箴言9章
9:1 知恵は自分の家を建て、石の柱を七本、切り出し、
9:2 いけにえを屠り、ぶどう酒を混ぜ合わせ、その食卓も整え、
知恵は、自分の家を建てました。石の柱七本は、比喩になっています。石は、教えの比喩です。七つは、満たす意味での完全さを表しています。柱は、証しを表しています。
いけにえをほふったことは、イエス様の贖いの御業が完成されたことの比喩です。ぶどう酒は、自分を捨てることを表しています。肉にはよらず、御霊によって生きることの比喩です。食卓は、満たしを表しています。真の食物は、主イエス様です。その方を受け入れ一つになって生きることが永遠のいのちの一つの面です。
9:3 侍女たちにことづけて、町の最も高い所で呼びかけさせた。
侍女たちは、知恵に仕える者たちのことで、神様に仕える仕え人の比喩です。彼らは、高い所からだれにでも聞こえるように呼び掛けさせられました。これは、宣教の働きです。
9:4 「浅はかな者はみな、ここに来なさい」と。また、良識のない者に言った。
「浅はかな者」は、知恵としての、御心を受け入れ従う分別が未熟な人のことです。そのような人にここに来なさいと呼びかけます。
「良識のない者」は、「心」のない人のことで、心は、霊的活動の領域を指します。御言葉を受け入れ従う分別や、それを自らの教えとなし、その中に生きる分別のない人のことです。
・「浅はかな者」→判断力が未熟な人。
・「良識」→霊的活動の領域を指します。心臓。心。欲望を含まない。
9:5 「さあ、わたしのパンを食べなさい。わたしが混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい。
わたしのパンは、いのちのパンとしてのイエス様の比喩です。葡萄酒は、自分を捨てて生きることを表していて、そのように生きるように言います。
9:6 浅はかさを捨てて、生きなさい。分別のある道を、まっすぐに歩みなさい」と。
浅はかさを捨てて、生きるように言います。知恵を得ることは、「分別」を得ることであり、神の御心対して真っ直ぐ歩むことであるのです。
このように、分別は、神の御心を受け入れ従う分別であることが分かります。
・「浅はかさ」→分別があることと対比されています。分別の未熟な人のことです。
9:7 嘲る者を戒める者は、自分が恥辱を受け、悪しき者を叱る者は、自分が傷を受ける。
嘲る者を戒めても、効果がないのです。受け入れる心がないからです。逆に反発を受け、自分が恥辱を受けます。
悪しき者を正させるならば、彼には良いこと、正しいことを求める心がないので、正させることで、傷を受けることになります。その腹いせを受けることになるのです。人に正された時、人は自分が馬鹿にされたと思うのです。愛による忠告だとは考えません。正しいことが語られていたとしても素直に受け入れることは稀です。信者の間でもそのようなことが起こるのです。自分の考えに合わなければ大いに反発します。自分が間違っていることが分かってもそうです。
・「叱る」→正す。使役語幹、能動態。正させる。
9:8 嘲る者を叱るな。彼があなたを憎まないために。知恵のある者を叱れ。彼はあなたを愛する。
それで、嘲る者を正させない。彼があなたを憎まないためです。正しい状態にさせることに対して、それを受け入れて、正すのでなく、それをさせようとする人を憎むからです。
知恵のある者を正させる。彼は、あなたを愛します。
・「叱る」→正す。使役語幹、能動態。未完了形。継続、繰り返しを表す。命令形ではありません。
9:9 知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵ある者となる。正しい人を教えよ。彼は洞察を深める。
知恵のある者に与えます。与えるものが具体的に記されていませんが、七節から戒めたり、正させることが取り上げられています。それらを知恵のある者に適用することです。彼は、ますます知恵のある者になります。正しい人を教えるのです。彼は、教えを受けます。
・「洞察を深める」→教えを受けること。なお、洞察は、(物事の本質を)見通すこと。見抜くことで、ここでは、教えを受けたらそうなるという内容にはなっていません。これは、正しさについての教えを受けることを言っています。
