたのみおしえから遠く離れています。
彼には、悪意を遂げようとする者が近づいていました。彼らは、主の御教えから遠く離れています。
119:151 しかし主よあなたがそばにおられます。あなたの仰せはことごとくまことです。
しかし、彼のそばには主がおられます。それは、主の仰せに基づくものです。それで、主の仰せが真実であることを言い表しています。
119:152 私は昔からあなたのさとしで知っています。あなたが永遠にこれを定めておられることを。
この人は、主のさとしを昔から知っていました。主が永遠にこれを定めていました。主の教えを守る者に対して、主がともにおられるのです。
ר
RESH.
119:153 私の苦しみをご覧になり私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。
この人は、苦しみの中にありました。それをご覧になられて助け出してくださるように願いました。御教えを忘れないことが言い表されています。百五十六節の「あわれみ」と百五十九節の「恵み」として示されているように、神の契約に基づいて救いをいただくことであるからです。契約の当事者として、御教えを守ることが必要なのです。
119:154 私の言い分を取り上げ私を贖ってください。あなたのみことばにしたがって私を生かしてください。
彼の願ったことは、彼を生かすことです。御言葉に従ってとありますので、御言葉に約束された命を持つことです。そのいのちは、神と共に歩むいのちです。御心を行い、神と一つになることは、いのちです。贖ってくださいと願いました。贖いは、解放を意味しますが、それとともに、肉にはよらない歩みについて、贖いが適用されています。これは、今日、肉によらず御霊によって歩むことの比喩です。それが生きることです。そこに命があります。
彼は、主の御教えを忘れませんでした。そのような者に対して、応えてくださることは、主の契約です。その御言葉に従って応えてくださることを願いました。
119:155 救いは悪しき者から遠く離れています。彼らがあなたのおきてを求めないからです。
それに対して、悪者は、主の掟を求めません。彼らは、主の救いから遠く離れているのです。この救いは、御国において報いを受けることです。悪者は裁かれて当然ですが、救いから遠いと表現しているのは、彼らが報いを受けることがないことを自分と対比して述べています。掟を求める者にこそ、報いがあるのです。
119:156 あなたのあわれみは偉大です。主よあなたの定めにしたがって私を生かしてください。
彼は、主によって生かされることを願いました。それは、前節の悪しき者が救いから遠く離れていることと対比されています。神の御心を行って歩むことができるようにしてくださることを願ったのです。それが生きることです。そのように、求める者に喜んで応えることが「あわれみ」の意味するところです。そのようにされることが偉大なのです。
・「あわれみ」→信仰によって求める者に喜んで応えること。契約の条項。
119:157 私を迫害し敵とする者が多くいます。しかし私はあなたのさとしからそれません。
彼は、迫害を受けました。多くの敵がいたのです。しかし、そのような中でも、彼は、主のさとしから離れませんでした。さとしを守ることがいのちであるからです。永遠の祝福としての報いをもたらすからです。
119:158 私は裏切る者どもを見て忌み嫌います。彼らがあなたのみことばを守らないからです。
裏切る者は、神の言葉を知っていながら、そこから逸れる者たちのことです。彼らは、御言葉を守らないのです。御言葉を守ることで、大きな報いがいただけるのですが、その価値を求めないことを見て、忌み嫌うのです。
119:159 ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。主よあなたの恵みによって私を生かしてください。
彼は、主の前に自分がどれほど戒めを守っているか、「ご覧ください」と言い表し、主の前に恥じることのない戒めを愛する歩みをしていたことを告白しています。それで、恵みと記されている契約に対する忠誠をもって生かしてくださることを願いました。
119:160 みことばのすべては真実です。あなたの義のさばきはことごとくとこしえに至ります。
御言葉に示しておられることは、必ず実現し、真実なのです。その御言葉によって裁きます。裁きは、肯定的な面と、否定的な面の両面があります。生かすことも、神の評価の結果であり、裁きの肯定的な面です。その裁きは、とこしえに至ります。彼が戒めを愛して従っていることに対する評価は、永遠のものです。ですから、救いについて記し、いのちについて記していますが、いずれも神の評価による永遠の報いを表しています。一時的な敵対者からの救いという意味で記されていません。
ש
SHIN.
