詩篇102篇

苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの。

 謙る者の祈り。彼が圧倒されて、自分の心のうちを主の前に注ぎ出した時のもの。

・「苦しむ者」→謙る者。その謙りは、神を求めることと強く関係しています。この謙りは、神またその御言葉に対する謙りであり、主だけを頼りとし、御言葉に対する信仰によって、主を求めることです。

・「気落ちして」→圧倒されて。

・「嘆き」→心のうち。文脈によって、さまざまな意味に使われている。

102:1 主よ私の祈りを聞いてください。私の叫びがあなたに届きますように。

102:2 私の苦しみのときに御顔を私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときにすぐに私に答えてください。

 まず願ったことは、主が答えてくださることです。

102:3 (なぜならば)私の日は煙の中に尽き果て私の骨は炉のように燃えているのです。

 それは、彼の日は尽き果てたからです。「煙の中に」と表現されていますが、煙は、裁きを表しています。彼は、主によって打たれたと考えました。その中で、主が答えてくださることを願いました。

 「私の骨」は、彼の持っている教えです。彼がよしとしている考えです。正常な信仰者であれば、その教えは、御言葉の教えに整合しています。しかし、その教えは、炉で焼かれるように、燃えています。神様の懲らしめを受けることで、自分が正しいとしてきた考えが試されるのです。

102:4 私の心は青菜のように打たれてしおれパンを食べることさえ忘れました。

 彼の心すなわち内面は、青菜が萎れるようです。生気がないのです。神と共に生きる喜びを失いました。

 パンは、真の食物である主です。その方によって満たされることを忘れました。

102:5 私の嘆きの声で私の骨は肉に溶けてしまいました。

 彼の嘆きのため、骨は、肉にすがりました。肉は、その人の持つ教えです。彼の持つ教えは、この時揺らいでいました。彼は、肉の考えにすがったのです。ここにも、彼の持つ教えが揺らいでいることが表されています。

・「溶けて」→すがる。

102:6 私はまるで荒野のみみずく廃墟のふくろうのようです。

102:7 私は眠ることもできず屋根の上のはぐれた鳥のようになりました。

 彼は、みみずくやふくろうのように、また、屋根の上の逸れた鳥のようになりました。荒野や廃墟にいることは、彼が一人孤立していることを表してます。逸れた鳥もそうです。そして、眠ることができないのです。彼には、助けはありません。一人で対処しなければならない状況に置かれたのです。このことを十七節で、頼るものが他にない意味で「裸」と言う語で表現しています。

102:8 敵は絶えず私をそしり嘲る者は私を名指しにして毒づきます。

 彼は、敵から誹りを受け、嘲られていました。

102:9 (なぜならば)まことに私は灰をパンのように食べ飲み物に涙を混ぜ合わせ(たからです。)ました。

 彼が、謗られ、罵られた理由が示されています。彼がパンとして食べるものは、真の食物としての主です。しかし、今は、虚しく感じ、それができていませんでした。それが、敵の謗りと嘲りになりました。

 また、彼の飲み物は、聖霊であり、それによって満たされるはずですのに、涙を流すだけで、満たしを経験することはありませんでした。それも。謗りと嘲りの対象となりました。

102:10 それはあなたが憤りと激しい怒りのゆえに私を持ち上げ私を投げ捨てられたからです。

 彼は、そのような状態に置かれたのは、主の憤りと激しい怒りであるとわきまえていました。

102:11 私の日は伸びていく夕影のようです。私は青菜のようにしおれています。

 伸びていく影は、実体ではないという意味で虚しく、伸びていくことで終わりが近いことを表しています。

 再び青菜のように萎れていると言い表しましたが、彼には、命の活動が衰えていました。

102:12 しかし主よあなたはとこしえに御座に着いておられます。あなたの呼び名は代々に及びます。

 しかし、彼は、主に思いを馳せました。主は、とこしえに御座に着いておられる方です。主の御名は、永遠です。その方が事をなさるのです。

102:13 あなたは立ち上がりシオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来ました。

102:14 (なぜならば)まことにあなたのしもべたちはシオンの石を喜びシオンのちりをいとおしみます。

 彼は、大胆に、主がシオンを顧みるときである事を言い表しています。あわれんでとは、胎のように大切にすることです。そして、いつくしむとは、呼び求める者に喜んで応えることです。彼がそのように言う理由が続いています。

