詩篇104編

104:1 わがたましいよ主をほめたたえよ。わが神主よあなたはまことに大いなる方。あなたは威厳と威光を身にまとっておられます。

104:2 あなたは光を衣のようにまとい天を幕のように張られます。

104:3 水の中にご自分の高殿の梁を置き密雲をご自分の車とし風の翼に乗って進み行かれます。

 これは、六節の言葉から、ノアの時代の大洪水の前のことです。光を衣のようにまとわれたことは、栄光を放っておられたことを表しています。その方は、天を幕のように張られました。これは、天地創造のことです。

 そして、御自分の高殿の梁は、水の中に置かれました。これは、天の水です。神にとって物理的な場所は、あまり意味がありませんが、それをご自分のものとして支配しておられたことを表しています。

 密雲は、ご自分の車です。これも雨を降らせることと関係しています。

 風の翼は、御使いに乗って飛ぶことを表現していますが、物理的なものではなく、御使いを従えることの比喩です。

104:4 風をご自分の使いとし燃える火をご自分の召使いとされます。

 風は、御自分の使いです。御使いを表しています。燃える火は、主の評価を表していますが、評価の結果は、多くは裁きとして臨まれます。

104:5 あなたは地をその基の上に据えられました。地はとこしえまでも揺るぎません。

 そして、地をその基の上に据えられ、揺るぐことがないものとされました。これらは、主の偉大さを表しています。

104:6 あなたは大水で衣のように地をおおわれました。水は山々の上にとどまりました。

 これは、ノアの時代の洪水のことです。地は覆われました。方舟は七月十七日にアララテの山地にとどまったとあります。その時、アララテの山地は水没していましたし、山の頂が現れたのは、十月一日です。それが、現在のアララテ山とすれば、山頂は、五千メートル以上あります。最終水位が五千メートルくらいだと仮定すると、四十日四十夜降ったのですから、時間あたりの雨量は、約五千ミリです。時間雨量が100mmを超えると、記録的雨量といえます。その五十倍の降り方です。

 これは、大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれたからです。大いなる淵の源は、地の湖などではありません。それが破れて洪水になったとしても、地が水没する水にはならないのです。天にあった大量の水が地に降り注いだのです。

104:7 水はあなたに叱られて逃げあなたの雷の声で急ぎ去りました。

 水が引いたのは、主が叱られたからです。彼らは、逃げるように引いていったのです。六ヶ月くらいで引きました。一月半くらいで降った雨は、その四倍くらいの期間でなくなったのですから、それでも、ものすごい勢いて引いていったのです。

104:8 山を上り谷を下りました。あなたがそれらの基とされた場所へと。

104:9 あなたは境を定められました。水がそれを越えないように再び地をおおわないように。

 その水は、神が地の基とされたところへ引いたのです。この水は、裁きのために用いられ、主の偉大さが現されました。

104:10 主は泉の水を谷に送り山々の間を流れさせ

 主が水を谷に送られ、流れさせます。十三節には、高殿である天から送られることが記されています。山の中の湧き水を表現しているというよりも、これは、比喩です。泉は、聖霊の比喩です。山々の間を流れさせるのは、聖霊によって働くことを表しています。

104:11 野のすべての獣に飲まされます。野ろばも渇きを癒やします。

 それを飲むのは、野の全ての獣です。わきまえのない者に飲まされるのです。野ろばは、うなじの強いものを表しています。そのような者たちに働かれ、渇きを癒すのが聖霊の働きです。真の満たしを与えます。

104:12 その傍らには空の鳥が住み枝の間でさえずります。

 鳥は、御使いで、主の栄光を見て賛美するのです。

104:13 主はその高殿から山々に水を注がれます。みわざの結ぶ実によって地は満ち足りています。

 山からの泉は、渇きを癒すものとして働きます。主が高殿から送られる水は、御言葉の比喩であり、御言葉によって実を結びます。それによって地は満ちるのです。「御業の結ぶ実」によって地は満ちるのです。

104:14 主は家畜のために草をまた人が労して得る作物を生えさせます。地から食物を生じさせてくださいます。

 そして、主は、食物を与えられます。これは、命を育むものです。家畜に草を与えます。これは、主に飼われるものを表しています。私たちは、主に養われ、命を与えられる者です。

