詩篇118篇

118:1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

 主は、御心に適った良いことをされ、その契約を果たすことは、とこしえまで。

・「いつくしみ深い」→良い。主の目に適っている。「良い」ことは、その判断主体に依存します。この良いは、主の目に適った良さのことです。

・「恵み」→契約に対する忠誠。

118:2 さあイスラエルよ言え。「主の恵みはとこしえまで。」

 イスラエルがそう唱えるように求めています。神の選民としてのイスラエルです。彼らは、主が契約を忠誠をもって果たされたことを経験しているのです。そう言うのが当然なのです。

 なお、これは、契約ですので、当事者の責任が伴います。御言葉に従う中に、契約を果たされます。これを言うことができる方は、幸いな信仰の歩みを経験しているのです。それこそ、本当のイスラエルです。

118:3 さあアロンの家よ言え。「主の恵みはとこしえまで。」

 アロンの家は、祭司の家系の者です。彼らは、より深く主を経験しているのです。

118:4 さあ主を恐れる者たちよ言え。「主の恵みはとこしえまで。」

 そして、主を恐れる者たちは、主を経験しているのです。彼らは、これを言うことができます。

118:5 苦しみのうちから私は主を呼び求めた。主は答えて私を広やかな地へ導かれた。

 主が契約を果たされた具体例が挙げられています。苦しみの中で主を呼び求めると、主は応えられるのです。苦しみから解き放たれたところへ導いてくださいます。

・「広やかな地」→広い場所。比喩的には、自由な状態。

118:6 主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。

118:7 主は私の味方私を助ける方。私は私を憎む者をものともしない。

 主が味方であるならば、人を恐れる必要なはないのです。人は、何もできません。

 主は、助けて下さいます。憎む者は、危害を加えようと図るでしょう。しかし、たとい憎む者があっても、人は、何もできないのです。

118:8 主に身を避けることは人に信頼するよりも良い。

118:9 主に身を避けることは君主たちに信頼するよりも良い。

 主に信頼することは、人に頼るよりも「良い」のです。これは、主の目に適った良さのことです。たとい王であるとしても、彼らに頼るより良いのです。

118:10 すべての国々が私を取り囲んだ。しかし主の御名によって私は彼らを断ち切る。

118:11 彼らは私を取り囲んだ。まことに私を取り囲んだ。しかし主の御名によって私は彼らを断ち切る。

118:12 蜂のように彼らは私を取り囲んだが茨の火のように消された。主の御名によって私は彼らを断ち切る。

 彼を取り囲むものが国々であっても、彼は、それを断ち切ります。主の御名によって断ち切るのです。主の御名によるとは、その業が主によることを表しています。彼は、器として用いられますが、その業をするのは、主です。彼は、そのように信じて、事をなします。主は、彼に応えて、御自分の業をされます。

 彼らは、蜂のように群がり囲みました。彼らは、茨です。そして、その火は、評価を表していて、彼らの考えに基づく評価で、その人を攻撃するのです。それは、茨の火であり、呪われる考えです。彼らの論理で攻撃するのです。しかし、主が業をなし、彼らの思いをことごとく消されるのです。

118:13 おまえは私を激しく押し倒そうとしたが主が私を助けられた。

 彼らは、その人を激しく押し倒そうとしました。しかし、主が助けられます。

118:14 主は私の力またほめ歌。主は私の救いとなられた。

 それで、彼は、主の栄光を見ますので、主をほめ歌とするのです。その力により助け、救いとなられます。

118:15 喜びと救いの声は正しい者の幕屋の内にある。主の右の手は力ある働きをする。

118:16 主の右の手は高く上げられ主の右の手は力ある働きをする。

 その祝福を経験できる者は、正しい者であるのです。主が契約を忠誠をもって果たすことで、その業が行われるのですから、その人は、正しい者でなければならないのです。正しい者であるので、その祝福を経験できるのです。主は、そのような人に力を現されます。高く上げられることは、その力強さを表しています。

118:17 私は死ぬことなくかえって生きて主のみわざを語り告げよう。

118:18 主は私を厳しく懲らしめられた。しかし私を死に渡されはしなかった。

 彼は、死ぬことがありませんでした。たしかに彼は、主から厳しく懲らしめられたのです。彼は、主の前に完全ではありませんでした。しかし、彼は、正しい者として歩んだのです。罪に従う歩みを捨て、正しく歩みました。彼は、生きたのです。神の前に実を結ぶ者とされました。そのような経験を通して、主の御業を語り告げようと言いました。彼は、主の御業を経験したのです。

