箴言27章
27:1 明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないのだから。
明日の日について、自ら大いに誇ってはならない。なぜならば、あなたは、日が何を産むか知らないからだ。
「日」を中心に、前半と後半が回っています。「日」を誇ることと、「日」が産むことという表現によって、両者はつながっています。事が自分の思い通りに進むと誇ったとしても、事を起こされるのは、主です。その、起こる事が、日が産むものです。人は、主のなさることを知らないので、誇ることはできません。主のなさることに委ね、そのままに受け入れるの良いのです。
27:2 自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分の唇でではなく、よその人によって。
自分の口ではなく、見知らぬ者にあなたを大いに褒めさせよ。自分の唇ではなく、見知らぬ者によって。
見知らぬ者は、多くは、外国人を指しています。ここでの意味は、自分が見知らぬ人です。彼を客観的に評価する人のことです。普段から交わりのある人であるならば、多くは、思い入れがあり、正しく評価はしないのです。
27:3 石は重く、砂にも重みがある。しかし、愚か者の苛立ちはどちらよりも重い。
石の重さ、また、砂の重み、そして、愚か者の怒りは、二つより重い。
愚か者の怒りは、自分の思い通りに事が進まないところから来ます。また、愚か者に対しては、神の懲らしめがあります。神の主権を認め、神に従って生きるとき、全てを神に委ねる事ができますので、怒りはないのです。神の主権を認めず、その言葉を受け入れることもない愚か者は、怒るのです。それは、神に従わない結果もたらされるものであり、重いのです。まして、信者が怒りを現すことは、霊的に正常でないことが疑われます。
27:4 憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前には、だれが立ちはだかることができるだろうか。
憤りは残酷で、怒りは溢れ出る、それで、誰が妬みの前に立つだろうか。
妬みによる憤りは、人を殺すことさえして、残酷なのです。怒りは、止まることを知らず溢れ出ます。妬みの前に立つことはできません。
・「残忍」→残酷。「残忍」は、主体が性質や心になる。妬みという要因によって引き起こされる憤りであり、その人の性質によらないので、整合しない。
・「しかし」→接続詞 waw。そして、しかし等。前半は、妬みによる行動で、後半は、妬みで受けているので、順接。それで~。
27:5 あからさまに責めるのは、ひそかに愛するより良い。
あからさまに叱責することは、隠された愛より良い。
愛の形で、あからさまに叱責することは、隠された愛より良いのです。隠された愛は、心のうちに愛しているが、何一つ行動を伴わないのです。それよりは、相手を叱責によって傷つけることがあっても、行動した方が良いのです。
なお、この比較は、行動を伴わない愛と、行動を伴う愛の比較です。その場合、より良いものの最低の水準にある者を比較対象としていて、その方が良いということで、行動を伴う愛の全てが良いことを示しています。ですから、叱責することは、愛の最低水準にある愛の形であることをわきまえておく必要があります。叱責することが良いことであると勘違してはいけません。叱責以外のもっと良い愛の形があることを忘れてはいけません。
27:6 愛する者が傷つけるのは誠実による。憎む者は多くの口づけでもてなす。
愛する者からの傷は、自らの誠実により、憎む者の口付けは、自ら溢れさせることによる。
前半の「誠実である」ことと、後半の「溢れさせる」は、ニファル隊で受け身や再帰を表します。ここでは、再帰で自ら進んでしていることとして記されています。意図的なのです。愛によって行動する人は、誠実であるために傷つけるのです。憎む者は、愛していなくても、騙すために意図的にすなわち計算ずくで口付けするのです。
27:7 満ち足りている者は蜂の巣の蜜も踏みつけ、飢えている者には苦い物もみな甘い。
満ちているたましいは、滴る蜜を踏みつける。飢えているたましいには、苦いものもみな甘い。