 人については、人が労苦して得る作物を与えられます。人の命は、人の労苦の中に与えられます。この食物は、真の食物としての主イエス様を表していますが、その方を私たちが知ることが真の食物をいただくことです。その方を知ることに関して、肉のままに歩んだり、また肉の努力によっても、それはできないことです。信仰によって、御霊による歩みの中に実現します。信仰によって歩み、肉の行いを殺すことは労苦なのです。

104:15 ぶどう酒は人の心を喜ばせパンは人の心を支えます。油よりも顔をつややかにするために。

 その食物は、葡萄酒やパンとして与えられます。葡萄酒は、人の心を喜ばせます。葡萄酒が表しているものは、ご自分を捨てた主イエス様です。それを飲むことは、ご自分を捨てた主イエス様を知ることであり、それをうちに受け入れることで、自分も同じように変えられ、自分を捨てた歩みに変えられます。それが人の心を喜ばせます。

 パンを食べることは、主を受け入れ、主と同じようになることです。そのようにして歩むことは、命を経験することであり、その人の心を支えます。命に満たされていることを経験するからです。

 それは、油よりも人の顔を輝かせます。

104:16 主の木々は満ち足りています。主が植えられたレバノンの杉の木も。

 木々が満ちていることは、比喩です。木も、人のことを表しています。そして、それは成長することを例えています。主が植えられたレバノンの杉の木は、木が何を比喩としているかを表してます。レバんノンの杉の木は、イエス様を表しています。そして、神の栄光を表すものとして植えられたのです。主イエス様は、見事にその栄光を現されましたが、人も同じようになることが求められています。そして、主によって成長し、満ち足りるのです。

104:17 そこに鳥は巣をかけこうのとりはもみの木を宿とします。

 鳥は、天に属する霊的存在の比喩です。その成長した木の上に巣をかけます。これは、聖霊が宿ることの比喩です。

104:18 高い山は野やぎのため岩は岩だぬきの隠れ場。

 高い山があるのは、野やぎのためです。主は、その高い山を備えました。信者が霊的高根を歩むためです。この世とは離れた、主と共にある場所です。

 岩だぬきは、岩を住処にしますが、岩だぬきのために岩は隠れ場として備えられました。この岩は、主の比喩です。隠れ場となり、保護するために主は働かれることを表してます。

104:19 主は季節のために月を造られました。太陽はその沈むところを知っています。

104:20 あなたが闇をもたらされると夜になりあらゆる森の獣が這い回ります。

104:21 若い獅子は餌食を求めて吼えたけり神に自分の食物を求めます。

104:22 日が昇ると彼らは退いて自分のねぐらで横になります。

 主が定め時に従って日は昇り日は沈むのです。獣たちは、夜の闇の中で行動します。獅子は、食物を神に求めます。そして、日が昇ると彼らは、ねぐらに退き、横になります。これらは、闇の世界で活動する悪魔の比喩です。彼らとて、神の許しなしには、自分の食物を得ることはできません。ヨブの試みも、神が許されたから与えられたのです。

104:23 人は自分の仕事に出て行き夕暮れまでその働きにつきます。

104:24 主よあなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。地はあなたのもので満ちています。

 人は、昼の間自分の仕事をします。人の業も、主の手の内にあることです。人は、自分の思いのままに生きているように考えても、神の定めたときに従って生きているのです。

 これらは、主の業です。この世界のすべての出来事が主の業として行われています。主は、その全てを知恵をもって造られました。ですから、その造られたものすべてを通してご自分の栄光を現されるのです。

104:25 そこには大きく広い海があり這うものや生き物は数えきれません。小さなものも大きなものも。

 海の生き物は、数え切れません。

104:26 そこを船が行き交いあなたが造られたレビヤタンもそこで戯れます。

 海は、船が行き交い、レビヤタンも住む広大なところです。

104:27 彼らはみなあなたを待ち望んでいます。あなたが時にかなって食物をお与えになるのを。

 そのような広大なところに住む数え切れない生き物たちは、神が時に適って食物を与えられるのを待ち望んでいます。その全てに食物を与えられるのは、主です。

 この生き物全ては、霊的な存在である人の比喩です。彼らを真の食物で満たすことができる方は、主です。

104:28 あなたがお与えになると彼らは集めあなたが御手を開かれると彼らは良いもので満ち足ります。

 主が食物を与えられると彼らは集めるのです。命のために集めます。人にとって、真の食物である主ご自身を知ることは、主が与えられるからです。その時、真の命を求める者たちは、命のためにそれを集めるのです。

