箴言12章

12:1 訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者は間抜け者。

 訓戒は、戒めや懲らしめ、あるいは訓練を意味します。後半との対比で、これが叱責と言い換えられています。この場合、訓戒は、懲らしめと言えます。それを愛する人は、知識を愛します。知識は、御言葉を教えられるだけでなく、実践して自分のものにすることを含みます。懲らしめを受け入れることで、御言葉を知り、行う者になることができるのです。訓戒を愛する人は、真の知識を求める人です。

 叱責を憎む人は、愚か者です。御言葉を知り、自分のものにすることをしないからです。

・「訓戒」→訓戒。戒め。懲らしめ。懲罰。訓練。目的として、単なる罰ではなく、契約への忠実さと畏敬の念に満ちた知恵へと人格を形作ることにあります。

・「知識」→正しい情報と関係性に基づく御言葉に対する忠誠を結びつける、経験的かつ教理的な真理の把握を指す。

12:2 善人は主から恵みをいただき、悪を企む者は不義に定められる。

 主の目に適った良い人は、主から喜び受け入れられます。悪を企む者は、有罪と宣告されます。

・「恵み」→喜び。受け入れ。

12:3 人は悪で身を堅く立てることはできない。正しい人の根は揺るがない。

 人は、悪によって建て上げられることはない。建て上げるのは、主だからです。

 正しい人の根は、揺るがない。根は、木を支えます。それが揺るがないことで、固く建て上げられることを表してます。

12:4 しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。

 神の御心を行う妻は、夫の冠です。妻は、夫と一つのものであり、夫ともに神の御心を行います。その妻が神の御心を行うことで、夫が誉を受けます。その誉は、神から来ます。

 恥をもたらす妻は、骨の中の腐れのようです。骨は、その人の持つ教えの比喩です。その教えがその人の判断基準となり、行動の基準となります。これが御言葉に整合していることが幸いです。妻が、夫に恥をもたらすのは、彼女が御言葉に従わないからです。それによって夫の証しを損ないます。直接の責任は、妻にありますが、夫と妻は一つであり、その責任は、夫が負うことになります。夫が持つ教えに問題があるとされるのです。少なくとも、妻を教え、妻を導いていない責任が問われます。

・「しっかりした」→神の目的を推進する有形・無形の資源。

12:5 正しい人の考えは公正。悪しき者の助言は欺瞞。

 正しい人の考えは、規定すなわち神の教えに適ったものです。

 悪しき者の助言は、欺きです。人を騙すために助言に見せかけて教えをするのです。

・「公正」→規定。

・「考え」→思考、計画、意図、策略、芸術的構想、あるいは策略を意味する。文脈によってこの用語が肯定的、中立的、あるいは否定的な意味合いを持つかが決まる。

・「欺瞞」→欺き。計算された策略。

12:6 悪しき者のことばは血に飢え、心の直ぐな人の口は自分を救い出す。

 悪しき者の言葉は、血のために待ち伏せし、心のすぐな人の口は、それらから救い出す。

 悪しき者は、人の命を失わせることのために待ち構えているのです。

 心の直ぐな人は、正しいことを語り、策略の言葉から自分を救い出します。

12:7 悪しき者は打ち倒されて、いなくなる。しかし、正しい人の家は立ち続ける。

 悪き者は、健全さを損なうだけでなく、打ち倒されます。そして、いなくなります。主がそうされます。主にとっては、栄光を現すことのない、無用なものだからです。

 しかし、正しい人の家は立ち続けます。家は、その人の結ぶ実としての行いを表します。主の教えに聞き従い、それに従って歩むことで結ぶ実です。地面を掘り下げて岩の上に土台を据えた人の家のように、揺るぐことはなく立ち続けるのです。

12:8 人はその賢明さによってほめられるが、心のねじけた者は蔑まれる。

 賢明さは、神が示している御心を受け入れ、それに適うように行動する分別のことで、そのような分別を持って行動することで、神から称賛を受けるのです。

 心の捻れた者は、示された神の御心をまっすぐに受け入れな人のことです。まっすぐな道から逸れることを表しています。そのような人は、神から蔑まれます。信仰によって神の言葉を受け入れ、従うことをしないからです。そのような者が称賛を受けることはありません。

・「賢明さ」→神の啓示された御心に適う行動を判断する分別。単なる知性のことではない。

12:9 身分が低くても、しもべを持つ者は、高ぶっていて食に事欠く者にまさる。

 軽んじられているこの人は、仕える者を表しますが、主への献身的な従順な者をあらわします。

 後半の高ぶっている者に対比されています。自分を高くしている者のことです。たかぶりは、神の言葉に対する昂りです。その結果として人に対する高ぶりも出てきます。彼は、神が与える栄誉に目を留めない人です。その意味で、信仰者としての敬虔な歩みに歩んでいない人です。軽んじられている人は、それとは反対の人として取り上げられています。

