詩篇105編

この詩は、十五節まで歴代誌第一16章の詩と同じです。

105:1 主に感謝し御名を呼び求めよ。そのみわざを諸国の民の間に知らせよ。

105:2 主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざを語れ。

 彼らは、主の御業を諸国の民に知らせる者として呼びかけられています。彼らは、十五節に記されているように、神の預言者すなわち神から御言葉を委ねられた者たちであるのです。彼らを通して神が御言葉を証しするためなのです。すなわち、神の契約の実現を通して、神の栄光が現されるためなのです。

 それで、彼らに求められていることは、御名を呼び求めることです。その人自身は、自分の経験として主に感謝するのです。その契約の実現を自分のものとして経験するからです。それで、御名を呼び求めるのです。御名を呼び求めなければ、御言葉の中に生きることはないし、その契約の実現を見ることはないからです。

 そして、その契約の実現を経験するならば、主に褒め歌を歌うのです。そして、語るのです。まず、主への賛美です。そして、証しです。主の奇しい御業を語るのです。

105:3 主の聖なる御名を誇りとせよ。主を慕い求める者たちの心よ喜べ。

105:4 主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。

 主の御業は、聖なる御名の現れです。主の観点から御業はなされ、主の栄光の現れのために御業はなされます。それで、その御名を誇りとすることができます。

 このように、御名が聖なる方ですから、人間的な観点から主の御名を覚えてはならないのです。私たちは、自分の目の前に起こる一つ一つの事柄に心惑います。しかし、そのようなことを通して主がどのように栄光を現されるかということに目を留めるべきなのです。主は、契約を実現する方であるからです。彼らは、御言葉を委ねられましたが、その方は、その契約を実現することで御名の栄光を現される方です。それで、その御名を誇りとするのです。

 誇りとすることは、私たちに求められていることです。私たちは、主が助けを賜り、問題の解決をされるとき、感謝します。その一方で、思い通りにならないとき不平不満が出るのです。それは、誇りとする域には達していません。

 そして、主を慕い求めるのです。慕うのは、愛しているからです。心惹くからです。自分が進んで求めたくなるのです。それが慕うということです。聖書を読むことも、学ぶことも、祈ることも苦痛であるとすれば、慕うことにはなりません。主のことが大好きになるのです。

 それは、主を尋ね求めることになります。主について知りたくなるのです。主を慕うならば、その方がどのような方か知りたくなるのです。その力についても知りたくなります、

 主が御顔を向けられることは、主が喜んで応えることを表し、その御顔を慕い求めるのです。

列王記第二

13:23 主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで、御顔を背けて彼らを捨てることはなさらなかった。

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 恵むことは、契約を忠誠をもって果たすこと。あわれむは、求めるものに喜んで応えることで、契約の条項。

 このように、主が喜んで応えることを表す。

105:5 主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。その奇跡と御口のさばきを。

 主の栄光は、主の行われた御業により、また、その奇跡により、御言葉に基づく裁きにより現されました。御口の裁きとありますが、声を発せられたということではありません。

105:6 主のしもべアブラハムの裔よ。主に選ばれた者ヤコブの子らよ。

105:7 この方こそ私たちの神主。そのさばきは全地にわたる。

105:8 主はご自分の契約をとこしえに覚えておられる。命じられたみことばを千代までも。

 その裁きとは具体的にアブラハムとの契約に基づいて行われる業であることです。その裁きは、全地に及びます。それは、御言葉の及ぶ範囲を表しています。その言葉の実現は、全世界に及ぶものであるのです。

 また、その有効性の長さは、千代にも及びます。決して廃れることのない言葉なのです。それに基づいて事はなされます。

105:9 それはアブラハムと結んだ契約イサクへの誓い。

105:10 主はそれをヤコブへの定めとして立てられた。イスラエルへの永遠の契約として。

105:11 そのとき主は言われた。「わたしはあなたにカナンの地を与える。あなたがたへのゆずりの地として。」

 それは、イスラエルに対する永遠の契約であって、カナンの地を与えることです。それは、神からの譲りの地として与えるのです。

 今日、私たちは、同じように御国の相続の契約を頂いています。主は、それに基づいて事をなさるのです。私たちが聖霊により、御心を行うならば、永遠の資産としての報いをいただくのです。

105:12 そのころ彼らの数は少なく実にわずかでそこでは寄留者であった。

105:13 彼らは国から国へ一つの王国からほかの民のところへと渡り歩いた。

105:14 しかし主はだれにも彼らを虐げさせず彼らのために王たちを戒められた。

105:15 「わたしの油注がれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」

 主が選ばれた民について語られています。「彼ら」「たち」といずれも複数で記されています。これは、一人のアブラハムや、イサク、またヤコブのことではありません。主は、契約の実現のために彼らを守られたのです。