たましいが飢えを忘れたら、霊的成長はありません。今、満ちていると考えているたましいは、蜜によって表される御言葉をそれ以上求めることはしません。それが、たましいにとって滴る蜜のように甘いものでも、踏みつけて受け付けないのです。それで、御言葉を貪欲に研究し、神の御心を知り、従うことを求めようとはしないのです。
飢えているたましいには、御言葉が示している苦いと感じられる言葉も全て甘いのです。多くの人は、苦いと感じる御言葉を吐き出すのです。肉を捨てることができないからです。しかし、この人は、貪欲に求めるのです。飢えているからです。御言葉に対する飢えを無くしたら、終わりです。
・「者」→たましい。
27:8 自分の巣を離れてさまよう鳥のように、人は自分の家を離れてさまよう。
自分の巣を突然離れて逃げる鳥のように、人は、自分の場所から離れて逃げる。
自分の巣や人の自分の場所は、安定した現状です。しかし、突然にそこから逃げざるを得なくなることがあることを示しています。それは、外的要因によります。それは、主によることです。主は、安定した現状に留まり続けることを望みません。もっと高みに導くために事を起こされるのです。現状に留まり続けることは、霊的には、良いことではないのです。
・「さまよう」→安定した場所から突然離れること。
27:9 香油も香も心を喜ばせる。友の慰めは自分の考えにまさる。
油と香は、大いに心を喜ばせる。また、友の心地よさは、たましいへの助言から。
油と香は、心に心地よいのです。友の心地よさは、たましいに必要な助言を与えてくれるからです。この助言は、たましいが神の前に健全に歩み、御心を行って、御国で報いを受けられるように助言してくれることです。
それが、油と香の心地よさに例えられていますが、油は、聖霊の比喩です。香は、キリストの香りの比喩です。それは、たましいが御心に適って歩む上での力であり、模範となるものです。友の助言の働きと同じです。
・「慰め」→助言。「慰め」と訳されている語は、「自分の考え」に対比されています。これは、感情に関わることではありません。「慰め」は傷ついた相手の感情に寄り添い、心を癒やすことを目的とします。一方、「助言」は具体的な解決策を提示し、現状を改善させることに重きを置きます。
27:10 あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難にあうとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。
あなたの友、また、あなたの父の友を捨ててはならない。そして、あなたの苦難の日に兄弟の家に行ってはならない。近くの隣人は、遠くの兄弟より良い。
友として結びついている人を捨ててはならないのです。自分の友であれ父の友であれ、大切にするのです。そして、普段から付き合っている隣人を頼りとし、わざわざ遠くの兄弟の家に行くことをしてはならないです。遠く離れた兄弟は、血のつながりがあっても、あなたと心を通わせてはいないからです。
27:11 わが子よ、知恵を得よ。私の心を喜ばせよ。そうすれば、私をそしる者に、私は言い返すことができるだろう。
我が子よ、知恵ある者になれ。私の心を大いに喜ばせよ。そうすれば、私は、私を嘲る者に言葉を返そう。
この父は、息子のために嘲られていたのです。彼が、神の言葉を受け入れて従う分別としての知恵がないからです。息子が知恵ある者になることは、父の心を大いに喜ばせ(強意語幹)ます。嘲る者にも、言葉を返すことができます。
27:12 賢い人はわざわいを見て身を隠し、浅はかな者は入って行って痛い目にあう。
分別ある人は、悪を見て、自ら隠れた。浅はかな者は、進んで行って、罰せられた。
分別ある人は、悪を見て、悪に関与しないように自らを隠しました。悪から遠ざかることは、分別のある行動です。浅はかな者は、進んでいきました。すなわち、悪を見て、その悪に関与したのです。それで、罰せられるたのです。これは、神の前に分別があるかどうかを説いています。いずれの動詞も、完了形で記されています。
27:13 他人の保証人となるときは、その者の服を取れ。見知らぬ女のためにも、服を抵当に取れ。
もし、契約の外にある者の保証人となるならば、その人の服を取れ。外国人の女のために、服を抵当に取れ。