 しかし、最も価値ある真の食物を誰が喜びとしているでしょうか。主が与えた時、それを喜んで集める者が誰かいるでしょうか。

 主は、良いものを与える方です。この「良い」は、主の目にかなっていることを表す言葉です。彼らは、その良いもので満ち足りるのです。これは、明らかに比喩です。海の生物の全てが自分の食べる食物を主の目に適った良いものとして満ち足りるでしょうか。それを知ることができるのは、敬虔な者たちです。

104:29 あなたが御顔を隠されると彼らはおじ惑い彼らの息を取り去られると彼らは息絶えて自分のちりに帰ります。

 また、主は、御顔を隠されます。その時、彼らは、おじ惑います。それは、試みであったり、懲らしめです。

 また、主は、息を取り去られます。彼らは、塵に帰ります。これは、肉体の命についてですが、霊的歩みについても言えることです。彼らが御霊によって歩まないならば、御霊の働きはなくなります。その時、人は、塵に帰るように空しいものとなります。命の歩みがないのです。

104:30 あなたが御霊を送られると彼らは創造されます。あなたは地の面を新しくされます。

 御霊を送られる時、彼らは、創造されます。地の面が新しくされるとあるように、新しく生まれさせられるのです。新しい創造なのです。

ガラテヤ

6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

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 神の業は、命を与えるために御霊を送られ、命の歩みをさせるのです。

104:31 主の栄光がとこしえにありますように。主がご自分のみわざを喜ばれますように。

 このようにして、主は栄光を現されるのです。その栄光を褒め称えるのです。主が御自分の御業を喜ぶためには、主の御心どおりに事がなり、主に栄光が帰せられることを通してです。

104:32 主が地に目を注がれると地は震え山々に触れられるとそれは煙を上げます。

 しかし、主は怒られることがあるのです。そのために主が地に目を注ぐのです。その時、地は震えます。山に触れるならば、煙をあげます。それは、裁きです。

 私たちは、命に歩むように期待されているのです。それは、主の栄光のためです。主がその御業によって栄光を現し、喜ぶためです。主は、地に目を注いでいます。私たちは、主を恐れるべきです。

104:33 私はいのちの限り主に歌い生きるかぎり私の神をほめ歌います。

 この人は、主の御業を深く覚えていました。全てが主の御業であり、命を与える業なのです。御心に歩むように働かれるのです。それを覚えるときと、生きる限り褒め歌を歌うのです。

104:34 私の心の思いがみこころにかないますように。私は主を喜びます。

 彼は、主が命を与えることを喜びとしていました。その彼の思いや考えが主の御心に適いますように願いました。彼は、自分の持つ考えが、主の御心に整合していることを願ったのです。自分がよしとする考えであったとしても、主の御心に適うとは限りません。もしそうなると、神の御心に適わないのですから、命に歩んでいるとはいえなくなってしまうのです。彼は、その心の思いさえも、主の御心に適い、主の栄光が完全に現されることを願ったのです。

104:35 罪人らが地から絶え果て悪しき者どもがもはやいなくなりますように。わがたましいよ主をほめたたえよ。ハレルヤ。

 それに対して、主の御心にかなわない歩みをする罪人が地から絶え果てるように、また、御心に背く悪しき者たちがいなくなりますようにと祈りましまた。これは、主が御業をなし、それによって栄光を現そうとしいるのに、それに全く適わない者たちであるからです。主を喜びとし、主の業によって栄光が現されることを願っている者にとって、それを妨げている者が絶え果てることを求めるのは当然のことです。御心の実現を願う強い思いから出ています。

 彼が主への賛美を「わがたましい」の叫びとして言い表しているのは、主の御心に適って歩む部分すなわち座がたましいであるからです。御言葉に従う歩みの中に、その賛美があるのです。