 彼らは、力のない者たちでした。しかし、主は彼らを虐げさせませんでした。それは、彼らは主にとって、油注がれた者たちです。そして、預言者です。主に特別に選ばれた者たちであり、主の御業をなす者として選ばれたのです。その役割は、預言者です。主に委ねられた言葉を証しする者たちであるのです。

105:16 こうして主は飢饉を地の上に招きパンの蓄えをことごとくなくされた。

105:17 主は一人の人を彼らに先駆けて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。

105:18 ヨセフの足は苦しみのかせをはめられその首は鉄のかせに入れられた。

105:19 彼のことばがそのとおりになるときまで主のことばは彼を錬った。

 地の上に飢饉が送られた事は、主の御業でした。それは、ヤコブの家の人々にまで及んだのです。初め誰が、これが神の栄光だと知っていたでしょうか。

 ヨセフは、奴隷に売られ、足と首に鉄の枷がはめられました。それも、神の栄光の業です。人は、そのような苦しみを嘆きますが、神様の計画があったのです。

 彼には、夢で神の言葉が与えられていました。神様は、あらかじめ告げられた事を実現する方であるのです。主の言葉が彼を「練った」とあります。一連の出来事は、神様の計画による事であり、その栄光の現れのためなのです。それと共に、その言葉は、ヨセフを試しました。彼がその言葉を信じ続けるかどうかが試されたのです。困難を経験すればするほど、彼の信仰は強められました。神の言葉を信じ続けたのです。彼は、大いなる者とされました。

105:20 王は使いを送ってヨセフを解放した。諸国の民の支配者はそうして彼を自由にした。

105:21 主人である王はヨセフに自分の家を任せ自分の全財産を治める者とした。

105:22 それはヨセフが意のままに王の高官を縛り王の長老たちに知恵を与えるためであった。

 諸国の民の支配者が彼を解放したのみならず、ヨセフに自分の全財産を治める者にまでしたのです。さらに、王の高官を支配し、長老たちの上にあって、知恵を与える者になりました。最も高いところに引き上げたのです。そのようにして、神の言葉を信じる者を通して、栄光を現されました。

105:23 イスラエルもエジプトにやって来てヤコブはハムの地に寄留することになった。

105:24 主はご自分の民を大いに増やし彼らの敵よりも強くされた。

 彼らがエジプトにやってきたのは、彼らを増やし、強くするためでした。

105:25 主は人々の心を変えてご自分の民を憎ませご自分のしもべたちを悪賢く扱うようにされた。

105:26 主はそのしもべモーセとご自分が選んだアロンを遣わされた。

105:27 彼らは人々の間で主の数々のしるしを行いハムの地でもろもろの奇跡を行った。

 主は、人々の心を変えて御自分の民を憎ませました。ヨセフの時代とは打って変わって、奴隷とされ、苦しみの中にありました。しかし、それが、モーセとアロンを通しての主の栄光が現れるためでした。主の数々の奇跡を行うためです。

105:28 主は闇を送って暗くされた。人々は主のことばに逆らわなかった。

 主が一連の裁きを行われたことが記されています。そのことについては、「闇」と表現されています。この闇は、本来主の言葉がもたらす光と対比されています。ここでは、主は、闇をもたらすための言葉を送ったのです。彼らは、それに服すしかありませんでした。

105:29 主が彼らの水を血に変えられたのでその魚は死んだ。

・水は、命をもたらす御言葉を表しています。しかし、彼らは、それを拒みました。血は、命を表しますが、外に流れたときは、死を表します。魚が死んだように、命にあって生きる物が死んだのです。

105:30 彼らの地には蛙が群がった。王族たちの奥の間にまでも。

・蛙は、悪霊の比喩です。人を神に立ち返らせる御霊の働きではなく、人々を死に至らしめる悪霊の支配の下においたのです。

105:31 主が命じられるとあぶの群れが来てぶよが国中いたるところに湧いて出た。

・あぶとぶよは、血を吸う虫です。すぐに死に至りませんが、彼らの命を蝕む物として例えられています。

105:32 主は雨に代えて雹を彼らに降らせ燃える火を彼らの地に下された。

・雹は、雨に代えて与えられました。雨は、命をもたらす御言葉の比喩です。しかし、雹は、その神の言葉を退ける高慢に対してこれを打ち砕く物として与えられたのです。燃える火は、彼らに対する神の評価と、怒りの裁きを表してます。

105:33 主は彼らのぶどうの木といちじくの木を打ち彼らの国の木々を砕かれた。

・葡萄といちじくは、神の前に価値ある実を表しています。それを結ぶことが期待されているのです。しかし、それらは、打ち砕かれました。彼らが神の前に実を結ばないからです。

