詩篇103篇

ダビデによる。

103:1 わがたましいよ主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。

 ダビデは、自分のたましいに呼びかけています。たましいは、主の言葉に従う部分いわば座です。たましいは、彼が主に従っていく中で、主の栄光を覚え、褒め称えるのです。

 その御名は、聖なる御名です。俗なるものとは分離したものです。私たちは、自分中心に物事を考えやすいですから、自分にとって良いことかどうかということで、神に感謝したり、褒め称えたりしますが、ダビデの賛美は、主の聖なる神にふさわしい御名に対するものです。

 「うちにあるすべてのもの」は、肉体的には、内臓ですが、これは比喩で、霊的な部分のことです。

103:2 わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 再び、たましいに呼びかけています。賛美の内容は、主が良くしてくださったことに対するものです。その全てを覚えて忘れることなく賛美するのです。

103:3 主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし

103:4 あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ

 主がなした良いことは、まず、全ての咎を赦されたことです。そして、全ての病を癒やされました。これは、霊的な病のことです。これは、たましいに関する詩であり、霊的な事柄を扱っています。そして、その結果もたらされるものは、命を穴から贖うことです。これも、肉体の病からの癒しでないことが分かります。

 穴は、滅びの比喩です。命は、主と共に歩むことで経験できる命です。そして、報いをもたらすことです。しかし、咎や霊的躓きである病は、それを破壊します。主は、そのようなところから回復させる方です。

 そして、恵みを賜ります。この恵みは、契約を忠誠をもって果たされることを表す語です。主が咎を赦し、病を癒やされるのは、彼の信仰に応えてのことです。主の前に謙り、主を求める者に対してそうされるのです。そして、そのような信仰に応え、祝福をもたらすことは、契約によることです。

 もう一つ賜るものは、あわれみと訳されていることで、「胎、ここから大切にすること」を意味します。主は、私たちを大切にお考えなのです。信仰によって求める者に応える方であるのです。

・「恵み」→契約に対する忠誠。

・「あわれみ」→胎、ここから大切にすること

103:5 あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。

 主は、その人を良いもので飾られます。「良い」は、主の目に適ったという意味です。人を変えて、主の目に適った良いもので満たされるのです。ここでは、飾りという語が使われていて、そのように主の目に適う実を結ぶことが、その人の栄光となっていることが表現されています。

 さらに、若さは、命の現れです。それは、老人との体力の違いではありません。一つ一つに衰えのない状態です。老人は、全ての機能が低下することで、老人と分かるのです。外見的にも、機能的にも分かるようになります。その命に満ちた若さは、鷲のようと表現されていますが、神的性質が例えられています。そのように、彼は、神のようになり、神の栄光を現す者となるのです。その命とは、神の御心を行うことで現される命です。

・「一生」→飾り。ここでは、霊的な飾り。良い実で満たされていること。これは、霊的な歌で、肉体の必要を満たすという話ではない。さらにいうならば、一生という肉体の命が続く期間だけのものではありません。

103:6 主は義とさばきをすべての虐げられている人々のために行われる。

 義は、正しさ、裁きは、正しさに基づく評決です。たといその人が人によって虐げられていても、主は、正しく評価して裁かれます。もちろん、虐げられている人は、主に従って生きている人のことです。

103:7 主はご自分の道をモーセにそのみわざをイスラエルの子らに知らされた方。

103:8 主はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。

 主は、御自分の道をモーセにまたイスラエルに示されました。それは、憐れみ深く、情け深いからです。憐れみ深いとは、同情する心です。

 情け深いことは、これは、求める者に喜んで答えることを表しています。

 また、怒るのに遅く、恵み豊かです。怒りと訳されている語は、鼻、顔を意味する言葉です。鼻から煙を出すことは、怒りによって裁くことを表しています。しかし、人の咎に対してすぐに怒りを現すことをしません。これは、人の弱さを御存知であり、人が主に求めるのを待っておられます。そして、求める者には喜んで答えるのです。恵みは、契約を忠誠をもって果たすことを意味します。求める者に喜んで答えることは、契約を忠誠をもって果たされることで現されます。

