詩篇111篇

111:1 ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげよう。直ぐな人の交わり主の会衆において。

 この方が目を留めているのは、次節の主の御業です。まず主を褒め称えました。彼は、心を尽くして感謝を捧げることを言い表し、主の業の偉大さを言い表しています。

 それができるのは、直ぐな人です。それは、主の会衆と言い表されていて、多くの主のものとされて、主の前に真っ直ぐな人々の間にふさわしいことなのです。

・「ハレルヤ」→主よ、輝け(強意形)。主の栄光が強く輝くことを命じている。

111:2 主のみわざは偉大。それを喜ぶすべての人に尋ね求められるもの。

 主の御業は、偉大です。それゆえ主を喜ぶ全てによって尋ね求められます。彼らが尋ね求めるのは、御業を喜ぶからです。

111:3 そのみわざは威厳と威光。その義は永遠に立つ。

 主は、それによって栄光を現されます。それは、威厳と威光です。威厳は、称賛に値すること。威光は、栄光の現れです。その業は義です。永遠に立ちます。これらが現される栄光です。

111:4 主はその奇しいみわざを人の心に刻まれた。主は情け深くあわれみ深い。

 主の業は、人に深く記憶されます。人は、情け深く憐れみ深い主の業を深く記憶するのです。その人に関わる業として主は実行し、記憶させます。人は、個人的な経験として主の栄光を見、記憶するのです。

・「心に刻まれた」→記憶:名詞。

111:5 主を恐れる者に食べ物を与えご自分の契約をとこしえに覚えておられる。

 主を恐れる者に食べ物を与えます。これは、契約の履行です。真の食べ物は、イエス・キリストであり、永遠に満たされます。肉体の食べ物は、肉体が生きている間だけです。契約の永遠の履行ということを考えれば、これは霊的満たしのことです。

・「覚えておられる:動詞」→四節の「記憶:名詞」(心に刻む)と同じ語根。

111:6 国々のゆずりの地をご自分の民に与え彼らにそのみわざの力を告げ知らされた。

 御業の力は、相続地を彼らに与えることで現されます。それは、国々の譲りの地です。それを取り上げ、与えられます。主を恐れる者が世界を相続します。また、信者個人に関して、実を結ぶことに対して御国を相続することとして示されています。主を恐れる者がその資産を受け継ぐのです。

111:7 御手のわざは真実と公正そのすべての戒めは確かである。

 御手の業は、真実、すなわち真理で、神の御心に適ったことの実行です。

 また、裁きです。その業は、裁きとしてなされます。すなわち、良いことであれ、悪いことであれ神の基準による裁きなのです。そして、その基準となる全ての戒めは、確かなのです。

・「真実」→真理。神の御心を行うこと。

・「公正」→裁き。良い評決あるいは悪い評決。

111:8 それらは世々限りなく保たれ真実と正しさをもって行われる。

 それらは、業のこと。それらは、代々限りなく保たれます。真理と正しさをもって行われます。神の御心の実現として行われ、正しさのうちに行われるのです。

111:9 主は御民のために贖いを送りご自分の契約をとこしえに定められた。主の御名は聖であり恐れ多い。

 主が送る贖いは、契約として定められたことです。五節には、食べ物を与えることも契約として示されています。それは、信仰の歩みにおいて経験することです。ですから、贖いについても、これによって罪が赦されるという意味での贖いでなく、肉に死に新しく生まれた者として歩む贖いのことであり、また、それが完全なかたちで実現する体の贖いのことです。とこしえの契約として、贖いを定められたのです。神の御心を行うことこそ神にとって価値あることであり、それを実現しようとされるのが神様の働きです。また、今日、イエス様は、人のうちにあってその働きを続けておられます。イエス様ご自身、肉体を持ち、肉を持たれて神の御心だけを完全に行うという歩みをされ、父の高い評価を受けられました。

 このような契約を定められ、実現される方なので、聖であるのです。それは、この世とはかけ離れた聖なる神にふさわしいことであり、贖いの業自体が、神の御心を行うという聖なることの現れなのです。

 このようにして、神にふさわしいことを実現されるので、恐れ多いのです。

111:10 知恵の初めそれは主を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る。主の誉れは永遠に立つ。

 知恵は、御心を行う分別です。知恵については、箴言にその解き明かしを見ることができます。主の御心を行うために必要な最初は、主を恐れることです。この方を畏れ敬うことで、その方の言葉を受け入れることができますし、従うことができます。畏れ敬うことがなければ、自分を主張し、自分の肉に従うことを求めるのです。

 これらを行う人は、思慮分別を得ることができます。なお、これらは、三人称複数です。動詞で表されている動作を行う者は、三人称複数ですので、これらについても複数になっていますが、文の流れからは、これらは、「主への恐れ」を指していて、それを実践する人が獲得することができるものは、思慮分別です。知恵は、その思慮分別のことであり、これが、知恵を得ることであるのです。

 人が主の言葉に従うことで、主が誉れを受けるのです。

・「賢明さ」→思慮分別。