箴言5章
5:1 わが子よ、注意して私の知恵を聞け。私の英知に耳を傾けよ。
この人は、自分の分別を子に聞かせました。神の御言葉を受け入れて従う分別としての知恵と御心のとおりに行う分別としての英知です。それを具体的な事例を挙げて教えました。
英知は、主から出る御心の通りに行う分別です。
5:2 あなたが思慮深さを守り、あなたの唇が知識を保つために。
それは、思慮深さを守るためです。
その人の持つ教えが、主の御心に整合され、それが保たれるためです。
知性は、御心を行う力。思慮は、受け入れているその人の持つ教え。
8:14 摂理と知性はわたしのもの。わたしは英知であり、わたしには力がある。
摂理は、計画。英知は、なすべき御心。知性は、力に対応しています。御心を行う力のことで、それは、御霊の働きです。
5:3 よその女の唇は蜂の巣の蜜を滴らせ、その口は油よりも滑らかだが、
よその女の唇は、彼女の言葉を表しています。それは、蜜にたとえられています。蜜は、健全な教えの比喩で、たましいに甘く、喜んで従うことができる言葉の比喩です。そして、その人の持つ教えを健やかにします。しかし、この場合は、誘惑の言葉です。確かに喜んで従うことができる言葉なのです。そして、その人の心に入り、その人は、その言葉に従って行動するようになるのです。その結末については、次節に記されています。
その口は、やはり言葉のことで、油よりも滑らかです。それは、巧みな言葉なのです。それとともに、油にたとえられています。油は、聖霊の比喩です。語られるが健全な言葉として語られるならば、その人は、聖霊に満たされるようになります。しかし、この場合には、その言葉は、悪魔の働きによってなされるものです。結局は、悪魔の支配を受けることになります。その人自身は、そのように知ることはないにしても、誘惑の言葉に従い、肉の欲に従って生きるようになるのです。
5:4 終わりには苦よもぎのように苦くなり、両刃の剣のように鋭くなるからだ。
甘いと感じられた言葉は、苦くなります。にがよもぎは、苦く、もはや口に入れることができなようになります。甘い言葉に従った結果、その言葉がもたらすものに気付くからです。はじめは、甘く感じられて欲望がまさるのです。後から気付くことになります。
油のように滑らかに自分の内に入って来ましたが、その誤りに気付くようになります。その誘惑の言葉が自分を滅びに至らしめる悪と気付くとき、それは、鋭さをもって突き刺さります。かれは、滅びの淵に立った時、今まで聞いた言葉で鋭く判別できるようになるのです。このままでいいとは思わなくなるのです。
なお、両刃の剣は、その鋭さに焦点が当てられています。
ヘブル
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
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これは、日本語が意味しているように、自分にも害があることを言ってはいません。分別の鋭さなのです。
5:5 この女の足は死に下って行き、その足取りはよみをつかみ取る。
この女の道がどのようなものかを示しました。死に下って行きます。彼女は、読みをしっかりと掴み離しません。必ずよみに至ることを表しています。
・「つかみ取る」→何かや誰かをしっかりとつかむ。
5:6 その女はいのちの道に心を向けない。彼女が通う道はあてどもなくさまよう。しかし彼女は、それを知らない。
その女の求めるものは、死の道です。いのちの道に目を向けません。彼女は、命を求めて真っ直ぐに歩むことをしません。彼女の道は、さまよう道です。彼女自身は、そのことを何も知らないのです。
5:7 子たちよ、今、私に聞け。私の口のことばから離れるな。
5:8 あなたの道をこの女から遠ざけ、その家の戸口に近づくな。
子たちに、この女の道から遠ざかるように言いました。女の戸口に近づかないようにと。近づけば、誘惑されます。
5:9 そうでないと、あなたは自分の誉れを他人に渡し、あなたの年月を残忍な者に渡すことになる。
自分の誉れは、神から受ける誉です。その誉は、そのような誘惑に打ち勝つ他の人の誉れとなります。そして、その後の彼の地上での年月は、残忍な者すなわち悪魔に渡されます。彼は、悪魔の支配を受けて一生を過ごすことになります。
5:10 また、他人があなたの富で満たされ、あなたの労苦の実は見知らぬ者の家に渡る。
彼が受けるはずの富は、他の人に渡されます。敬虔に歩む者がその富を受けるのです。これは、神から与えられる報いのことです。
5:11 そして、あなたの終わりにあなたはうめく。あなたの肉とからだが滅びるとき。
彼は、肉と体が滅びる時に呻きます。それは、人生の終わりです。「肉」があえて取り上げられているのは、彼がこのように気付くのは、肉が滅びるからです。彼を欲望に駆り立てていたのは、肉です。そのために、してはならないことをしていたのです。しかし、その肉ももはや働かない時が来るのです。多くは、何の喜びもない年月が来た時です。そのとき、肉体の感覚は機能低下し、肉欲を満たすことができなくなるし、肉欲も失われるのです。
5:12 そのとき、あなたは言う。「ああ、私は訓戒を憎み、私の心は叱責を侮った。
