箴言14章
14:1 知恵のある女は家を建て、愚かな女は自分の手でこれを壊す。
家を建てることは、神様の目的に適った共同体を建てあげることを表しています。それは、家庭から国家にまで及びます。建て上げることを可能にするのは、知恵です。神の御心を受け入れ、行う分別によって実現します。それは、教会を建てあげることにも適用できます。女は、教会の比喩です。真理の御言葉に従うことで、教会は建て上げられます。
知恵ある女は、家を建てました。(完了形)
愚かな女は、彼女の手で、これを壊します。(未完了形)
・「知恵」→神の御心を受け入れ、従う分別。
14:2 まっすぐ歩む者は主を恐れ、曲がった道を行く者は主を侮る。
真っ直ぐに歩む者は、主を恐れる者。道を逸れる者は、主を侮る者。
人が主を恐れているのか、侮っているのかは、その人の歩みによって分かるのです。主を恐れる人は、主の教えにそのまま従う人です。その教えを逸れて歩む人は、主を侮っているのです。
・「まっすぐ」→名詞。連語形。「真っ直ぐさ」、すなわち主の基準から逸脱することなく歩むこと。
・「主を恐れ」→「恐れる:形容詞。恐れる+主で連語形になっている」すなわち、主を恐れる者。
・「曲がった道を行く者」→道を「逸れる:分詞。」者。
14:3 愚か者の口には、高ぶりへのむち。知恵のある者の唇は自分を守る。
愚か者の口の中には、高ぶりの若芽がある。知恵ある者の唇は、自分を守る。愚か者は、神の教えを拒み、自分の内からの言葉を語るのです。それは神の言葉に対する高ぶりであり、そのような言葉が彼の口から出るのです。
・「むち」→名詞。連語形。若芽、若枝。+(高ぶり)木の幹や根から伸びてくる新芽や小枝。(勢いよく伸びる。)
14:4 牛がいなければ飼葉桶はきれいだが、豊かな収穫は牛の力による。
牛がいない中に飼い葉桶のきれいさがある。豊かな収穫は、牛の力にある。
飼葉桶は、牛を養うためにあります。牛は飼い葉桶を汚くします。飼葉桶の手入れも必要です。手間が掛かるのです。しかし、牛は大きな力を発揮します。
牛は、信仰者の比喩です。主は、その一人ひとりの働きを通して大きな力を発揮されます。その働きのためには、一人ひとりの信仰者が信仰により御言葉のうちを歩むことで、主イエス様が現される必要があります。そのような人に聖霊は賜物を与え、ご自分の御心のままに信者を用いることができます。ですから、信者を御言葉によって養わなければならないのです。それは、手間のかかることです。しかし、その努力を惜しんでは、信者は成長しないのです。
14:5 真実な証人は偽りを言わない。偽りの証人は偽りを吹聴する。
信頼できる証人は、偽りを言わない。偽りの証人は、偽りを吐く。
・「真実な」→揺るぎない信頼性——行動によって証明された信頼性——を意味する。
・「吹聴する」→言葉を口にする。息を吐く。なお、「吹聴する」は、多くの人に言い触らすこと、触れ回ること。で、整合しない。
14:6 嘲る者は知恵を求めても得られない。悟る者には知識を得るのは易しい。
嘲ることは、単なる人間関係での行為ではなく、神の真理を嘲る言葉や態度を示すことです。そのような者が知恵を求めても得られません。知恵は、神の御心を受け入れ、従う分別です。嘲る者がそれを求めても、得られないのです。今日、信者が、神の真理を、神の権威に対する恐れをもって受け入れることは、幸いです。しかし、肉が働く時、聖書の言葉を神の言葉として受け入れることをせず、また、それに従おうとしないならば、サドカイ人が御使いも霊も否定していたように、神の言葉を嘲ることになるのです。そのような人が、神の御心を行い、神とともに歩む命を経験することも、また、永遠の報いを受けることもできないのです。
悟るとは、神の真理を受け入れ、それを実践することです。そのような人には、神の御心を受け入れ、従う分別としての知恵が働いています。ですから、神の真理としての知識を自分のものにすることが易しいのです。
・「嘲る」→真理と正義を嘲笑の対象に変える者のことを指す。矯正を拒み、権威を損ない、神の契約の目的に対する反逆を助長する。
14:7 愚かな者の前を離れ去れ。知識の唇は、そこに見出せない。