118:19 義の門よ私のために開け。私はそこから入り主に感謝しよう。

118:20 これこそ主の門。正しい者たちはここから入る。

 彼は、正しい歩みをしたのです。ですから、彼は、義の門に対して、自分のために開くように求めました。彼は、そこから入り、主に近づき、感謝するのです。主が彼に応え、業をされたからです。その義の門は、主の門です。主に適った正しい者が入る門であるのです。

118:21 私はあなたに感謝します。あなたが私に答え私の救いとなられたからです。

 その感謝は、主が応え、彼の救いとなったからです。

118:22 家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。

118:23 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。

 家を建てる者たちにとって、価値の無いとみなされた石が、礎の石となりました。そのように、人の目からは価値の無いものとみなされた者が、主によって重く用いられるのです。主は、真の価値をご存知であり、正しい人を重く取り扱いなさいます。

 主は、御自分の観点から事をなさいます。それで、主は、良いのです。ご自分の目に適ったことをされます。人の目には不思議なのです。人の観点から事をなさることはありません。

 なお、この箇所は、主イエス様が引用されたご自分に関する預言になっています。家を建てる者たちは、当時のユダヤ人の指導的立場にある人たちのことで、イスラエルの家を建てようとしていました。彼らは、イエス様を自分たちにとって価値のない者、かえって邪魔になる者として捨てたのです。しかし、この方は、礎になられました。まず、教会の礎となられました。そして、将来イスラエルはこの方によって栄光を受けることになります。

118:24 これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。

 これは、主が設けられた日です。その中で、主を喜び、主がもたらされたものを喜びとしようと。

・「楽しみ」→喜ぶ。霊的な喜び。主を喜ぶような喜び。

・「喜ぶ」→喜び楽しむ。主の祝福を喜ぶような喜び。

118:25 ああ主よどうか救ってください。ああ主よどうか栄えさせてください。

 この人は、主に救いを求めました。主が栄光を与えて栄えさせてくださることを願いました。

 イエス様のエルサレム入城の時、人々が叫んだ言葉です。「ホサナ:救ってください」は、ヘブル語の音をギリシア語で表現したものです。

118:26 祝福あれ主の御名によって来られる方に。私たちは主の家からあなたがたを祝福する。

 それに対する答えがこれです。主の名によって来られる方がおられるのです。その方が救いをもたらすのです。

 そして、「栄えさせてください」という求めに対して、「わたしたち」は、主の家からあなた方を祝福すると答えています。「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言うその人々を祝福するのです。彼らは、そのように言うことで御子イエス様の到来を受け入れるのです。そのような人々を祝福しようということです。主の家から祝福する方は、「わたしたち」と表現されている神です。それは、父からの祝福であり、御子からの祝福です。「主」は、契約の履行者を表しています。契約の実現としての救いであり、栄をもたらすことであるのです。

118:27 主こそ神。主は私たちに光を与えられた。枝をもって祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。

 主こそ神と言い表し、この方が応えられるので、その偉大さを言い表しています。次節では、その方を私の神と言い表しています。その偉大さは、私たちに光を与えられたことです。神が応えて御心を示してくださったからです。御言葉の光です。

 それで、祭りの行列を組み、示されたことに対して、それを真実なこととして応えるのです。主の名によって来られる方がいます。その方を迎えるために、神殿の祭壇の角まで枝を敷くのです。その方は、来られて、祭壇の角で贖いをなします。祭壇の角は、神の聖さを要求する神の権威です。それを満たす方は、主イエス様です。それで、「祭壇の角のところまで」なのです。祭壇で救いをもたらし、栄をもたらされるのです。

118:28 あなたは私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神。私はあなたをあがめます。

 このように、私に対して契約を果たされる方であるので、私の神と言い表しました。直接神に向かい、あなたに感謝しますと。私の神を崇めますと。

118:29 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

 主に感謝するように再び呼びかけられています。主は、本当に目に適った良いことをされる方です。また、その契約を果たすことは、とこしえに及びます。