 それは、主のしもべたちがシオンの石を喜び、シオンの塵を愛おしむからです。なんでもないような石や塵さえも尊いものと考えているからです。エルサレムは、主の町です。主のものであるから尊んでいるのです。主御自身がこれを喜びとしないでしょうか。ですから、主がエルサレムのために事をなす時であると言っているのです。

・「あわれんで」→大切にする。

・「いつくしみ」→求める者に喜んで応える。

102:15 こうして国々は主の御名を地のすべての王はあなたの栄光を恐れます。

102:16 なぜなら主はシオンを建て直しその栄光のうちに現れ

102:17 窮した者の祈りを顧み彼らの祈りをないがしろにされないからです。

 そのように主が答えることで、国々は、主の御名を恐れ、主の栄光を恐れるのです。主は、シオンを立て直し、主の栄光のうちに現れられます。このように、主は、主に全く頼る祈りを顧みられます。彼らの祈りを蔑ろにはされません。

・「窮した」→裸の。比喩的に貧しい。窮したと言う追い込まれた状況ではなく、何も持たないことを意味しています。主以外に何も持たないのです。

102:18 このことが後の世代のために書き記され新しく造られる民が主を賛美しますように。

 主が実際に栄光を現されることが書き記され、後の世代が主を賛美することを祈りました。彼らも新しく造られた民です。主を知る者として造られた民が主の栄光を知ることができるようにです。

102:19 (なぜならば)主はその聖なるいと高き所から見下ろし天から地の上に目を注がれました。

102:20 捕らわれ人のうめきを聞き死に定められた者たちを解き放つために。

 後の世代が賛美する理由が記されていて、主は、聖なるいと高きところから見下ろし、天から地の上に目を注いでいることが明らかにされたからです。主は、囚われ人のうめきを聞き、死に定められている者たちを解き放ちます。

 囚われ人は、霊的比喩として、内住の罪の奴隷となっていることを表しています。死に定められている者は、内住の罪に従い、神の前には死んだ歩みをしていることを表しています。そのような者を解き放たれるのです。

102:21 人々が主の御名をシオンで主の誉れをエルサレムで語り告げるために。

 さらに、人々が主の御名をシオンで語りつげるためです。主のその偉大な業のゆえに主の誉を語り告げるのです。主の業は、信じる者が神のさまに変えられる働きです。それを実現するのは、主イエス様です。これに勝る業はありません。

102:22 諸国の民や王国が一つに集められて主に仕えるために。

 さらに、諸国の民や王国が一つに集められて主に仕えるためです。

 このような栄光を主は現されるのです。そのことは、記され、後の世代も賛美するためです。

102:23 主は私の力を道の半ばで弱らせ私の日数を短くされました。

 彼は、もう一度現状について言い表しました。彼は、力を失いました。私の日数を短くされたと言いましたが、肉体の命を失ったと言うことではありません。肉体が死んだ人は何も言うことができません。冒頭に言い表されているように、彼が主を喜びとして歩む、命の歩みが揺らいでいたのです。

102:24 私は申し上げます。「私の神よ私の日の半ばで私を取り去らないでください。あなたの年は代々に至ります。

 彼の具体的な求めをもう一度言い表しました。日の半ばで彼を取り去ることをしなでくださいと。彼に救いを与えることを願ったのです。

 その時言い表したのは、主の年は世々に至ることです。彼は、主が永遠の存在であり、その方の前に永遠に生きることを考えていました。主の前に立つ時、この地上での歩みに対する報いを受け、栄光を受けるのです。ですから、今、自分の信仰の歩みを確かなものとしてくださることを願いました。

102:25 あなたははるか昔に地の基を据えられました。天もあなたの御手のわざです。

102:26 これらのものは滅びます。しかしあなたはとこしえの方です。すべてのものは衣のようにすり切れます。外套のようにあなたがそれらを取り替えられるとそれらはすっかり変えられます。

102:27 しかしあなたは変わることがなくあなたの年は尽きることがありません。

 そのことは、天も地も御手の業であるが滅びること。しかし、主の年は尽きることがないことです。その栄光は、永遠のものです。

 なお、この箇所は、ヘブル人への手紙一章に引用されて、主イエス様の永遠性の証明されています。

102:28 あなたのしもべたちの子らは住まいを定め彼らの裔は御前に堅く立てられます。」

 彼の願いは、十八節の願いのように、今主が栄光を現し、そのことが書き記されることです。その後の子孫がその書き物により、主の栄光を知り堅く立てられることなのです。

 その主を信じるしもべたちの子らが御前に堅く立てられることなのです。彼らが住まいを定め、主の祝福のうちに繁栄することです。