愚かな者の前を去りなさい。あなたは、知識の唇を見なかった。
愚か者は、神の御心としての正しい知識を語ることができないのです。神の御心を自分の生き方としていないからです。今日、聖書の言葉を取り次ぐ人が、その言葉の中に生きていないとすれば、御言葉を正しく語ることはできません。語るにしても、人間の肉からの考えで語っているに過ぎないのです。
・「見出せない」→動詞、完了形。見る。(目で)知覚する。
14:8 賢い人の知恵は自分の道をわきまえること。愚かな者の愚かさは欺きにある。
賢い人の知恵は、自分の道をわきまえること、すなわち、自分の道の善悪を判断し、主の道に歩むことです。
愚かな者の愚かさすなわち、神の前における霊的な愚かさは、欺きをするところにあります。神の教えを意図的に破り、欺くのです。彼は、自分のなしていることの善悪を判断しません。正しいことを求めることはないのです。自分の利益のためだけに行動します。
・「わきまえる」→精神的知覚、道徳的識別、実践的技能、霊的洞察を指す。
・「愚かさ」→単なる知的能力の欠如ではなく、道徳的・霊的な愚かさを指す。
・「欺き」→言葉や取引、行動を通じて意図的に行われる欺き。真実を故意に歪める行為。
14:9 愚か者は罪の償いを嘲る。心の直ぐな人たちの間には恩寵がある。
愚か者は、罪を嘲ります。自分の行いが罪とされることも構わないのです。
心の直ぐな人たちの間には、神の恵みがあります。その恵みは、神の主権により備えられるものですから、「間には」と表現されています。それぞれの信仰に応えて、神が与えられます。
・「罪の償い」→罪そのもの、それに伴う責任、あるいは違反を償う特定の「罪のいけにえ」。
・「恩寵」→恵み。喜び、善意、受け入れ、自発的な意思。
14:10 心はその人自身の辛さを知っている。その喜びにほかの者はあずかれない。
心は、その苦味すなわち霊的な苦悩を知っています。なお、単に辛さということになりますと、どのような人でもそれを感じるのですが、聖書では、霊的な苦悩を表現しています。
心の喜びに他の人は与ることができません。信仰によって神と共に歩む中に経験する霊的な喜びです。それは、それを経験した人だけが知る喜びです。
・「その人自信」→それ自信。「心」を指している。苦悩を受ける「人」に関する語はない。
・「辛さ」→味や飲み物における文字通りの苦味、そして魂・言葉・状況・裁きにおける比喩的な苦味。すなわち、罪と苦しみに伴う霊的な苦悩。
・「喜び」→神の民が神の臨在、備え、約束を体験する際に生じる喜び、歓喜、または楽しさを示す。
14:11 悪しき者の家は滅ぼし尽くされ、心の直ぐな人の天幕は栄える。
悪しき者の家は、滅ぼし尽くされます。家は、後半の天幕と対比されていますが、より堅固なものを表しています。家は、国家や、特定の集団を指します。教会は、神の家です。しかし、悪しき者が住むことで、滅ぼし尽くされます。神の民として証しを担うのに相応しくないからです。
心の直ぐな人の天幕は、芽を成長させます。芽は、新しい命を表していて、神の前に生きた信仰の歩みが成長していくことを表しています。成長と実を結ぶことが期待されています。使役語幹で記されていて、直ぐな人の住む所は、そのような成長をさせるのです。新しい命が育っていくのです。教会も同じで、教会の今の状態が、新しい命を成長させるか、滅ぼされるかを決めるのです。
・「滅ぼし尽くされ」→人々、場所、偶像、あるいは国家の完全な除去。断ち切る、一掃する、消し去る、焼き尽くす。
・「栄える」→動詞。使役語幹。芽、新芽、花、あるいは新芽が成長する。
14:12 人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。
人の前には、まっすぐに見える道があります。そして、その終わりが死である道があります。神の前にまっすぐな道を歩むならば、命を経験し、永遠の命としての報いを受けます。しかし、人の判断で真っ直ぐに見える道があるのです。真っ直ぐてあることは、神の真理に適っていることを表します。真っ直ぐに見えるのは、自分の持つ教えが真理に適っていると判断するからです。しかし、それが全く真理に適わず、真理に背いた教えである場合があるのです。そこに歩んだら、命はありません。死なのです。
