詩篇101編
ダビデによる。賛歌。
101:1 恵みとさばきを私は歌います。主よあなたにほめ歌を歌います。
ダビデが強い関心を抱き、また、主の業として讃えるのは、主が契約を忠誠をもって果たされること、そして、その評決です。ことを評価し、良し悪しに応じて裁くことです。
契約を守る者に対しては、大いなる祝福を与え、契約に背き、御言葉に背くならば、その悪を裁くのです。
ダビデは、契約を守る者に対して、契約の祝福を徹底して果たされる主を賛美するのです。契約に背く者であるならば、このように賛美することはできません。恐れなければなりません。これは、厳粛なことです。
・「恵み」→契約に対する忠誠。
・「さばき」→評決。
101:2 私は全き道に心を留めます。いつあなたは私のところに来てくださいますか。私は家の中を全き心で行き来します。
そして、その契約と裁きを覚えていたので、彼は、全き道に心を留めました。すなわち、全き道は、神の教えに適う道です。心を留めるというのは、その教を受け入れ、その中に生きるように心を用いることです。そのようにして、神の教えに適った全き歩みをしようとしたのです。それは、主が彼のところに来てくださるからです。主は、そのような者とともに歩まれる方です。
今日も、主は、信じる者と一つになって歩んでくださる方です。全き道に歩む者と共におられます。
ヨハネ
6:47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。
信じる者が永遠の命を持っているのです。それは、単にイエス様が救い主と信じて、地獄の滅びから救われることだけではありません。信仰によってイエス様がその人のうちにお住みになられ、業をなすことを信じる信仰によって、永遠の命をもつのです。その業は、神の評価を受け、永遠の報いをもたらします。主と一つになって歩むことが永遠の命です。
6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52 それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
イエス様の肉を食べ、血を飲むことは、イエス様を完全に自分のうちに受け入れることです。パンは、一つの比喩として示されていますが、ユダヤ人にとって、イエス様がいのちのパンであるという比喩を理解することができませんでした。腹を満たすものとしてしか考えていなかったのです。パンが表していることは、食べるように受け入れることであることを明確に示すために、肉と血の例えを持ち出されたのです。それは、自分自身を満たすためという要素を取り除いた比喩になっています。とても食べられるようなものでない物を食べるという比喩にしたのです。それによって、食べて内に入れるという要素だけが残りました。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
イエス様の肉を食べ血を飲むことがもたらすことは、イエス様の内にとどまり、イエス様もその人の内にとどまるのです。それは、イエス様が父によって生きているのと同じようになることです。すなわち、父の御心だけを求められ、父がイエス様のうちにあって業をなされたように、私たちも、信仰によってイエス様が内に住んでくださることにより、イエス様の愛を御霊によって知り、自分自身の肉を殺し、イエス様によって歩むようになるのです。自分のうちにあって、イエス様が業をなすようになるのです。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
イエス様を食べるとは、イエス様が私たちの心の内におられるようになることです。そのように、受け入れることであるのです。そうするならば、私たちは、イエス様によって生きるようになるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
先祖が食べたパンとの違いは、そのパンは、食べたが死んだことです。腹を満たしましたが、それだけのことです。しかし、イエス様を受け入れて、イエス様によって生きるならば、永遠の命をもつのです。これは、地獄の滅びから救われることだけでなく、永遠の報いを受けることを言っています。
--引用終了
そして、彼が全き者として過ごすことは、家の中でも変わりません、家の中を行き来する時、全き心でするのです。
・「全き」→完全さ。道徳的に潔白なこと。
・「心」→五節の「おごる心」の表現から、神の言葉に従う部分を表しています。おごるとは、自分自身の考えを優れたものと考え、勝手な振る舞いをすることで、神の言葉に従うことをしません。
人目のあるところでは、誠実な者であるのに、家では、獣のようになります。理性もなく、欲望や感情のままに過ごすのです。豹に変わるのです。
101:3 私は目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みそれが私にまといつくことはありません。
目の前に卑しいことを置きません。そのようなものを置けば、誘惑を受けるのです。それらがないように排除するのです。
また、曲がった業を憎みます。容認するようなことはないです。ですから、それが彼にまといつくことはないのです。
このように、生活の中で、一切の汚れを絶ちました。
101:4 曲がった心は私から遠ざかります。私は悪を知ろうともしません。
「知ろうともしません。」→「知ろうとしません。」すなわち、経験しない。
曲がった心は、神の教えに対して曲がっている心です。それは、遠ざかります。悪を知ろうとしません。悪を行うことをしないのです。
101:5 陰で自分の隣人をそしる者を私は滅ぼします。高ぶる目とおごる心に耐えることはできません。
彼は、まず自分自身を清めました。そのうえで、彼は、国の人々に対する態度についても言い表しています。
彼は、陰で隣人をそしる者を滅ぼすと言い表しました。隣人をそしる者は、神の律法に背いているのです。隣人を自分と同じように愛することが律法であるからです。
心は、神の言葉に従う部分を表しています。目は、信仰の比喩で、神の言葉を受け入れる部分を表しているからです。
高ぶる目は、神の言葉を受け入れないのです。そして、おごる心は、神の言葉に従わず勝手な振る舞いをするのです。
101:6 私の目はこの国の忠実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者その人は私に仕えます。
彼がこのように言うのは、王として国を治める者であるからです。彼の目は、国の信じる者たちに注がれます。ここでは、明確に「信じる」という動詞が使われていて、神の言葉に対する信仰があるかどうかを問題にしています。忠実と訳すにしても、その忠実は、神の言葉に対する忠実です。そのような人がダビデとともに住むためです。神の言葉を蔑ろにする者たちが、彼とともに住むことはないのです。
そして、全き道を歩む者とは、神の言葉に対する潔白さをもって歩む者なのです。そのような人が、御言葉に歩むダビデに仕えることができます。
・「忠実」→信じる。動詞。
101:7 欺きを行う者は私の家の中に住むことはなく偽りを語る者は私の目の前に堅く立つことはありません。
欺きは、神の言葉に従うように見えて、そうしない偽善者のことです。偽りを語る者は、御言葉の真理を語るのでなく、それに背いたことを語る者のことです。そのような者がダビデの家に住むことはありません。また、彼の目の前に堅く立つことはないのです。彼は、身近な者たちがまずきよくあることを求めました。そのような者こそ、国を神の言葉にかなって治めることができるのです。
今日、教会の監督についても、まず家庭がきよくあることが求められています。
テモテ第一
3:5 自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。
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101:8 朝ごとに私は国の中の悪しき者をことごとく滅ぼし主の都から不法を行う者をことごとく断ち切ります。
そして、国の中の悪者をことごとく滅ぼし、不法を行う者を断ち切るのです。