詩篇106篇

106:1 ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

 彼は、主への感謝を歌いました。主に感謝する理由が示されていて、それは、主は、良い。すなわち、目に適ったことをされるからであり、その契約を果たされる忠誠は、永久まで保たれるからです。主は、ご自分の御心を契約によって明確に示し、そこに歩むことを求められます。

・「いつくしみ深い」→「良い」。目に適っている。

・「恵み」→「契約に対する忠誠」

106:2 だれが主の大能のわざを告げ主の誉れのすべてを語り聞かせることができよう。

 主の業の偉大さについて誰が告げることができるだろうかと述べて、その偉大さを表現しています。

106:3 幸いなことよさばきを守る人々いかなるときにも正義を行う人は。

 裁きを守るとは、神の基準での評決を自分の歩みに適用して保つことです。そして、いかなる時も正しいことを行う人の幸いを言い表しています。

・「さばき」→法廷での明確にされた評決。

・「正義」→正しいこと。

106:4 主よあなたが御民を受け入れてくださるときに私を心に留めあなたの御救いのときに私を顧みてください。

106:5 そのとき私はあなたに選ばれた者たちの幸せを見あなたの国民の喜びを喜びとしあなたのゆずりの民とともに誇ることができます。

 この人自身は、民が神に受け入れられることを求めました。それは、その時神の民の喜びを喜び、誇りとすることができるからです。。そのために自分を顧みてくださることを願いました。直接的に自分の何かを求めませんでした。神の民に対して、神が契約を果たされることを願いました。それは、民は、神の譲りの民であるからです。神にとって手放すことのできない、いつまでも保つべき大切な存在であるからです。

106:6 私たちは先祖と同じように罪を犯し不義を行い悪を行ってきました。

106:7 私たちの先祖はエジプトであなたの奇しいみわざを悟らずあなたの豊かな恵みを思い出さずかえって海のほとり葦の海で逆らいました。

 その契約の実現は、罪を犯した民に関して求めています。私たちと言い表し、民とともに罪の中にある者として告白しています。罪、不義、悪を行ったのです。

 続いて、先祖の罪について言及しているのは、先祖が罪を犯した時、神が答えたことが四十五節以降に記されているように、神に叫び求めた時、神が契約に従って答えたことを取り上げ、いまの自分たちに対しても同じようにしてくださることを願ったのです。

 まず、葦の海のほとりでの出来事です。そこで、民は、神に逆らったのです。

出エジプト記

14:11 そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。

14:12 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

14:13 モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。

14:14 主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」

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 彼らの悪い点は、なぜエジプトから連れ出したのかとモーセに叫んだことです。神の計画を知らされていたのに、それを全く否定しました。信じなかったのです。それが逆らうことでした。彼らには、自らに迫った死を覚えたときに、神の言葉を信じ続けることができませんでした。

 さらに、この詩には、彼らが主の奇しい御業を悟らなかったと記されています。御業を見たが、それによって主を知り、その御力を信じるに至っていないことです。

 さらに、「恵み」と訳されている主の契約に対する忠誠すなわち、主が契約を徹底的に果たされたことを思い出さなかったことです。アブラハムに対して結んだ契約を果たし、エジプトから連れ出されたことを忘れたのです。目の前の事態を見て、契約に信頼することができませんでした。主を信じていない者が、どうして、その契約の言葉を信じることができるでしょうか。

106:8 しかし主は御名のゆえに彼らを救われた。ご自分の力を知らせるために。

 神様が契約を果たされたことを忘れ、多くて数週間前に、エジプトでの奇跡を見たのですが、悟らなかったのです。しかし、主は、救われました。イスラエルが良い民であるから救われのではありません。ご自分の力を知らせるためです。

☆エジプトを出てから葦の海を渡るまでの期間について

出エジプト

12:18 最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種なしパンを食べる。

13:4 アビブの月のこの日、あなたがたは出発する。

13:5 主は、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の地、主があなたに与えると父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地にあなたを連れて行かれる。そのときあなたは、この月に、この儀式を執り行いなさい。

