箴言17章
17:1 乾いたパンが一切れあって平穏なのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。
乾いた一切れのパンと平穏は、肉と争いに満ちた家にまさる。
争いのない平穏は、食物の豊かさにまさります。争いは、自分の欲望の満たしを求めるところからきます。それで、肉が豊かでも肉欲から争いが生じます。肉の欲望を捨てる時、乾いたパン一切れでも満足します。そこには、争いが生じません。
・「ごちそう」→獣の肉。犠牲(捧げ物)。争いと連語形をなしている。
17:2 賢明なしもべは、恥知らずな子をも治め、兄弟たちの間にあって、資産の分け前にあずかる。
分別を働かせるしもべは、恥を受けさせられる子を治め、兄弟たちの間にあって資産を分ける。
分別を働かせることは、神の言葉に適うことを見わけ識別することです。それがない者は、恥を受けさせられます。それをなさるのは、主です。主は、しもべあったとしても、子たちを治める者にします。主が共におられるからです。ヨセフは、奴隷でしたが、エジプトを治める者に引き上げられました。彼の働きに対して、資産の分配があります。
主にとっては、御心を行うことが価値あることであり、そのようなものを高く引き上げます。御国においては、永遠の資産を受け継ぐことになります、
・「賢明な」→分別する。識別する。使役語幹。分詞。分別を働かせる者。
・「恥知らずな子」→恥をうける。動詞、使役語幹、分詞。恥を受けさせられる者。
・「間」→二(等)分。中心。前置詞がついている。~の間にあって。
17:3 銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主。
銀にはるつぼ、金には炉。そして、心を試す者は、主。
金属を調べるには、るつぼや炉が用いられます。不純物の有無を調べるのです。主は、人の心が純粋に神の言葉に従うかどうかを試されます。
・「試す」→試す。精錬する。
17:4 悪を行う者は邪悪な唇に聞き入り、偽り者は破滅の舌に耳を傾ける。
偽りの唇に聞き従わせる者は、悪を行わせる者。偽り者は、破滅の舌に耳を傾けさせる。
偽りの言葉を語ることで、それを聞いた人たちは、真理の教えから逸れ、悪を行うことになり、破滅に至ります。教えは、非常に重いものです。
教会における教えの影響は大きいのです。神の言葉として取り次がれる教えが、誤っていれば、聞いた人たちはその誤りの中に生き、神の前には死んだ行いをすることになります。神の前には良いものとして評価されることがなく、価値がないのです。その人は、御国での報いを失います。教会において、悪意をもって語ることはないと思いますが、間違った解釈に基づく話や、書かれていないことを想像して語ったりして、正しく語らないことがあるのです。また、語る内容は、その人の信仰の状態以上のことは語れないのです。マルタとマリアは、ラザロのよみがえりについて、彼女たちの信仰の状態を露呈することになります。主を喜ばせる信仰の言葉を語ることはできなかったのです。
・「悪を行わせる」、「聞き入り」、「耳を傾ける」→使役語幹。~させる。
17:5 貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。
貧しい者を嘲る者は、自分の造り主を謗る。人の災難を喜ぶ者は、罰を免れない。
貧しいものを嘲ることは、貧しい者も、自分も主が造られたことを否定することであり、主の主権を否むことです。それは、主を謗ることです。さらに、彼が貧しい環境に置かれているのは、主がそうされるのであり、主の主権によることで、二重の意味で、主を謗ることになります。
人の災難も、主の主権によって与えられているのであり、その人が悪者であっても、また、自分に害を加えた人であっても、それを喜ぶようなことをしてはならないのです。
・「貧しい者」→何かを欠いている。不足している。経済的な貧しさにある。霊的に貧しく飢えている。
17:6 孫たちは老人の冠。父祖たちは子らの栄え。
老人の冠は、子供の子供たち。子供の栄光は、彼らの父たち。
子と、その子が主の祝福のうちにあることは、父の栄誉です。彼自身の信仰の歩みのもたらした結果です。子たちにとって、主の前の繁栄をもたらした父は、彼らの栄光です。尊敬と誉を与えるに相応しい方であるのです。自ら信仰によって主の前を歩み、子らを訓戒し、主に従うように導いた父は、賞賛に値するのです。
17:7 愚か者に雄弁な舌はふさわしくない。高貴な人に偽りの唇はなおふさわしくない。
愚か者に優れた唇は、ふさわしくない。高貴な人に偽りの唇は、なおさら。