その時、彼は、肉に従って訓戒を憎み、心は叱責を侮ったことに気付くのです。肉欲を追及しているときには、気付かないのです。咎めを感じても、無視したり、理由をつけて退けるのです。
5:13 自分の教師の声に聞き従わず、自分を教える者に耳を傾けなかった。
彼は、教師の声を聞いていたのです。しかし、聞き従うことはありませんでした。彼は、教えを聞いたのに、耳を傾けることはなかったのです。
5:14 私は、集会、会衆のただ中にあっても、ほとんど最悪の状況であった」と。
集会の多くの人が主の訓戒に聞き従い歩んでいる中で、彼は、生涯の終わりまで肉欲のままに生きてきたのです。彼は、最悪の状況にあったのです。
彼が肉欲に従って生きてきたことは、集会の中に現れなかったかもしれません。しかし、彼は、最悪でした。
5:15 あなた自身の水溜めから水を飲め。流れ出る水を、あなた自身の井戸から。
この水を飲むことは、自分の妻によって満たされることを表しています。水溜の水は、御言葉の比喩です。まだ、井戸に流れ出る水は、聖霊によって働く御言葉の比喩です。妻以外の女を求めることが違法であり、罪なのです。自分の妻によって満たされることは、神の教えに適ったことであり、聖霊によって御言葉に従うことであるのです。
5:16 あなたの泉を外に散らし、広場を水路にしてよいものか。
彼がしている不法行為を自分の妻に適用して考えて見よと言っています。自分の妻を他の人のものとして与えることは、良いことなのかと。広場は、多くの人の集まりを表しています。彼女を遊女のように他人に与えることはしてよいことなのかと問うています。
5:17 それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他人のものにするな。
それを自分のものにしなければなりません。他の人のものにしてはなりません。自分に与えられているものなのです。
5:18 あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若いときからの妻と喜び楽しめ。
妻との関係だけを持つことが泉を祝福されたものとすることです。そのようにすることで、楽しみ喜ぶことができます。若い時からの妻と記されていて、年老いてもなおもそのようにするのです。他の女に向かってはならないのです。
5:19 愛らしい雌鹿、麗しいかもしか。彼女の乳房がいつもあなたを潤すように。あなたはいつも彼女の愛に酔うがよい。
彼女の価値は、雌鹿、麗しいかもしかと表現されているように、高嶺を歩む信仰者であることです。その彼女の乳房は、直接的には、性的愛撫の対象として表現されています。それとともに比喩になっていて、乳房は、愛の現れを表しています。続く言葉も、「彼女の愛」として取り上げられています。その彼女の愛によって満たされるのです。
5:20 わが子よ。どうしてよその女に夢中になり、見知らぬ女の胸を抱くのか。
若いころからの連れ合いである妻の愛に酔うことで満たされるのに、なぜ、見知らぬ女の胸を抱くのかと。胸は、乳房と同じように愛を表しています。しかし、乳房が表す愛は、真実の愛です。信者であっても、成長の初期の段階には、キリストに対する真実の愛があるわけではありません。下記の聖句は、そのことを表しています。
雅歌書
8:8 私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげようか。
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見知らぬ女に関しては、「胸」と表現されています。その愛は、情愛です。乳房が表す愛は、霊的成長を遂げた者の愛です。彼女は、水溜の水とも、流れとも、泉とも表現されていて、神の言葉に従い、聖霊によって歩む敬虔な歩みがあるのです。その彼女の捧げた愛を蔑ろにしてはならないのです。
5:21 人の道は主の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。
主は、人の道に目を注いでおられます。その道筋のすべてに心を向けてくださいます。主の御心に適った歩みを通して栄光を現されるのです。
5:22 悪しき者は自分の咎に捕らえられ、自分の罪の縄に捕まえられる。
一方で、悪しき者は、真っ直ぐに歩めません。彼は、自分の咎に捕らえられます。自分がした悪によって、彼自身が捕らえられます。彼を捉えるのは、欲望であり、内住の罪です。その実現として彼の悪があり、彼は咎ある者、罪ある者となるのです。彼自身は、そこから離れることができなくなります。それが捕らえられるということです。
5:23 その人は訓戒を受け入れることなく死に、あまりの愚かさゆえに道から迷い出る。
その人は、訓戒を受け入れることがありません。それゆえ、御言葉によって教えられ、欲に従うことから離れるということができないのです。彼は、神の前に実を結ぶことがありません。生きた者としての歩みができず、死ぬのです。天の報いを受けることができません。
訓戒を受け入れないことが愚かさであり、教えられて悪から離れないことが愚かさなのです。それで、道から迷い出ます。あまりの愚かさと表現されていて、極めて愚かであるのです。