 神が価値ある者として評価されるのは、神の言葉に対して従順であり、神に自分を捧げて仕える人です。軽んじられたとしても、神様は、そのような人に栄誉を与えられます。真の栄誉は、御国での栄誉を永遠の資産として受け継ぐことです。

 高ぶる人は、パンに事欠き満たされることがありません。霊的にも、神に従わない者が、真の食物であるキリストを知り、満たされることはないのです。

・「身分が低い」→軽んじられること。動詞、受動態。

・「しもべを持つ」→しもべ等、奉仕者。家事労働者、身柄の奴隷、宮廷役人、王の臣民、礼拝者、そして何よりも主への献身的な従順者である。文脈によって、法的地位、職業的義務、契約関係、あるいは謙虚な依存の姿勢のいずれに重点が置かれるかが決まる。

12:10 正しい人は、自分の家畜のいのちを知っている。悪しき者は、そのあわれみさえ残忍である。

 正しい人は、家畜のたましいを知っています。この家畜は、彼が養い導く人の比喩になっています。正しい人は、その人たちがいかに神の言葉に従って生きるかということに配慮します。

 悪しき者は、人に憐れみを示すことがあるのです。このあわれみは、「胎」を表す言葉が使われていて、非常に大切にすることを表してます。しかし、それは搾取を目的とし、冷酷で情け容赦ないものです。

・「いのち」→たましい。

・「あわれみ」→胎。大切にする憐れみ。

・「残忍」→他者の苦しみや搾取を喜びとする、冷酷で情け容赦ない性質。

12:11 自分の畑を耕す者は食に満足するが、空しいものを追い求める者は良識がない。

 自分の畑を耕す者は、相続地として与えられたところで実を結ぶ為にそうしています。後半に対比されている「良識」は、心を表していて、霊的な器官を内包しています。畑を耕す者は、それを備えた敬虔な人です。これは、単に農作業によって収穫が得られることを言っているのではなく、霊的な実を結ぶことを比喩として示しています。彼の相続地は、御国です。実を結び、食に満足することは、そこで報いを受け、永遠の栄光を受けることを表しています。

 空しいものを追い求めるものは、この世のものを追い求めるものです。彼は、霊的な実によってもたらされる満たしを求めようとはしません。彼には、霊的なものを受け入れ、従う「心」がないのです。霊の働きも、たましいの働きもないのです。神の言葉を自分の教えとし判断基準とすることがありません。

・「良識」→心。霊的な器官を内包する。

・「空しいもの」→空虚。無価値。

12:12 悪しき者は悪人たちの分捕り物を欲しがるが、正しい人の根は芽を出す。

 →「・・・、正しい人の根はは与える。」

 悪しき者たちは、悪人たちの悪の結果得るものを強く欲しがります。しかし、それは、この世のものを一時的に得ることであるのです。また、そのような者は神の目には悪であり、評価されず、裁きを受けることになります。

 正しい者の根は、与えます。「根」と記されています。根としての良い行いは、将来豊かな実となることを例えています。悪しき者が悪によって手に入れた者を欲しがることと対比して、正しい人は、与えるのです。悪しき者が求める物は、地上のもの。正しい人が求めるものは、神の評価であり、御国の報いです。地上のものを求めず、かえって与えることで、御国の宝を得ているのです。

・「芽を出す」→与える。

12:13 悪人は唇で背いて罠にかかる。正しい人は苦しみから逃れ出る。

 悪人は、口で背きの言葉を語ります。御心に故意に背く言葉です。その結果、罠にかかります。これは、華まみの裁きです。

 正しい人は、苦難から救い出されます。神がその人の正しさをご覧になっておられるからです。

・「背き」→神の啓示された御心に対する故意の背きを意味する。不注意による罪とは異なり、これは契約関係を断ち切る意識的な反逆。

・「苦しみ」→個人の苦悩(創世記35:3)、国家の災厄(エレミヤ書30:7)、軍事的危機(サムエル記第一10:19)、あるいは霊的な懲らしめ(ホセア書5:15)などの例を見ることができる。

12:14 人は、口のことばによって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いをもたらす。

 人は、唇の実によって良いものに満ち足ります。主の目に適った良いものです。その口の言葉は、彼が教えられた御言葉によって養われた彼の持つ教えから出てきます。

 手の働きは、報いをもたらします。肉による行いではなく、信仰による行いに対して報いが与えられます。

・「ことぱ」→ 産み出されるもの。実り。

・「良い」→主の目に適っている良いもの。

・「報い」→報い——善行への報い、悪行への罰を問わず、過去の行いに対する返礼を指す。

12:15 愚か者には自分の歩みがまっすぐに見える。しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる。