愚か者は、自分が神の言葉に従っていない者です。神の言葉を信じて、受け入れていません。そのような者が語る言葉は、全く価値がないのです。雄弁に語ることができたとしても、価値ある言葉を語ることができないのです。むしろ黙っていたほうがましなのです。ふさわしくないのです。
聖書の言葉を信じて、その中に生きている人でなければ、神の言葉を語る者としてふさわしくないのです。今日、その働きは、聖霊によります。聖霊が賜物を与え、用いられて初めて神の言葉をふさわしく語ることができるのです。以下の聖句は、そのことを示しています。
コリント第一
1:5 あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。
1:6 キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。
1:8 主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。
1:9 神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。
・「キリストについての証し」→キリストの証し。
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「キリストの証し」は、彼らがキリストを現す者になったことです。それが確かなものとなったので、あらゆる言葉とあらゆる知識において、キリストにあって豊かになったのです。それで、どんな賜物にも欠けることがない者とされました。その賜物による働きは、神の評価されて大いなる報いをもたらものです。彼らは、それを待ち望みました。主は、責められることがない者とし守ってくださいます。神に認証された聖霊による働きなのです。彼ら自身が、神の言葉を信じ、その中に生きることでキスリトと同じ者に変えられるのです。それがあって初めて、神の目に適う言葉と知識が与えられ、賜物が与えられるのです。愚か者には、その根本的なところが欠けているのです。今日、語る技術が優れた多くの方がいます。それが、聖霊による御業としてなされることは幸いです。
次に、高貴な人に偽りの言葉は、なおさらふさしくないのです。高貴な人は、以下の聖句から、知恵すなわち神の言葉を受け入れ従う分別を持つ人で、信仰の高音を歩む人です。しかし、時として偽りを語るとしたら、それは、非序に悪い影響を与えます。それは、あってはならないことなのです。人々の間で評判の良い働き人が、故意によらずとも、正しくないことを語るとすれば、それを信じる人は多いのです。多くは、聖書を正しく理解していないところから生じます。例えば、聖書の言葉を部分的に引用して用いることがありますが、元の箇所の文脈を無視した解釈や、自分の作文に合わせた意味にして解釈したりするのです。そのようにして、御言葉の意味を変えてしまいます。このような言葉は、偽りの言葉なのです。
箴言
8:12 知恵であるわたしは賢さを住まいとする。そこには知識と思慮がある。
8:15 わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を定める。
8:16 わたしによって、君主たちは支配する。高貴な人々も、義のすべてのさばき人もそうだ。
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・「舌」→唇。後半の「唇」と同じ語。
・「高貴な人」→知恵すなわち神の言葉を受け入れ従う分別を持つ人で、信仰の高音を歩む人。
17:8 賄賂は、その贈り主の目には宝石。その向かうところ、どこにおいても、うまくいく。
賄賂は、それを持つ者には目に適う石。全てにおいて、向かうところで成功させる。
賄賂は、正しいものではありませんが、道を開いてくれます。
贈り主にとって目に適う石なのです。石は、教えの比喩です。その教えに適う信仰の歩みを神に提供するならば、それが神の目に適い好意を受けることができます。この人にとっても、神にとっても目に適うのです。そうすれば、すべてのことを主が成功させます。
・「宝」石→恵み。好意。目に適う。
17:9 愛を追い求める者は背きの罪をおおう。同じことを蒸し返す者は親しい友を離れさせる。
背きを覆う者は、愛を追い求める者。同じことを蒸し返す者は、友を離れさせる。
背きを覆うことは、罪を黙認することではなく、後半から分かるように、処置された罪について蒸し返さないことです。神の前にあるいは人間関係において赦されたことに対して、蒸し返さないのです。赦されたならば、それで終わるのです。蒸し返してはならないのです。そのような人は、信頼されません。いつ過去のことを蒸し返されかと考えれば、共にいることを避けます。
17:10 分別のある者を一回叱ることは、愚かな者を百回むち打つよりも効き目がある。