119:161 君主たちはゆえもなく私を迫害します。しかし私の心はあなたのみことばにおののいています。
君主たちがゆえなく迫害することは、恐ろしいことです。しかし、この人がおののいていたのは、主の御言葉に対してです。主は、御言葉に基づいて評価されるからです。
119:162 私は大きな獲物を見つけた者のようにあなたのみことばを喜びます。
この人は、御言葉の厳粛さをよくわきまえていて、御言葉におののいていましたが、それとともに、御言葉を非常に大きな喜びとしていました。大きな獲物を見つけたならば、何としてでも獲得したいとときめきます。そのような喜びなのです。御言葉を自分のものにしたならば、大いなる祝福と報いがもたらされます。
119:163 私は偽りを憎み忌み嫌います。私はあなたのみおしえを愛しています。
この人は、偽りを忌み嫌いました。主の言葉は、真実です。彼は、主の御教えを愛しています。
119:164 あなたの義のさばきのゆえに私は日に七度あなたをほめたたえます。
主は、御言葉に基づいて、真実の裁きをされます。それで、この人は、日に七度主をほめたたえました。
119:165 あなたのみおしえを愛する者には豊かな平安がありつまずきがありません。
主の御教えを愛する者には、御心を行うことでもたらされる完全さが豊かにあります。そして、躓きがありません。御心から逸れることが躓きであるからです。
・「平安」→完全さ。平安があることが躓きがないことの根拠にはならない。
119:166 主よ私はあなたの救いを待ち望んでいます。私はあなたの仰せを行っています。
この人がこのように熱心に御言葉を愛して従っているのは、主の救いを待ち望んでいるからです。彼は、御国の報いを望んでいました。そして、主の仰せを行っていたのです。
119:167 私のたましいはあなたのさとしを守っています。限りなくそれを愛しています。
このひとは、そのたましいが主のさとしを守っていると言い表しました。彼は、信仰によって御言葉に従っていたのです。限りなく御言葉を愛して、従っていました。
119:168 私はあなたの戒めとさとしを守っています。私の道はことごとく御前にあるからです。
この人が主の戒めとさとしを守っていた理由は、彼の道として言い表されている彼の歩みは、全て御前にあるからです。主が評価しておられることをわきまえて、その御言葉を守っていたのです。
主が評価しておられることを知ることは、私たちを熱心に歩ませる強い動機付けとなります。
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TAU.
119:169 主よ私の叫びが御前に近づきますように。あなたのみことばのとおりに私に悟りを与えてください。
この人は、主が悟りを与えてくださることを叫び求めていました。切なる求めであることが分かります。彼がそれを主に求めたのは、求める者に悟りを与えることは、御言葉に約束されたことであるからです。
119:170 私の切なる願いが御前に届きますように。あなたのみことばのとおりに私を救い出してください。
その切なる願いは、救い出してくださることと言い換えられています。救い出すことは、彼を支配する者から救い出すことです。それは、元を正せば肉に働く悪魔です。神の言葉に従うことから引き離す働きです。そこから救い出されることを願いました。
・「救い出す」→良い意味でも、悪い意味でも、奪い取る。
119:171 私の唇に賛美が湧きあふれるようにしてください。あなたが私にあなたのおきてを教えてくださるからです。
この人は、掟を教えていただくことで、賛美があふれるように願いました。主は、掟を教えてくださいます。
119:172 私の舌があなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいからです。
彼の舌で御言葉を歌うようにしてくださることを願いました。御言葉が正しいからです。さらにそれを知ることで、さらに歌うことを求めました。
119:173 あなたの御手が私の助けとなりますように。まことに私はあなたの戒めを選びました。
この人は、御言葉を選び、それに従っていました。それで、主の御手が助けとなるように願いました。
119:174 主よ私はあなたの救いを慕っています。あなたのみおしえは私の喜びです。
彼は、主の御救いを慕っているので、御教えはこの人の喜びとなっています。永遠の報いを望むので、御教えが喜びとなります。
119:175 私のたましいが生きあなたをほめたたえますように。そしてあなたのさばきが私の助けとなりますように。
たましいは、御言葉に従う座です。たましいが生きることを経験し、主をほめたたえることを願いました。たましいが生きるとは、御心に適う歩みをして、神の前に実を結ぶ、神から良い評価を受けることです。それは、また、永遠の報いをもたらします。そのことに対して、主の裁きが助けになると言い表しています。この裁きは、主の評価です。良いことを良しとして評価してくださることです。たましいが御言葉に従うことを主の目に適った良いこととして評価してくださることは、たましいが主の言葉に従うことをさらに助けるものです。
119:176 私は滅びる羊のようにさまよっています。どうかこのしもべを捜してください。私はあなたの仰せを忘れません。
この人は、自分を省みる時、迷い出た羊のようでした。羊は、従順なものとして羊飼いに従うものです。しかし、そこから迷い出て、滅びそうでした。神の言葉から離れるならば、滅びです。神の前に実を結ぶことがないのです。それが滅びです。この人のような場合、永遠の滅びに入ることを意味していません。今日の私たちにも、神の前に実を結ばない滅びの状態はあり得るのです。
この人は、主が捜してくださることを願いました。主は、そこから救い出してくださることができます。彼は、主の仰せから離れてはいません。仰せを忘れることはないのです。そのような者を探し出してくださることを願いました。