16:1 イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。

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106:9 主が葦の海を叱ると海は干上がり主は彼らに深みの底を歩かせられた。まるで荒野を行くように。

106:10 主は憎む者の手から彼らを救い敵の手から彼らを贖われた。

106:11 水は彼らの敵を包み彼らの一人さえも残らなかった。

106:12 すると彼らはみことばを信じ主への賛美を歌った。

 主が深みの底を歩かせて彼らを救い、敵の手から贖い、敵は、一人も残りませんでした。それを見て、イスラエルの人々は、「御言葉」を信じました。それは、その奇跡の直前に主が語られたことです。

出エジプト

14:13 モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。

14:14 主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」

14:31 イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

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 この時、語られた通りのことが実現したので、その語られた言葉を信じました。もはやエジプト人を永久に見ることはないと言われたことです。そして、主への賛美を歌ったのです。主の御力を歌いました。

106:13 しかし彼らはすぐにみわざを忘れ主のさとし(助言すなわち主の教え)を待ち望まなかった。

106:14 彼らは荒野で激しい欲望にかられ荒れ地で神を試みた。

106:15 そこで主は彼らにその欲するものを与え彼らのいのち(たましい)を衰えさせた。

 次に、彼らが荒野で激しい欲望に駆られた時、彼らは、主の御業をすぐに忘れました。彼らは、主が何を教えようとしておられるのかとそのさとしを待ち望むことはありませんでした。主は、マナを与え、真の食物が主にあることを教えようとされたのです。

 しかし、彼らは欲望が満たされることだけを求めました。それは、神を試みる行為でした。「神」と表現されていて、支配者である方を試みたことが強調されています。

 同じような出来事が二回ありましたが、これは、民数記の記事が符合します。

民数記

11:4 彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。

11:5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。

11:6 だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」

11:7 マナはコエンドロの種のようで、一見、ベドラハのようであった。

11:8 民は歩き回ってそれを集め、ひき臼でひくか臼でつき、これを鍋で煮てパン菓子を作った。その味は、油で揚げた菓子のような味であった。

11:9 夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれと一緒に降りて来た。

11:10 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入り口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がった。このことは、モーセにとって辛いことであった。

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 その時、主は、彼らの欲するものを与えました。主は、たましいを衰えさせました。たましいは、主の言葉に従う部分ですが、欲望を追求し満たすことを求めることで、結局は、たましいが衰えたのです。彼らは、神の言葉を信じて、進んでそこに従うという命の経験をすることができなかったのです。それは、主の裁きです。欲望に従うことを求めるならば、主はそれを許され、求めるままにされるのです。そのようにして、主の言葉に従うというたましいの活動を衰えさせるのです。

 これは、彼らの体が死んだことを言っているのではありません。欲望のままに生きて、主を試みるような者は、神の前に死んでいることを表しています。実を結ぶことなく、主と一つになって歩む命の経験もないし、御国での報いもないのです。

 そして、実際的な裁きとして、彼は肉体の死を経験したのです。それは、欲のまま生きるならば、死であることの比喩です。

106:16 彼らが宿営で主の聖徒(聖なる)モーセとアロンをねたんだとき

106:17 地は口を開けダタンを呑み込みアビラムの仲間を包んでしまった。

106:18 その仲間の間で火が燃え上がり炎が悪者どもを焼き尽くした。

 彼らは、モーセとアロンを妬みました。二人は、「聖徒→聖なる」と表現されています。神様が選ばれた聖なる者であるのです。彼らの求めたことは、人の間の誉れです。肉の欲望なのです。そのような思いが、神の御心の実現を阻むのです。

 主の働きに関して、神の選びと聖霊の導きによってなされるならば幸いです。しかし、人は、その働き自体に価値を見出し、働きを目的としてしまうのです。その本質は、自分を現すことです。御言葉を取り次ぐにしても、神の御心が正しく伝えられることを第一に考えないで、見栄えや、人受けを考えて語るのです。もし、御言葉を取り次ぐのであれば、伝えるべき御心を正確に理解していることが必要です。そのうえで、分かりやすく伝えることが必要です。