一度の叱責は、分別ある者にならせることをより深くし、愚か者を百回打つより良い。
叱責を受ける人は、すでに分別を持つ人です。深くすることは、さらに増すことを意味していて、すでにある段階に達していることを表しています。その人を叱責するならば、一度の叱責でその人は叱責の意味を理解し、より分別を増し加えるようになります。しかし、何回言っても、また、強く言っても全く効果のない人がいるのです。そのような人は、愚か者と言われています。
・「効き目がある」→下げる。深くする。
17:11 悪人はただ逆らうことだけを求める。その者には残忍な使者が送られる。
悪人は、逆らうことをひたすら求める。その者には、ただ残忍な使者が送られる。
悪人は、正しいことを受け入れる心がありません。自分の心、態度、生き様に反することにひたすら逆らうのです。主イエス様の御在世当時、民の指導者たちは、イエス様にひたすら逆らいました。言葉と業を見聞きしながら、正しいことを受け入れることがありませんでした。自分の考えに合わないものを受け入れないのです。彼らこそは、神の言葉を守る指導者として振る舞っていたのです。真理を標榜しながら、肉による振る舞いであったのです。それは、悪です。
そのような者を、主は、悪魔の手に委ねます。悪者が真理を拒み、肉に従って逆らうことを続けるならば、肉の思いのままに悪を行うように誘惑させるのです。それは、取り返しのつかない破滅へと向かいます。恐ろしい裁きなのです。立ち返るように懲らしめられるのではないのです。それならば、まだ救いがあります。しかし、残忍な使者であり、もはやあわれみはありません。真理の教えを拒むことは、大きな責任が伴います。
・「逆らう」、「送られる」は、強意語幹。
17:12 愚かさにふける愚かな者に会うより、子を奪われた雌熊に出会うほうがましだ。
人が、子を奪われた熊に会うことは、愚かさの中にある愚か者に会うより良い。
これは、絶対会いたくないことを表現しています。そのようなものに近づけば、命の危険が伴います。愚かさは、永遠の命に関わることです。神の前に実を結び、永遠の報いを受けることから離れさせます。しかし、人は、その危険性についてさほど強く認識してはいません。自分自身も、その愚かさを求めたりします。永遠の損失は、計り知れないものであることを認識していないのです。
17:13 善に代えて悪を返すなら、その者の家から悪は離れない。
善に代えて悪を返させるなら、その者の家から悪を離れさせられないし、離れない。
使役語幹が使われていることから、悪を返すようにさせるのは、家の主人です。そうなると、その主人は、悪をしてはならないことを命じることはできなくなります。また、その家から悪が離れることはありません。
家の指導者が悪をさせるように指導してはならないのです。教会においても、例えば、差別を設けて、他の人にその差別に従わせようとしたりしてはならないのです。主が愛される兄弟姉妹として愛すべきです。一度でも、そのような悪を行えば、教会を正しく導くことはできません。たとい、信者がその指導者に従っていても、顔色を見て従うことはしても、正しいことを求めて兄弟姉妹を愛することをしなくなります。
・「返す」→使役語幹。
・「離れ」→使役語幹のものと、基本形とが、二語連なっている。
17:14 口論の始まりは水が吹き出すようなもの。争い事が起こらないうちにやめよ。
口論の始まりは、水が吹き出てくるようなもの。自分をぶっ壊す、すなわち破滅させる争いごとを表面でやめよ。すなわち、争いごとが深まる前にやめよ。
17:15 悪しき者を正しいとする者、正しい人を悪いとする者、主はこの両者を忌み嫌われる。
悪き者を正しいとしてしまう者、正しい人を有罪としてしまう者、主は、両方とも忌み嫌われる。
・「正しいとする」、「悪いとする」→使役語幹。強いてそのようにする意図を表している。
17:16 愚かな者が良識もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはどうしたことか。
愚かな者が神の言葉に従う分別としての心もないのに、神の御心を受け入れ従う分別としての知恵を買おうとして、手に代金を持っている。
これは、考えられないことです。代金を持っていることは、そのために犠牲を払う覚悟があるのです。しかし、彼が知恵を得ることはできません。
今日、聖書を理解し、神の御心を知りたいと考える人は多いかもしれません。そのために、聖書の研究をされることは、幸いなことです。その犠牲を厭わないのです。しかし、神様の御心を受け入れ、従う分別を持つ心がないのに、言い換えるならば、神の言葉に従う心がなく、その歩みもないのであれば、教えられることはありません。
・「良識」→心。以下の聖句参照。
箴言