教会における教えは、信者の歩みに大きな影響を及ぼします。教えをなす者は、それが神の真理に適っているか徹底的にに吟味する必要があります。その教えを受ける人の永遠の報いを決定するからです。
・「目」→顔。表面。顔を向けて見ること。
14:13 笑うときにも心は痛み、その終わりには、喜びが悲しみとなる。
笑いの中に苦痛があります。それは、真の喜びでないことを経験として知るからです。信仰により、御霊によって真理のうちを歩み、主と共に一つになって歩むならば喜びがあります。しかし、真理に適わない歩みを求めていても、信仰に応えられることはありません。御霊の働きもないし、命を経験することもありません。
その終わりには、主によって評価されます。たとい、自分の教えに基づいて真っ直ぐに歩んでいたと考えて喜んでいたとしても、真理に適わないのですから、良い評価を受けることはありません。その歩みは価値のないものとされます。終わりには、悲しみとなります。
14:14 心の放埒な者は自分の道に満足する。善良な人は彼から離れる。
神に背く心の人は、自分の道から心を満たされる。善良な人は、上から(満たされる)。
自分の道と上の方が対比されています。いずれも前置詞があり、「~から」がついている。
背く心の者は、意図しなくても、神の教えに背いて、自分が正しいとする自分の持つ教えに従って行動する人です。自分が正しいとしているのですから、自分の道に満足します。しかし、善良な人は、神の教えにかなって歩むのです。その満たしは、上からきます。神は、その人の信仰に応え、御心に適った歩みをさせるし、永遠に報いを備えてくださいます。そこに喜びを見出し、満たされるのです。
・「放埒な者」→動詞。分詞。意図的に引き返す、退却する、撤退する、あるいは背教する行為を表す。神の意図した方向からの離脱を示す。
・「満足する」→動詞。食物、豊かさ、年数、さらには悲しみや罪に至るまで、満たされる、飽く、満足する。
14:15 浅はかな者はどんなことばも信じるが、賢い人は自分の歩みを見極める。
浅はかな者は、どんな言葉も信じます。自分で判断しないのです。しかし、賢い人は、自分の踏むべき道を見極めます。すなわち、自分の道の善悪を判断し、主の道に歩みます。
教会で、聖書の言葉が正しく教えられているならば、信者の歩みは健全なものになる可能性があります。浅はかな人でも、教えられた通りに信じて、健全に歩むことができるからです。しかし、その教えが正しいものでないならば、それを鵜呑みにして信じてしまうのです。大変危険です。一人ひとりの信者が、自分の教えとして受け入れて歩むとき、それを吟味し、分別できることは賢いし、幸いです。
・「見極める」→精神的知覚、道徳的識別、実践的技能、霊的洞察を指す。
・「歩み」→個々の「足跡」。自分が踏むべき道。
14:16 知恵のある者は慎重で、悪を避けるが、愚かな者は怒りやすく、自信が強い。
知恵ある者は、恐れ、悪を離れます。恐れるは、主を恐れることを表しています。それで悪を離れるのです。愚かな者は、避けないで、通り過ぎていきます。すなわち、悪の中を歩んでいくのです。これは、離れることと対比されています。さらに、彼は、自分を信頼する者です。自分が正しいと思えば、その通りに歩むのです。これは、恐れることと対比されています。主を恐れないのです。自分に信頼しているのです。
・「避ける」→何かまたは誰かが向きを変える、離れる、取り除く、あるいは向きを変えさせる行為を描写する。
・「怒りやすい」→通る。移動する。通り抜けていく。
・「自信が強い」→動詞、分詞。平静な確信をもって誰かまたは何かに全幅の信頼を置くことを表す。この場合、自分を信頼する者。
14:17 短気な者は愚かなことをし、悪を企む者は憎まれる。
短気な者は、愚かなことをします。感情に従って直ぐに行動に移すことで、自分の行動が持つ意味について考えることがありません。それで、愚かなことをするのです。
悪を企む者は、憎まれます。
・「悪を企む」→敬虔な「思慮深さ」から邪悪な「策略」まで幅広い意味を示す。
14:18 浅はかな者は愚かさを受け継ぎ、賢い人は知識の冠をかぶる。