105:34 主が命じられるといなごが来た。若いいなごがしかも無数に。

105:35 それが彼らの国の緑を食い尽くし彼らの大地の実りを食い尽くした。

・いなごは、緑を食い尽くしました。それらは、大地の実りを食い尽くすものでした。緑は命を表し、実りは、実を表しています。それは、神の前に御言葉に従って生きる命を表し、結ぶ実を表していますが、それらがない彼らにそれを完全に除き去る裁きが下されたのです。

105:36 主は彼らの国の長子をことごとく打たれた。彼らのすべての力の初穂を。

・長子は、「力の初穂」と表現されていて、それが力を表していることがわかります。彼らを無力な者としたのです。

105:37 主は銀と金を持たせて御民を導き出された。主の諸部族の中でよろける者は一人もなかった。

 その一方で、イスラエルに対しては、銀と金を持たせて導き出されました。銀は、贖われた歩みすなわち肉によらず御霊による歩みを表しています。私たちは、そのように変えられたのです。金は、義を表しています。歩みが義の実を結ぶ者とされたのです。そして、その歩みがよろける者はありませんでした。堅く信仰に立ち、神の御心を行う者として歩み続けたことを表しています。

105:38 エジプトは彼らが出て行ったとき喜んだ。エジプトに彼らへの恐れが下ったからだ。

 さらに、エジプトは、彼らが出ていったことを喜びました。彼らへの恐れが下されたからです。人々の間にも尊敬の心を起こし、恐れを生じさせました。人々に対する証しを立てさせたのです。そのようにすることで、また、神の栄光が現されるのです。私たちが人々から蔑まれるような道徳的に低い者として歩んではならないのです。

105:39 主は雲を広げて仕切りの幕とし夜には火を与えて照らされた。

 道中は、雲をしきりとされました。太陽に打たれないためです。試みを与えますが、その中で守られます。そして、夜には、火を与え照らされ、常に光の中に導かれたのです。

105:40 民が願い求めると主はうずらをもたらしまた天からのパンで彼らを満ち足らせた。

 うずらとバンで満ち足らせました。うずらは、天的性質の主イエス様すなわち神としての主を表しています。うずらを食べた人が多数死にましたが、彼らは、肉欲の満足を求めてうずらを食べたからです。彼らの欲望によって死んだのです。しかし、本来、うずらは、神としての主イエス様を表していて、うずらを食べることは私たちが主イエス様と同じように神としての栄光を現す者になることを表しています。そして、パンも主イエス様を表していて、私たちが主に留まり、主が私たちのうちにあって歩む者とされることの比喩です。主が私たちのうちにあって業をなすことで、主と同じ者に変えられ、主の栄光を現すのです。

105:41 主が岩を開かれると水がほとばしり川となって砂漠を流れた。

 岩から出た水は、川となりました。水は、御言葉です。川は聖霊の比喩です。聖霊は、御言葉によって働かれて、渇きを満たされるのです。この場合には、私たちが御言葉により、聖霊によって主を知り満たされることの比喩です。知るとは、知識と、私たちがそれを実体験とすることで身に付けることとの両面を表しています。主を知るとは、主と同じものなることです。

105:42 これらのことは主がそのしもべアブラハムへの聖なることばを覚えておられたからである。

 これらの一連の出来事は、アブラハムへの言葉を覚えておられたからです。相続の地を与える約束です。その大きな約束に従って全てなされたことです。今日も、私たちが御国を相続するという大きな目的のために、この地でのすべての業がなされます。主は、その業を通して栄光を現され、私たちに対しては、大いなる報いを備える方です。

105:43 主は御民を喜びのうちに導き出された。その選ばれた民を喜びの叫びのうちに。

 それは、主にとって喜びなのです。主の栄光のためです。そして、喜びの叫びは、民の叫びです。民とっても喜びなのです。主の大いなる栄光が現され、相続の地に導かれるからです。

105:44 主は彼らに国々の地を与えられた。国々の民の労苦の実を彼らが受け継ぐために。

 主は、彼らに相続の地を与えられたのです。それは、国々の民の労苦の実でした。後の世界は、信仰者のために与えられるのです。取って代わるのです。

105:45 これは彼らが主のおきてを守りそのみおしえを保つためである。ハレルヤ。

 このようなことが行われたのは、主の掟を守り、主の御教えを保つためです。そのような者たちに対して、主が大いなることをなさったことを覚えて、彼ら自身がその中に生きるためです。

 私たちがまた、主の業を覚えるとき、主の言葉の中に生きる強い動機付けが与えられるのです。