4:23 何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
人は、目に見えること、関心を抱くことを注視しますが、より大切なことは、心です。そこを見守るのです。心からは、命の泉がわきます。泉は、聖霊の比喩です。聖霊に従って生きる時、命を経験します。御霊により、御心を行うことで主と一つになって歩む命を経験し、その結ぶ実によって、永遠の報いを受け継ぎます。これは命です。
・「心」→心臓。心。欲望は含まれない。知恵、英知、思慮を包含する。
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17:17 友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。
どんな時にも愛しているのは友。兄弟は、分け合うために生まれる。
真の友は、環境に影響されず愛します。兄弟は、良いものでも、悪いものでも分け合うために生まれたのです。それが友であり、兄弟の関係です。
・「苦難」→原語にはない。
17:18 良識のない人は、すぐ誓約をし、隣人の前で保証人となる。
分別の欠けた人は、手を叩き、すぐに表面的に友となる。
前節で友について、どのような時にも愛していることが示されていますが、この人は、そのことについて考えることなく、すぐに友となるのです。
・「良識」→心臓。心。欲望は含まれない。知恵、英知、思慮を包含する。
・「誓約をする」→手を叩く。
・「隣人」→友。前節の友と同じ語。
・「前で」→前置詞「~に関して」+「表面あるいは顔」。
17:19 背きの罪を愛する者はけんかを愛する。自分の門を高くする者は破滅を求める。
背きを愛している者は、争いを愛する。門を高くする者は、破壊を求める。
背きは、神に対する背きです。神への恐れはないし、神の言葉を守る心はありません。そのような者は、隣人を愛することはありません。自分の欲望の実現のために、争うことを愛するのです。
門を高くするのは、防御のためです。自分の安全を守るためです。彼は、自分のことしか考えません。そして、自分の守りを固めて、破壊を求める者であるのです。
ヨブは、以下の聖句のように、自分から犠牲を払いました。
ヨブ記
31:32 寄留者は外で夜を過ごさず、私は戸口を通りに向けて開けている。
31:34 私が群衆の騒ぎにおびえ、一族の蔑みにひるみ、黙っていて、門を出なかったことがあるだろうか。
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17:20 心の曲がった者は幸いを見つけない。二枚舌の者はわざわいに陥る。
曲がった心は、神の目に適った良いことを見出さない。舌を翻される者は、悪に陥る。
彼は、神の言葉を真っ直ぐに受け入れて従うことがないので曲がっているのです。神の言葉に従うことなくして、神の目に適った良いものを獲得することは決してありません。
舌を翻すは、受動態です。最初から二枚舌を使おうとしているのではなく、たとえば、自分が不利になった時に、その言葉を変えるようなことです。
・「幸い」→形容詞:良い。名詞:良いこと。神の目に適った良いこと。
17:21 愚かな者を生む者には悲しみがあり、愚か者の父には喜びがない。
愚かな者を生む者には、悲しみがあり、愚か者の父には、喜びがない。
・「愚かな者」→名詞。太った。霊的、道徳的頑固さ。知的な欠乏でない。
・「悲しみ」→霊の憂鬱。具体的に、悲しみ。
・「愚か者」→道徳的に破綻した者、霊的に無感覚の者を指す。故意の神への不信仰、粗野な傲慢、道徳的堕落を意味する。
17:22 喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす。
喜んでいる心は、神の目に適った良いところへ回復させる。喜んでいる心は、後半の打ちひしがれた霊と対比されていて、心は、特に霊と関係していますが、心は、知恵や思慮など他の分別も含んでいます。神の言葉を受け入れ従う分別を持つ「心」について取り扱っています。喜んでいることは、感情的な喜びではなく、神の言葉を受け入れ従う喜びがあることを言っています。そのような人は、神の目に適った良いところへ回復されるのです。
しかし、打ちひしがれた霊は、神の言葉を受け入れることができない霊の状態を表しています。不信仰になるのです。その結果、骨を枯らします。骨は、その人の持つ教えであり、行動の基準、判断の基準となります。その教えは、神の言葉に整合していることが幸いです。しかし、神の言葉を受け入れることができないと、自分の持つ生きた教えが損なわれることになります。神の教えが失われていくのです。
・「良くし」→良いことをする。神の目に適った良いことをする。