契約の外にある者が、主を恐れて誠実に行動することは期待できません。それで、抵当を取れと命じられています。律法には、隣人から抵当として服を取った場合、日没までには返すように命じられています。服を抵当にとることは、相手の生活を強く拘束することになりますが、契約の外にある人を信頼することはできないのです。
出エジプト記
22:26 もしも、隣人の上着を質に取ることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。
22:27 それは彼のただ一つの覆い、 彼の肌をおおう衣だからである。 彼はほかに何を着て寝ることができるだろうか。 彼がわたしに向かって叫ぶとき、 わたしはそれを聞き入れる。 わたしは情け深いからである。
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・「他人」→契約、律法の規定の外にあること。イスラエル以外の異邦人の場合や、律法の規定により会見の天幕にの奉仕に与れる者以外の人、律法の規定にない香など。
・「見知らぬ女」→契約の民イスラエルの外にあるもの。形容詞→女性名詞。外国人の女。
27:14 朝早くから、大声で隣人を祝福すると、かえって呪いと見なされる。
朝に友を大声で祝福する者が、早くたたき起こすことは、彼には呪いとみなされる。
・「朝早くから」→早く起きる。使役語幹、不定詞絶対形で強調。早くたたき起こす。
27:15 長雨の日に滴り続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。
雨の日に滴りが続くことと、女の争いは似ていた。
27:16 その女を制する者は、風を制し、右手に油をつかむことができる。
その女を隠す者は、風を隠した。また、右手の油を呼ぶ。
その女を隠すことは、彼女のしていることが表に現れないようにすることです。風を隠すことは、風が吹いていないようにすることです。それで、女については、特に、その争いを覆うことで、止めさせることです。それは、風を隠すことが不可能なように不可能なのです。また、油が右の手にあることは、彼の力で支配することを表しています。そして、右手に持つ油に呼びかけても答えないように、彼の言葉に応じて争いを止めることはありません。さらに言うならば、その油は、彼の手から漏れ出て、彼の手に留めることができないことも、表現されています。彼は、それを支配できないのです。
・「制する」→隠す。
27:17 鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。
鉄は、鉄で研ぎ、人は、友の表面を研ぐ。
研ぐ目的は、武器でも農具でもその目的を果たす形に整形するためです。通常は、表面を滑らかにしたり、刃を鋭くするためです。人を研ぐ目的は、主の目に適った者にするためです。友の「表面」という表現は、友の「顔」とも訳される語ですが、顔に意味があるのではなく、ここでは、表面を研ぐことで、友をピカピカに磨き上げることを表現しています。鋭くするという意味で使われているのではないことを意味しています。
27:18 いちじくの木の番人はその実を食う。主人の身を守る者は誉れを得る。
いちじくの木を守る者は、その実を食べる。そして、自分の主人を守る者は、大いに誉を受ける。
信者にとって、自分の主人は、主です。この方を守ることは、私たちが御心を行って歩んで、この方に栄光を帰し、御名を汚さないことです。私たちを通して悪魔に謗る機会を与えないことです。それは、主人の栄誉を求めることであり、主人が報いとして栄誉を与えます。
27:19 顔が、水に映る顔と同じであるように、人の心は、その人に映る。
水のように、顔には顔が、そのように、人には、人の心が。
人の姿は、心の現れです。あらゆる言葉や振る舞いは、その人の持つ教え(mezimmah:思慮)に基づく判断によります。それが、主の教えに整合していることは幸いです。
27:20 よみと滅びの地は飽くことがなく、人の目も飽くことがない。
シェオル(よみ)とアバドン(滅び)は、満たされない。そして、人の目は満たされない。