 愚か者には、自分の道がまっすぐに見えます。ですから、それを正すことがありません。たとい他の人が忠告しても、聞き入れることがありません。自分が正しいとしていることを捨てることはまずないからです。愚か者は、真理を知ることができるのに、それを聞き入れようとはしないのです。

 しかし、忠告を聞き入れる者は、知恵があります。そのようにして、自分の曲がったところを正すからです。

・「愚か者」→道徳的・霊的な愚か者を指す。その態度、言葉、行動は、神の知恵に対する頑なな無視を露呈している。

・「忠告」→助言、計画、目的、審議、戦略、設計。

12:16 愚か者は自分の怒りをすぐ表す。賢い人は辱めを気に留めない。

 →「怒りは、愚か者の中に見出される。賢い人は、辱めを覆う。」

 人は、自分の思いに反することあるいは、思い通りにならないことに対して怒りを現しやすいのです。愚か者は、すべてが神の手のうちにあってなされることを認めません。それで怒るのです。

 賢い人は、恥かしめを受けたとしても怒ることはしません。それを覆います。それは、すべてが主の業であることをわきまえているからです。

12:17 真実の申し立てをする人は正しいことを言い、偽りの証人は嘘を告げる。

 真実を語る者は、正しいことを語ります。この「言い」という言葉は、公に語ることを表しています。

 偽りの証言は、嘘を語ります。

 教会における宣教や教えにおいても、聖書の言葉の正しい理解に基づかない証言は、嘘を語ることになります。

・「言い」→何かを知らせる行為——宣言、報告、啓示、説明。

・「証人」→証言。

・「嘘」→言葉や取引、行動を通じて意図的に行われる欺瞞を表す。これは真実を故意に歪める行為。

12:18 軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし、知恵のある人の舌は人を癒やす。

 軽率な言葉で剣で突き刺すような者がいる。剣は、御言葉の比喩で、判別能力の鋭さを表しています。それを他の人に適用して、軽率に、配慮もなく霊的状態を判別するならば、その人の御心に適わない点が明らかになります。結果的にその人を裁くことになります。しかし、それは、必ずしも人の霊的成長には役立たず、反発を招き、拒否されます。正しい言葉であったとしても、受け入れないのです。

 知恵ある者の舌は癒しをもたらす。知恵ある人は、神の言葉を受け入れて従う分別のある人です。そのような人の語る言葉は、彼自身の信仰の実践に基づく言葉です。神の言葉を受け入れ、従うことを求める人の言葉です。その人の霊的成長を求める愛による言葉です。それは、その人を癒します。

12:19 真実の唇はとこしえまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ。

 真実の唇すなわち、真実を語る者は、永遠に堅く立ちます。これは、語る者が評価され、永遠の報いを受けることを表しています。

 偽りの舌すなわち、偽りを語る者は、一瞬の間だけです。

・「真実」→単なる事実の正確さのみならず、信頼性、安定性、誠実さ、忠実さを含む。

12:20 悪を企む者の心には欺きがあり、平和を図る人には喜びがある。

 悪を企む者の心には、欺きがあります。

 神の御心に適う完全さを図る人には、喜びがあります。

・「平和」→完全性、健全性、福祉、安全、平穏、友情、契約的調和を包含する。

・「喜び」→神の民が神の臨在、備え、約束を体験する際に生じる喜び、歓喜、または楽しさを示す。

12:21 正しい人には何の害悪も降りかからない。悪しき者はわざわいで満ちる。

 →「正しい人には、どのような堕落も支配することはない。悪しき者は、悪で満ちる。」

 これは、裁きの結果としての災いの有無について記しているのではなく、霊的状態がどのようなものになるかを記しています。

・「害悪」→道徳的堕落、内なる欺瞞、外的な抑圧、儀式的偶像崇拝、そしてそれらに伴う虚無を包括的に指す。

・「悪しき者」→道徳的に誤った者、神の基準に敵対する者、神の裁きを受けるべき者。

・「わざわい」→道徳的悪、邪悪な行い、人を傷つける言葉、有害な意図、悪意に満ちた性格、そして災害、災厄、悲惨といった形で現れる具体的な悪の影響を包含する。善に対して悪。