17:23 悪しき者は人の懐から賄賂を受け取り、さばきの道を曲げる。
悪き者は、裁きの道を曲げるために、懐からの賄賂を受け取る。
教会において、教会の指導者から好意を受けるために、物質的にも、精神的にも贈り物をすることがあるのです。それは、判断を誤らせ、指導を誤らせます。なお、正しく長老を敬うことは大切なことです。
テモテ第一
5:17 よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。
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17:24 悟りのある者はその顔を知恵に向け、愚かな者は目を地の果てに注ぐ。
顔の近くから、知恵は悟らせるもの。しかし、愚かなものの目は、地の果てにある。
知恵は、自分が目にする近くから悟らせるのです。御国の報いを目指すのですが、今の自分の歩みが大事なのです。
ルカ
17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」
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神の国は、御国において報いを受けることを表しています。それは、信者一人ひとりの歩みにかかっているのです。
愚か者は、地の果てに目を向けます。それは、遥かな希望なのです。それは、夢かもしれません。実現しないことであるかもしれません。そのようなものに目を留めていて、自分の今の歩みに目を留めようとはしないのです。
17:25 愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛み。
愚かな子は、その父の怒り。これを産んだ母の腹立ち。
二十一節では、似た箴言が記されていますが、そちらは、父や母にとっての悲しみや痛みを中心に記されています。ここでは、父と母の内面を表現する語が「怒り」に関係しています。子に向けられた感情として示されています。
・「憂い」→怒り。苛立ち。
・「痛み」→腹立ち。悔しさ。苦々しい。がっかり。
17:26 正しい人に罰金を科すことが良いことでないなら、高貴な人を実直さゆえに打つのは、なおのこと。
正しい人を罰することも、神の御心を進んで行う人をその真っ直ぐさのゆえに打つことも、神の目に適わない。冒頭に副詞「~も」がある。
高貴な人は、進んでなす心のある人で、この場合、「実直」すなわち真っ直ぐである人で、神の言葉に対して真っ直ぐで、進んでする人のことです。
・「高貴な人」→寛大さから、社会的に身分の高い人。進んでする心のある人。
箴言
8:16 わたしによって、君主たちは支配する。高貴な人々も、義のすべてのさばき人もそうだ。
王たち、君主たちは、知恵によって事をなします。治めたり、正義を定めます。知恵によって君主たちは、支配します。
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17:27 ことばを控える人は知識を持つ者。霊において冷静な人は英知のある者。
知識を持つ者は、言葉を控えるもの。英知のある人は、静かで冷静である。英知は、御心を教えどおりに行う分別のこと。
知識を持つと人は高ぶり、それを披露したくなります。しかし、知識を持つ者は、それを現そうとはしません。神の御心を深く知っているからです。知識を誇るようなことは、神を知ることではないからです。真に神の御心を行うことを自分のものとしているからで、真の知識を持っているからです。
英知すなわち神の御心を行う分別を持つ人は、騒ぐことはありません。苦難や誘惑のような試練があっても、ただ神の御心を行うからです。
コリント第一
8:1 次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
8:2 自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
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・「英知」→知識、教え通りに行動する分別。
・「冷静な」→冷たいを表す語が二語連なり連語形になっている。冷え冷え。粛々。
17:28 愚か者でも黙っていれば、知恵のある者と思われ、その唇を閉じていれば、分別のある者と思われる。
愚か者でさえ、黙らされている者は、知恵のある者と見られ、唇を閉じている者は、神の御心を行う分別を持つ者とされていると見られる。
愚か者は、自ら黙っていることはできません。ここでは、黙らされていると受動態が使われています。分別を持つことも受動態です。神の働きによって、分別を持つ者とされるのです。