浅はかな者は、愚かさを受け継ぎます。受け継ぐは、相続することで、彼のものとすることを表します。
賢い人は、知識を被らせます。直接的には、知識を授けることを表していますが、被せると表現することで、知識が人に栄誉をもたらすことが意味されています。そのような幸いなものを与えるのです。未完了形で記されることで、それを継続して行うことが表されています。
・「かぶる」→動詞。使役語幹。能動態。未完了形。被らせる。
14:19 悪人は善良な人の前で、悪しき者は正しい人の門で、身をかがめる。
身を屈める行為は、自分を低くすることを表しています。悪人は、善人の前で、身を屈めました。善悪が対比されています。この善悪は、「善悪の知識の木」などで見られる善悪です。
不正な人は、正しい人の門の前で屈みました。門は、支配を表しています。支配を受けることが意味されています。
・「悪人」→悪の人。
・「善良な人」→善の人。
・「悪しき者」→不正の人。背く人。
・「正しい人」→正しい人。
・「身を屈める」→動詞。完了形。能動態。
14:20 貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、富む者は多くの者に愛される。
貧しい者は、隣人にさえ憎まれます。そして、富む者を愛する者は、多い。
人は、貧富によって人を判断し、憎んだり愛したりするのです。しかし、人は、神が造られたのです。愛すべきなのです。
ヨブ記
29:11 私のことを聞いた耳は、私を称賛し、私を見た目は、私の証人となった。
29:12 それは私が、叫び求める苦しむ人を、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。
29:13 死にかかっている者からの祝福が私に届き、やもめの心を私は喜ばせた。
29:14 私は義をまとい、義は私をおおった。私の公正さは上着であり、かぶり物であった。
29:15 私は目の見えない人の目となり、足の萎えた人の足となった。
29:16 私は貧しい人の父となり、見知らぬ人の訴訟を取り上げ、調べてあげた。
30:24 それでも、瓦礫の中で人は手を伸ばさないだろうか。災難にあって助けを求めて叫ぶときに。
30:25 私は不運な人のために、泣かなかっただろうか。私のたましいは貧しい人のために、心を痛めなかっただろうか。
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14:21 自分の隣人を蔑む者は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。
自分の隣人を軽蔑する人は、罪を犯している。貧しい人に喜んで応える人は、幸いなるかな。
あわれむことは、求める者に喜んだ応える神様の応答を表しています。それを貧しい人に現すのです。「あわれむ」は、単に貧しい人をかわいそうに思うことではなく、必要に応えることです。
霊的比喩としては、この貧しいは、謙ることを表しています。神の御心を求めて謙る人です。
・「幸いだ」→感嘆詞。
・「あわれむ」→求めるものに喜んで応えること。契約に基づく神の応答。人の側からは、懇願。
14:22 悪を企む者はさまよわないだろうか。しかし、善を図る者には恵みとまことがある。
悪を耕す者は、揺らがないだろうか。しかし、善を耕す者には、契約に対する忠誠と安定がある。
耕すという語を用いることで、それが善や悪を実際に行うことが意味されています。そして、その結果得られる報いに目を向けさせています。悪と善が対比され、揺らぐことと、安定が対比されています。そして、善を耕すことに対しては、神の契約の実現としての報いがあり、永遠の資産をいのちとして受け継ぐことが約束されています。それゆえ、揺るがない安定があるのです。永遠を望むからです。
・「企む」→耕す。彫る。黙る。
・「さまよう」→揺らぐ、横道に逸れる。
・「恵み」→契約に対する忠誠。
・「まこと」→安定。
14:23 いかなる労苦にも利益がある。無駄口は損失を招くだけ。
どのような労苦にも利益があります。唇の言葉は、損失のためだけ。
