詩篇116篇

116:1 私は主を愛している。主は私の声私の願いを聞いてくださる。

 この人は、主を愛していました。主が彼の声を聞いてくださるからです。彼を愛していることの現れです。

116:2 主が私に耳を傾けてくださるので私は生きているかぎり主を呼び求める。

 彼は、主が聞かれる経験を通して主の愛を知り、そして、主を愛するので、生きていいるかぎり、主を呼び求めます。彼は、さらに主が聞かれる経験をとうして主を愛するようになります。ここには、信仰の成長のらせんがあります。

116:3 死の綱が私を取り巻きよみの恐怖が私を襲い私は苦しみと悲しみの中にあった。

 死の綱が取り巻いたことは、死ぬばかりになったことを表しています。この死は、次節以降たましいに関して取り上げられているように、たましいの躓きを表しています。神の御心を行い神と共に歩むことが命です。そのような状態から離れようとしていました。

 よみの恐怖は、同じように、たましいが躓いて、神の前に滅びの状態になることの恐怖です。それは、永遠の滅びに入ることではなく、神の前に生きた歩みができず、実を結ばないことを指しています。そのようなたましいの躓きに陥る恐怖の中にありました。そのために、彼は苦しみと悲しみの中にありました。

116:4 そのとき私は主の御名を呼び求めた。「主よどうか私のいのちを助け出してください。」

 彼が求めたものは、「たましい」の救いです。たましいは、神の言葉に従う部分すなわち座です。神の言葉に従うことに於いて躓くことから守られることを願ったのてす。

 彼が求めたことは、「たましい」の救いです。肉体の死から救うことではありません。

・「いのち」→たましい。

116:5 主は情け深く正しい。まことに私たちの神はあわれみ深い。

116:6 主は浅はかな者をも守られる。私がおとしめられたとき私を救ってくださった。

 主が情け深く、憐れみ深いことを言い表しましたが、これは、主が「浅はかな者」も守られるからです。完全なものではない者を守られます。

 彼がおとしめられた時救ってくださったからです。

116:7 私のたましいよおまえの全きいこいに戻れ。主がおまえに良くしてくださったのだから。

 それで、彼のたましいは、全き憩いに戻ることができます。主が良くしてくださったことを知ったので、主との深い交わりの中に従うことができるのです。たましいが回復するのです。

116:8 まことにあなたは私のたましいを死から私の目を涙から私の足をつまずきから救い出してくださいました。

 たましいを死から救い出すことは、たましいの躓きから救い出すことです。神の言葉に従わない状態は、死です。たましいがそのようなところに陥ることから守られるのです。

 目を涙から救い出すことは、涙のゆえに見えなくなることから救い出すことで、彼の受けた苦しみと悲しみから信仰へと導くことです。目は、信仰の比喩です。神の言葉を受け入れる器官です。涙は、悲しみや苦しみの時に流されます。そのような状態にある時、神の言葉を受け入れて従うことが困難になることがあるのです。涙で目が見えなくなるのです。そこから救い出されるのです。神の言葉を信じて堅く立つことができるようにしてくださるのです。

116:9 私は生ける者の地で主の御前を歩みます。

 主の御前で歩むことは、たましいの回復です。主の前に正しい歩みをすることができるのです。

116:10 私は信じています。まことに私は語ります。私は大いに苦しんでいました。

 信じていることは、信仰の回復です。

116:11 この私は恐れうろたえて言いました。「人はだれでも偽りを言う」と。

 彼は、人々の仕打ちとして死の恐怖を味わいましたが、人は、偽りをもって彼を陥れたのです。この時、彼は、人を見ていました。しかし、彼は信じたのです。

116:12 主が私に良くしてくださったすべてに対し私は主に何と応えたらよいのでしょう。

116:13 私は救いの杯を掲げ主の御名を呼び求めます。

 主がしてくださった良いことに対して、彼は、救いの杯を掲げ、御名を呼び求めます。杯は、主が祝福としてくださったものの全てです。それを主の前に掲げることで、主に対する感謝と賛美を表しています。そして、主の御名を呼び求めます。主に信頼し、主に従うのです。これこそ、主に栄光を帰すことになります。

116:14 私は自分の誓いを主に果たします。御民すべての目の前で。

 さらに、自分の誓いを主に果たします。主を恐れるからこそ誓いを果たすのです。真の意味で主を畏れ敬うからです。それを全ての民の前に示します。

 このように、彼の叫び求めが一時のしのぎのためではないことを表しています。人は、苦しみを逃れるために主を呼び求めますが、苦しみが過ぎ去った時も、主を畏れ敬うことを続けることをしないことがあるのです。士師記の時代にはそのようなことがしばしば起こりました。

116:15 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

 この死は、自分を捨て、肉に死ぬことです。肉体の死ではありません。主イエス様に関して、父は、御子が御自分を捨てたことを最も高く評価されました。

116:16 ああ主よ私はまことにあなたのしもべです。あなたのしもべあなたのはしための子です。あなたは私のかせを解いてくださいました。

 それで、彼は、自分をしもべまたはしための子と言い表しました。これは、主に従うものであることを言い表しています。自分を主張せずに、しもべとして服従することです。それが自分を捨てることであり、肉に対する死なのです。それは、枷からの解放です。今まで、肉に捕らわれ、その背後に働くサタンの支配のもとにあったのです。そこから解放されます。

116:17 私はあなたに感謝のいけにえを献げ主の御名を呼び求めます。

 そのように自分を捨てることで、主の祝福を経験し、感謝のいけにえを捧げ、さらに、主の御名を呼び信頼し従うのです。

116:18 私は自分の誓いを主に果たします。御民すべての目の前で。

 そして、主を恐れ従うので誓いを果たすのです。御民すべての目の前で従うことで、証しすることになり、主に栄光を帰します。

116:19 主の家の大庭で。エルサレムよあなたのただ中で。ハレルヤ。

 それを、主の家の大庭でそれをなし、主の都の只中でそれを現すことで、主に栄光を帰すのです。