人の目は、良いものでも悪いものでもあらゆるものを受け入れます。ここでは、前半との関係で、人は、必ず死に行くこと、そして、永遠の滅びに入る者があることを示していて、目が受け入れるべきものの選択を迫っています。目は、信仰の比喩です。神の言葉を信仰によって受け入れることこそ価値があります。
・「よみ」→死者の世界。
・「滅び」→死者の世界の中の取り返しのつかない滅びの世界。
27:21 銀にはるつぼ、金には炉があるように、人は他人の称賛によって試される。
銀にはるつぼ、金には炉、そして、彼の賞賛の口ためには、人。
彼の賞賛をする口は、自分自身のものでなく、他人の口がふさわしいのです。自分自身の評価では、成長はありません。他の人がどのように評価するかで、自分の状態が分かるのです。ただし、今日、信者にとって人の評価は、主によりますが、地上での指導のための具体的評価は、他の人によります。
前半は、人が精錬されて行くことについて示しています。銀は、贖われた者の歩み、金は、義の実を結ぶことを表していて、それらが火によって純度の高いものに変えられて行くことが示されています。火は、評価を表しています。主の評価は火です。それと共に、人の成長のために人の評価があります。
・彼の賞賛の「口」→訳出されていない。「前置詞:le + 口」口のために。
27:22 愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦と一緒についても、その愚かさは彼から離れない。
あなたが愚か者を臼の中で、小麦の中で、杵で砕いても、その愚かさは、離れない。
愚か者の愚かさは、その人を離れないのです。如何ともし難いのです。神の言葉に従おうとしない愚か者を変えることは困難です。
27:23 あなたの羊の様子をよく知り、群れを心に留めておけ。
あなたは、あなたの羊の顔をよくよく知っておき、あなたの心を群れのために定めよ。
羊の顔をよく知ることは、一匹一匹識別できるためです。それぞれの状態をよく把握するためです。そして、群れの世話のために心を定めるように命じられています。
教会において、牧会の働きは、このように一人一人の状態を知り、群れのために心を定めて行う必要があります。片手間ではいけません。
・「知り」→知る。「不定詞絶対形+未完了形」二語連なっている。強調。
27:24 富は永久に続くものではなく、王冠も代々に続かないからだ。
なぜならば、富は、永遠ではなく、王冠も世々にはない。
前節の続きになっています。この地上の富や誉の空しさを言っています。世々にと記し、永遠のものに心を留めるように促しています。
27:25 草が刈り取られ、若草が現れ、山々の青草も集められると、
草が現れて、芽が見えるようになり、そして、山々の草が集められるようになり、
草は、山々から集められます。そこは、霊的な高嶺を表していて、俗世界から分離していることを表しています。そのようなところから、家畜の餌が集められるように、命をもたらす食物が集められるのです。
27:26 子羊はあなたに服を着させ、やぎは畑の代価となる。
子羊は、あなたの服のために、畑の代価は、山羊。
子羊や山羊を命をもたらす草によって養うのです。それが、牧会の働きです。子羊を養うことは、その働きに報いが伴います。それは、永遠の栄光を受けます。その人のなした行いは、清い衣として永遠の栄光となります。また、畑は、相続地を表しています。山羊を養うことで、報いとして永遠の報いを相続することを表しています。
27:27 やぎの乳は十分あって、あなたの食物、あなたの家の者たちの食物となり、あなたの召使いの女たちを養う。
山羊の乳は、十分で、あなたの食物のために、あなたの家の食物のために、そして、あなたの女の子たちのための命となる。
乳は、御言葉の比喩です。それは、飼われている山羊がもたらします。山羊は、御言葉をもたらす賜物を持つ働き人です。それは、牧会をするあなたの食物です。牧会をする者も、御言葉によって養われなければなりません。それによって成長させられ、御心を行うことで経験する命の元となり、永遠の命をを受け継ぐ元になります。また、家は、教会の比喩で、御言葉は、教会の食物となります。それによって養われるのです。女の子たちは、教会の信者一人ひとりのことです。その一人ひとりにとって、御言葉は、命となります。