労働は、苦痛が伴っても利益があります。しかし、口で言葉を出すだけで、何もしないことは、損失を招くだけです。語るだけで、実践がないことは空しいのです。これは、御言葉の実践においても同じです。御言葉の中に生きることは、労苦があっても価値があります。それがいのちをもたらすからです。語るだけで、何もしないのでは価値がありません。
・「労苦」→肉体または精神の重荷を伴う努力。
14:24 知恵のある者の冠はその者の富。愚かな者の愚かさは、ただ愚かさ。
知恵ある者には、富が与えられます。この知恵は、神の言葉を受け入れ従う分別のことで、それを持つ者は、神の言葉を行う者であり、永遠の報いという富を獲得します。それは、冠に例えられているように、その人の永遠の栄光や誉として受け継ぐのです。
しかし、神の言葉を受け入れることがない「愚か者」の愚かさは、愚かさです。それは、神の言葉を受け入れて従うことを拒絶します。そこに、問題の本質があります。
・「愚か者」→文脈から見てこれは知的能力の欠如ではなく、霊的な頑固さを指す。この者は主への畏れを拒み、戒めを受け入れず、自らを滅ぼす行いを続ける。
・「愚かさ」→単なる知的能力の欠如ではなく、霊的な愚かさを指す。
14:25 真実な証人は人のたましいを救う。欺く者は偽りを吹聴する。
真理の証人は、たましいを救う。たましいの救いは、神の言葉に従って生きる所にあります。その言葉を聞く人が、そのうちを歩むことで、神の御心を実践し、永遠の報いを受ける者なります。これが救いです。この証人は、真理を語ります。
欺く者は、偽りを語らせる。欺く者は、人を真理に歩むようにさせないだけでなく、その人に偽りを語らせるのです。欺く者の教えを受けた人は、それを真理だと思うので、その教えを語るようになるのです。
御言葉から、神の真理を正しく語るのでなければ、その人は、意図しなくても、欺く者です。それは、たましいを救うことにはなりません。そして、それを信じた人が同じ誤りを語ることになります。その影響は、重大です。
・「欺く者」→言葉や取引、行動を通じて意図的に行われる欺瞞を表す。
・「偽り」→意図的な虚偽を表す。単なる誤りではなく、真実を否定することで利益を得ようとする意識的な欺瞞である。
・「吹聴する」→話す。動詞。使役語幹。話させる。文の前半と後半の対比から、第三者に及ぼす影響が主題であり、欺く者自身が偽りを話すことを扱っているのではない。
14:26 力ある拠り所は主を恐れることにあり、それは主の子らの避け所となる。
強い信頼は、主への恐れの中にある。それは、主の子らの避けどころである。
主への恐れは、主の存在を認め、その偉大さを知る所にあります。それですから、強い信頼があります。主を恐れない者にとって、主を信頼することはあり得ません。
主の子供たちには、避けどころとなります。皆、主を信頼するからです。
・「力ある拠り所」→安全な場所や態度、すなわち「信頼」「確信」「避難所」を意味する。
14:27 主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。
主を恐れることで、御言葉の中に生きます。そこには、命があります。尽きることのない命が湧いてくるのです。泉は、聖霊の比喩でもあります。聖霊によって命の歩みができ、永遠の報いとしての命を獲得するのです。また、たましいの歩みを躓かせる死の罠から離れさせます。死の罠は、肉の働きです。悪魔も付け入ります。欲望のままに、御心から逸れることから離れさせるのです。
14:28 王の栄えは民が多いこと。君主の滅びは国民がいなくなること。
多くの民は、王の誉。民の終わりは、君主の破滅。
主イエス様は、王です。その方を信じて、従う者が多くあることは、その方の誉です。父は、この方に多くの民を与え、一人ひとりを目に適う者に変えるために全力で働いておられます。主は、民が欠けることを決して許しません。完全な守りのうちに守られます。民を失う君主は、君主としての資格がないのです。地上にあって、その君主に仕える牧者は、君主の心を心として、一人ひとりを養い導かなければなりません。
14:29 怒りを遅くする者には豊かな英知がある。気の短い者は愚かさを増す。
遅い怒りは、偉大な英知。小さい霊は、愚かさを増す。