12:22 偽りの唇は主に忌み嫌われ、真実を行う者は主に喜ばれる。

 →「偽りの唇は、主に忌み嫌われます。揺るぎない堅固な忠実さをもって御心を行う者は、主に喜ばれます。」

 偽りの言葉は、それを聞く人に非常に悪い影響をもたらすからです。主に忌み嫌われます。今日、教会において御言葉を取り次ぎ、教えをなす者は、その語ることが真理であるのか細心の注意を払う必要があります。意図的に偽りを語るのでないにしても、正しくない教えは、結果的には偽りなのです。

 揺るぎない堅固な忠実さをもって御心を行う者は、主に喜ばれます。「真実」は、主の前に忠実な行いのことです。

・「真実」→揺るぎない堅固な忠実さ。

12:23 賢い人は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす。

 賢い人は、知識を内に秘めます。彼は、それをひけらかすようなことはしないのです。後半の愚か者たちの行動と比較すると、内に秘めることは、それを口に出して言いふらすことをしないことです。自分が識別力としての知識を持っていることは、良いことです。しかし、それを言いふらすようなことはしないのです。彼は、それを内に秘めて実践する人です。

 愚か者たちの心は、愚かさを言いふらします。彼らは、心にあることを口にするのですが、その心にあるものが愚かさなのです。

 ここでは、良い知識を否定しているのではなく、それが良い者であっても、言いふらして自分を現すことを戒めています。

・「隠す」→覆う。

12:24 勤勉な者の手は支配するが、無精者は苦役に服する。

 勤勉な人の手は、支配します。勤勉な人は、主の御心を誠実に行う人の比喩です。その人は、報いとして支配権を与えられます。

黙示録

2:26 勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。

2:27 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

2:28 わたしも父から支配する権威を受けたが、それと同じである。また、勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

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 不精者は、苦役に服します。不精者は、御心を知っていても、行動しない人のことです。それを行えば報いがあることを知っていながら何一つしようとしない人のことです。しかし、彼は、悪魔の支配下に置かれる者となるのです。悪魔は、その人を罪の奴隷として支配します。

12:25 心の不安は人を落ち込ませ、親切なことばは人を喜ばせる。

 人の心の心配事は、人をひれ伏させ、神の目に適った良い言葉は、神にあって大いに喜ばせる。

 心に心配事がある時に、人は、神にひれ伏し、神を求めます。そして、良い言葉は、そのような人も大いに喜ばせます。

・「落ち込ませ」→ひれ伏す。他者の優れた名誉、権威、あるいは神性を認めるために、自らの意思で身体を低くする行為。通常は地面に伏すことを表す。能動態。使役語幹。

・「親切な」→良い。神の目に適った良いもの。

・「喜ばせる」→神にあって喜ばす。能動態。強意語幹。

12:26 正しい人はその友の道案内。悪しき者の道は自らを迷わせる。

 正しい人は、友に道を探らせる。これは、単に歩むべき道を指示するのではなく、友に、探らせ、判断させるのです。教会における指導も、このような方法です。

 悪しき者の道は、迷わさせます。自分を迷わすのではありません。動詞は、三人称単数で悪しきものたちの道:単数と整合していますが、迷わす対象としての目的語が含まれていて、三人称複数になっています。悪しき者の道は、人々を迷わさせるのです。人々は、悪しき者の道を見て、自分も歩もうとするようになるからです。

・「道案内」→動詞。探る。能動態。使役語幹。事柄や場所、関係性を注意深く探り、偵察し、調査する行為を表す。

・「迷わせる」→迷わさせる。動詞。能動態。使役語幹。

12:27 無精者は獲物を火であぶらない。勤勉さは人間の貴重な財産である。

 不精者は、獲物を捕らえても、火で炙りません。それを食べようとしないのです。火は、評価を表しています。神の判断による評価を表していて、獲物は、その人が獲得した良いものです。それを神の評価で評価して良い者として自分のものとすべきものです。しかし、不精者は、それが神の前に価値あるものであるかどうかを評価しないのです。それで、その価値がわからないのですから、自分の良いものとしてうけいれることがないのです。

 勤勉さは、その人の貴重な財産です。それは、実際的な財産をもたらすからです。比喩として、御心を誠実に行う勤勉さは、御国において大いなる報いをもたらします。それは、その人の財産です。この地における人の勤勉さが御国での永遠の貴重な財産となるのです。

 怠け者は、それに目を留めて行動することがありません。良いものと知らされても、何一つ自分の行動として現れないのです。

12:28 義の道にはいのちがあり、その道筋には死がない。

 義の道には、命があります。その義は、信仰によって歩むところにあります。それは、主と一つになって歩む命の道であり、永遠の資産としての報いをもたらす命の道です。そして、その道筋には、死がありません。信仰によって歩んでいるからです。肉による歩みは、死をもたらします。肉によっては義とされないし、生きた者として歩むことはできません。信仰による歩みは、義であり、死がないのです。