 彼らの求めたことは、地に属することです。彼らが地に呑み込まれたのは、ふさわしい裁きであるのです。

 また、祭司となることを望んだ者たちは、自分の誉れだけを求めて香を捧げることをしました。彼らにとっては、祭司の働きを人間的な誉と考え、それを得たかったのです。しかし、彼らは、神によって選ばれた者たちではないし、自分の火皿で捧げた香は、自分を現すためのもので、神に受け入れられるはずもありません。彼らの願望は、人の前の誉れなのです。それが神の前には、全く価値がないものとして、神が焼き尽くされました。彼らは、悪者と表現されていて、悪なのです。

 人前の働きこそ価値があると考えても、神の前には、価値が無いのです。

106:19 彼らはホレブで子牛を造り鋳物の像を拝んだ。

 主が契約の言葉を授けようとした時、まさにその時に、彼らは、子牛の鋳物の像を造ったのです。そして、神として拝みました。彼らは、山に神の栄光を見たのです。そして、恐れました。しかし、神を否定したのです。

106:20 こうして彼らは自分たちの神の栄光を草を食らう雄牛の像と取り替えた。

106:21 彼らは自分たちの救い主である神を忘れた。エジプトで大いなることをなさった方を。

106:22 ハムの地で奇しいみわざを葦の海のほとりで恐るべきみわざを行われた方を。

 彼らのしたことは、自分たちの神の栄光を地に落とすことでした。その栄光を草を食らう牛の像と取り替えたのです。「草を食らう雄牛」と表現して、草をを食らうものとしての価値しかないものと取り替えたのです。

 彼らにとっては、救い主である神です。エジプトから救い出された方です。そのために多くの力ある奇跡をされたのです。また、葦の海のほとりで、なされた業は、恐るべきものでした。その方を忘れたのです。

106:23 それで神は「彼らを根絶やしにする」と言われた。もし神に選ばれた人モーセが滅ぼそうとする激しい憤りを収めていただくために御前の破れに立たなかったならどうなっていたことか。

 彼らの行いのために、神は、「彼らを根絶やしにする。」と言われたのです。モーセは、それが神の栄光にならないと神の御前に立ちました。

106:24 しかも彼らは尊い地を蔑み神のみことばを信じず

106:25 自分たちの天幕の中で不平を言い主の御声を聞かなかった。

106:26 それで主は彼らにこう誓われた。彼らを荒野で打ち倒し

106:27 その子孫を国々の間に投げ散らし彼らを地にあまねくまき散らそうと。

これは、以下の記事を指しています。

民数記

14:1 すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。

14:2 イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。

14:3 なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」

14:11 主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。

14:12 わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剥奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」

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 彼らについて指摘されていることは、「神の言葉を信じず」ということです。神がカナンの地を与えるとして導き出したことを信じないで、カナンの地に入ることはできないと決めつけたことです。大声で叫び、泣き明かしたのですから、全く神の言葉を信じなかったことが分かります。彼らは、主の業を見、しるしを見たのです。

 主は、彼らを荒野で打ち倒すと言われました。自然に死んだのではなく、主によって打たれるのです。具体的には、疫病で打つと言われました。さらに、その子孫については、諸国に撒き散らすと言われました。それは、譲りの地を剥奪することです。神が与えると言われたことを信じないのですから、彼らからそれを剥奪するのです。 

106:28 彼らはまたバアル・ペオルとくびきをともにし死者へのいけにえを食べた。

106:29 こうして自らの行いによって御怒りを引き起こし彼らに主の罰が下った。

民数記

25:1 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。

25:2 その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。

25:3 こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。

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 彼らのしたことは、偶像の神と一つになることです。これは、単なる食事ではなく、神々に捧げられたものであり、かつそれは、死者へのいけにえの食事でした。彼らは、神々と一つになり、死者と一つになったのです。