英知は、真理を受け入れ、それを自分の教えとして持ち、その通りに行動する分別です。怒りを遅くする人は、自分の感情によって行動せず、肉の判断で行動しません。主の御心を求め、主に委ねるからです。それは、真理の実践なのです。
「気の短い→小さい霊」は、霊の容量の小ささを表していて、真理の言葉を受け入れる座としての霊の容量が小さいことは、御言葉を受け入れることが少ないことを表しています。そのような人は、御言葉に従って行動することが少ないですから、愚かさを増すことになります。
・「英知」→与えられた知識の通りに行動する分別
・「豊かな」→多数、豊富さ、偉大さ、強度、卓越性。
・「気の短い者」→小さい霊。
14:30 穏やかな心は、からだのいのち。ねたみは骨をむしばむ。
全き心は、肉の命。妬みは、骨の腐れ。
肉は、霊的歩みができません。その肉に命をもたらすものは、全き心です。全き心は、神の前に健全な心のことで、神の御心を受け入れ、それを自分のものとし、従うことが行われている心です。そこに命があります。
骨は、その人の持つ教えの比喩です。その人の行動の基準となるものです。全き心の人は、そこに神の教えが蓄えられていて、その教えに基づいて行動します。妬みは、肉から出てくる悪い考えです。神の御心に背く考えです。肉から出てくる悪い考えが、その人の持つ教えとなっているのです。それは、腐れです。
・「穏やかな」→完全性。
・「からだ」→肉。
14:31 弱い者を虐げる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。
主をのみ求める者を虐げる者は、その人を通して主の御心を実現しようとする主を謗ることです。
求める者に、喜んで応える者は、主を敬います。
・「弱い者」→(主をのみ)求める者。ぶら下がる。貧しい。
・「造り主」→成し遂げるもの。創造の意味も含まれるが、ここでは、信仰者を通して御心を実現しようとする者を表している。
・「貧しい者」→(主を)求める者。貧しい。
・「あわれむ」→懇願。主の側からは、契約の条項として、求める者に喜んで応えること。この場合には、求める人に、人が応えること。
14:32 悪しき者は自分の悪によって押し倒されるが、正しい人は自分の死の中にも逃れ場がある。
悪き者は、自分の悪によって打ち倒され、正しい人は、自分の死の脅威の中で、(神に)身を避ける。
・「押し倒す」→力強い押し出し、突き飛ばし、あるいは追い払うことを表す。
・「隠れ場がある」→身を避ける。保護、救い、あるいは希望を求めて神へ——時に神が与えた避難所へ——意識的に向かう動き。
14:33 知恵は悟る者の心のうちに安らぎを得る。愚かな者の間でもそれは知られている。
知恵は、悟る者の心のうちに御心の実現を見て安らぐ。愚か者の間でも、それは知られている。知恵は、神の御心を受け入れ従う分別です。悟るとは、その御心の実践です。知恵は、それを見て安らぐのです。
愚か者は、そのことを知っていますが、彼らのうちに知恵はありません。
14:34 正義は国を高め、罪は国民を辱める。
義は、国を高める。そして、民への契約に対する忠誠は、罪のためのいけにえによる。
義は、国を高めます。民が義を行うにあたって、罪が妨げになりますが、罪のためのいけにえにより、神は、契約に対する忠誠を果たすことができます。
・「正義」→義。
・「国」→国、民族、民。
・「罪」→罪。罪のいけにえ。
・「辱める」→契約に対する忠誠。多くは、旧約聖書で「恵み」と訳されている語。
14:35 王の好意は賢明なしもべに、王の激怒は恥知らずの者に。
王の好意は、しもべに関して、賢くさせる者に。王の怒りは、堕落させる者にもたらされる。
賢くさせることと、堕落させることは、それぞれ使役語幹で記されていて、しもべがどちらに向かおうとしているかあるいは、努力しているかの過程が問われている。
・「懸命な」→動詞、分詞、使役語幹。(他)洞察を与える。賢くする。(自)賢く行動する。繁栄する。
・「しもべに」→しもべ。前置詞(~に関して)がある。
・「恥知らずの者」→動詞、分詞、使役語幹。自分を堕落させる者。信頼の裏切り、道徳的堕落、公の恥辱に続く内面の崩壊に至ることを表す。