103:9 主はいつまでも争ってはおられない。とこしえに怒ってはおられない。

103:10 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。

 一旦犯された罪や咎について、いつまでもそれを追求することはなさいません。私たちが、その歩みの方向を変えたとき、赦されます。

 今日、信者は、義とされています。罪を犯したとき、告白するならば赦されます。

103:11(なぜなら) 天が地上はるかに高いように御恵みは主を恐れる者の上に大きい。

 主が私たちの罪咎を追求し続けることがないのは、契約によるからです。主は、契約を忠誠をもって果たされるのであり、罪を赦し、祝福を与えられます。その程度は、天の高さです。徹底的に果たされるのです。

103:12 東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。

 そして、その契約を果たすことに障害となる背きの罪を私たちから遠く離されます。背きとは、契約に対して背くことで、契約に対する違反です。

103:13 父がその子をあわれむように主はご自分を恐れる者をあわれまれる。

 これが四節のあわれみの説明です。あわれみは、「胎すなわち大切にする」という意味です。それは、父がその子を大切にするように、主は、ご自分を恐れる者を大切にされるのです。

103:14 (なぜなら)主は私たちの成り立ちを知り私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。

 なぜならば、私たちの成り立ちが塵に過ぎないことを心に留めてくださるからです。塵に過ぎない者が主を求めることに価値を見出されるのです。そのような者を変えて、祝福を与えることが神の栄光となるからです。

103:15 人その一生は草のよう。人は咲く。野の花のように。

103:16 風がそこを過ぎるとそれはもはやない。その場所さえもそれを知らない。

103:17 しかし主の恵みはとこしえからとこしえまで主を恐れる者の上にあり主の義はその子らの子たちに及ぶ。

 人の一生は、草のようです。それは過ぎ去り、誰にも覚えられないような存在です。しかし、主が契約を果たされることは永遠です。主が果たされる契約は、永遠のものであり、永遠の祝福をもたらします。その契約は、主を恐れる者の上に果たされます。そして、その人自身が契約の祝福を受けるだけでなく、主を恐れることがその子の子にまで及びます。彼らは、主によって義とされます。彼らも、契約の祝福を受け継ぐ者となるのです。

103:18 主の契約を守る者主の戒めに心を留めて行う者に。

 「恵み」と表現されている契約を忠誠をもって果たされることは、契約を守る者に対して果たされます。契約を守ることは、主の戒めに心を留めて行うことです。

 ここでは、「恵み」の意味が非常に明確にされています。契約を忠誠をもって果たすことなのです。契約ですから、戒めを行なって契約を果たす責任が伴います。

 今日、新約の信者も「あわれみ:ギリシア語の日本語訳。すなわち契約に対する忠誠。ヘブル語の日本語訳「恵み」と一致しています。」を受けている者です。肉によらず、御霊によって神の御心を行う者が永遠の資産としての報いを受けることです。

103:19 主は天にご自分の王座を堅く立てその王国はすべてを統べ治める。

 主は、天に王座を堅く建てられます。そして、全てをすべ治められます。その契約を果たすことは永遠であり、その祝福は、天における祝福なのです。

103:20 主をほめたたえよ主の御使いたちよ。みことばの声に聞き従いみことばを行う力ある勇士たちよ。

 ここでは、完全な存在である御使いを取り上げ、彼らは神の言葉の声に聞き従いそれを行う力ある勇士です。彼らは、主を褒め称えている者たちであり、神の言葉に聞き従うことで、さらに神を褒め称えるように促しています。 

103:21 主をほめたたえよ主のすべての軍勢よ。主のみこころを行い主に仕える者たちよ。

 彼らは、主の御心を行って仕える者たちです。

103:22 主をほめたたえよすべて造られたものたちよ。主が治められるすべてのところで。わがたましいよ主をほめたたえよ。

 そして、すべて造られた者たちに対して呼びかけられています。そこには、人がいます。彼らも、神の言葉に聞き従い、その御心を行うことで、主の栄光を見、褒め称えることができるのです。

 そして、当然に、我がたましいもです。