 主の怒りは、妬みです。主のものとされている者たちが偶像と一つになったことに対して妬みを持ち、怒りが燃え上がったのです。それで罰を下しました。私たちは、主と一つになることが求められています。

コリント第一

10:16 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

10:17 パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。

10:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかること(祭壇の結合された参加者すなわち一つになる者)になるのではありませんか。

10:19 私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

10:20 むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者(悪霊と一つになる者)になってもらいたくありません。

10:21 あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。

「与る」→関与する意味で訳されている。しかし、ここでの意味は、一つとなることです。血と一つになり体と一つになることです。そうでないと、十七節で、私たちが一つのパンを食べるので一つの体であるという論法が成り立ちません。悪霊の祭壇に与ることは、悪霊と一つになることです。

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106:30 そのときピネハスが立ち仲立ちをしたので主の罰は終わった。

106:31 このことは代々にわたり永遠に彼の義と認められた。

民数記

25:10 主はモーセに告げられた。

25:11 「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。

25:12 それゆえ、言え。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。

25:13 これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。』」

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 ピネハスの行為は、主の怒りを宥めました。彼は、主の妬みを妬みとし、イスラエルの子らのために宥めをしました。それが彼の義とされたとあります。彼は、このために「平和の→完全な」契約を結ばれます。彼の子孫が祭司となることは、永遠に続くのです。一切変更されない完全な契約です。通常、祭司職につく者は、時としてその子孫は絶えるのです。しかし、彼に関してはそれはないということです。ここで、「平和」と訳されていますが、対比される状態としての敵対は、なかったのです。もともと祭司ですから。ですから、この訳は、根拠のない訳となります。

106:32 彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。モーセは彼らのゆえにわざわいを被った。

106:33 彼らが主の御霊に逆らったとき彼が軽率なことを口にしたのである。

 メリバの水での出来事は、彼らが主の御霊に逆らったことです。水のないツィンの荒野に入ったのですが、彼らを導いたのは、御霊の働きです。民は、水がないことで、主の導きは彼らを殺すためだと言い、主を怒らせました。

民数記

20:10 モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。

20:12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

20:13 これがメリバの水である。イスラエルの子らが主と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。

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 モーセのしたことの問題点は、「軽率なことを口にした」ことです。彼らの行為が、偉大な指導者さえ怒らせ、過ちを誘導したのです。民は、神の言葉を信じて従い続けることができませんでした。すぐに肉を現すのです。

 彼は、水を出すのは「われわれ」であると言いました。神様がイスラエルに水を与える方であることをその奇跡で示さなければならなかったのに、その栄光を自分に帰したことです。モーセとアロンがカナンの地に入れないのは、その水を出したのは、神であることを示すことができなかったためです。それによって、事は人間的な欲求や願いによってなされるのではないことを明確にし、ご自分の主権によってなされることであることを示したのです。これが「聖であることを」彼らのうちに示したことです。

 また、彼の語ったことは、逆らう者たちのためになぜ自分たちが労苦しなければならないのかという意味で言っています。その業は、愛によるものではなく、嫌々ながらしている行為であることを表明したのです。イスラエルの民を逆らう者として断罪し、嫌ったのです。その点でも神様の栄光を現すことはできませんでした。神様は、そのような民をなお愛しておられて導かれる方です。大祭司であるアロンもその責任を問われますが、民を思いやる愛が欠如していたからです。大祭司には、民の弱さを思いやることが求められています。

 また、詩には、記されていませんが、命じるように言われましたが、岩を二度打ちました。二人は、神様の言葉を信じなかったのです。

106:34 彼らは主が命じられたのに諸国の民を滅ぼさず

106:35 かえって異邦の民と交わりその習わしに倣い

106:36 その偶像に仕えた。それが彼らにとって罠となった。

 彼らは、諸国の民を滅ぼしませんでした。彼らと交わり、その偶像に仕えたのです。諸国の民を滅ぼす目的は、彼らの慣わしを真似しないためでしたが、彼らは諸国の民を滅ぼすことをしなかったために、偶像を拝むようになったのです。それが罠となりました。