9:10 主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。
主を恐れることは、知恵の初めです。神の言葉を受け入れ従うはじめは、主を恐れることから始まります。何の良い行いがないにしても、主を恐れることは、初めに獲得することです。創造主を知り、聖なる方を知ることになるからです。また、主を恐れることがなければ、それ以降の歩みは、単なる形式になりやすいのです。
それで、聖なる方を知ることは、実体験として主を知ることです。主の御名すなわち実在とその力とその聖さと愛などを信仰により、自分の経験として知ることです。単なる教えを受けるだけでなく、その中に生きることで知ることであるのです。それが悟りです。
このように、悟りは、教えの体現であるのです。教えられたことが、その人自身の持つ教えとなり、その人の行動となることです。
・「悟り」→行動の基準となる教え。分別。その人の持つ教え。主に「理解する」「見分ける」という意味を表す。異なる要素を区別し、その意味を理解し、十分な情報を得た上で決断を下すという過程が含まれる。
9:11 わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年が加えられるからだ。
その理由が示されています。それは、主によって命が増し加えられるからです。永遠の命を獲得することに勝る祝福はないのです。そのような祝福を獲得することは、主にかかっているからです。それで、主を恐れ、教えられたことを自分のものとして生きることをするのです。それによって永遠の命を獲得します。
9:12 あなたが知恵を得るなら、自分のために知恵を得ることになり、嘲るなら、自分だけが責めを負うことになる。
もし、知恵を得たならば、自分のために知恵を得たのです。あなたが、嘲るようになったならば、あなただけがそれを負い続けます。その人が、神の言葉に対してとる態度の結果を、その人だけが負うことになるのです。
・「責めを負う」→負う。
9:13 愚かな女は騒がしく、わきまえがなく、何も知らない。
愚かな女は、知恵の次女と対比されています。その女は、騒がしいのです。大きな音を立てて、人を惹きつけます。わきまえがないのです。何も知らないのです。
9:14 その女は自分の家の戸口に座り、町の高い所にある座に着き、
9:15 道行く人々に呼びかけて言う。自分の道をまっすぐ歩く人々に。
彼女は、自分の家の戸口に座ります。通りの人に呼びかけるのです。また、町の高いところにある座に着きます。これは、もっと広範囲の町全体に呼びかけることを表しています。彼女が呼びかけるのは、自分の道をまっすぐに歩む人です。彼自身は、道をまっすぐに進む人です。初めから道を逸れているわけではないのです。
9:16 「浅はかな者はみな、ここに来なさい」と。また良識のない者に向かって、この女は言う。
9:17 「盗んだ水は甘く、こっそり食べるパンはうまい」と。
分別の未熟な人に向かって呼びかけます。ここに来なさいと。この人は、何が正しいかをわきまえていない人です。その判断力がないのです。
また、「良識」の欠けている人に向かって言います。「良識」は、人の内面のことで、ここでは、霊やたましいの健全な活動のことを指しています。これは、霊的な歩みのない人のことです。そのような人に向かって、盗んだ水は甘いと言います。神の言葉に従って生きる分別を持たない者は、そのような言葉に騙されるのです。こっそり食べるパンはうまいと。盗んだパンをこっそり食べるのです。自分のパンであるならば、堂々と食べればよいのですが、これは、盗んだ物なのでこっそり食べるのです。
・「浅はかな者」→判断力が未熟な人。
・「良識」→霊的活動の領域を指します。心臓。心。欲望を含まない。
9:18 しかし彼は、そこに死者の霊がいることを、その女の客がよみの深みにいることを、知らない。
彼は、そこに死者の霊がいることを知りません。霊は、教えをなす座を表していて、人のことです。ここでは、死をもたらす教えをなす者のことを表しています。そして、その客は、その教えを受け入れるのですから、よみの深みにいるのです。