106:37 彼らは自分たちの息子と娘を悪霊へのいけにえとして献げ

106:38 咎なき者の血を流した。彼らの息子や娘たちの血それをカナンの偶像のいけにえとした。こうしてその国土は血で汚された。

 また、自分たちの息子と娘を偶像に捧げたのです。その時、殺して捧げたのです。咎なき者の血を流したとは、そのことです。それで国土は、血で汚れたのです。

106:39 このように彼らはその行いによって自分を汚しそのわざによって姦淫を犯した。

 彼らは、咎なき者の血を流して自分を汚しました。そして、偶像に仕えることは、姦淫の罪です。

106:40 それで主の怒りは御民に向かって燃え上がり主はご自分のゆずりの民を忌み嫌われた。

 主は、民を愛してエジプトから連れ出し、カナンの地に住まわせたのですが、その民をご自分の譲りとされたのです。神の相続地です。神のものとされ、手放すことのできない大切なものです。そのような大切な民に怒りを燃やし、忌み嫌われたのです。

106:41 主は彼らを国々の手に渡されたので彼らを憎む者たちが彼らを支配した。

106:42 敵どもが彼らを虐げたので彼らは征服され敵の手に下った。

 主は、彼らを国々の手に渡し、彼らの相続の地を敵に渡し、彼らの支配に委ねました。

106:43 主は幾たびとなく彼らを救い出されたが彼らは相謀って逆らい自分たちの不義の中におぼれた。

 そのような中で、彼らの叫びを聞き、幾たびも救い出されたのに、相謀って逆らったのです。不義に溺れました。

106:44 それでも彼らの叫びを聞いたとき主は彼らの苦しみに目を留められた。

106:45 主は彼らのためにご自分の契約を思い起こし豊かな恵みにしたがって彼らをあわれまれた。

 彼らの叫びを聞いて目を留められ、あわれまれたのは、主の契約のためです。ご自分を呼び求める者に対して喜んで答えるというのが契約の条項の一つです。それで、忌み嫌うと言われた民をあわれまれました。その時、ある程度憐れみを示すということではなく、「豊かな恵み」によってそれをしたのです。恵みは、契約に対する忠誠あるいは誠実です。さらに、豊かなと形容されていますので、契約を徹底的に果たすことを表してます。

・「あわれまれた」→怒りが落ち着いてあわれむ。

・「恵み」→契約に対する忠誠。

106:46 彼らを捕らえ移したすべての者たちから彼らがあわれまれるようにしてくださった。

 それで、彼らを捕え移したすべての者たちから、大切にされるようにしてくださいました。民は、直接気付くことはなかったかもしれませんが、主は、敵対者が民を大切に扱うように働かれるのです。

・「あわれまれるように」→大切にされるように。原意は、「胎」。

106:47 私たちの神主よ私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください。あなたの聖なる御名に感謝しあなたの誉れを勝ち誇るために。

 このように、逆らい続けた民に対してなお契約を徹底期に果たされる神に頼りました。そして、国々から集めてくださることを願ったのです。そして、そのようにすることで、聖なる御名に感謝するためです。聖なる御名であり、それによって神の御名が現されて、そのことを感謝するためです。自分たちの救いということを願っていますが、それが目的ではなく、神の御名が現されることです。

 そして、神の誉が現されて、それを勝ち誇るためです。これは、神の誉の偉大さを言い表し、諸国に対しても誇るためです。

106:48 ほむべきかなイスラエルの神主。とこしえからとこしえまで。民はみな「アーメン」と言え。ハレルヤ。

 この人自身も、神の御名を覚えた時、褒むべきかなと言い表しています。それはとこしえまでも褒め称えるべき御名です。民に対しても、それを覚えてアーメンと言えと求めています。