箴言10章
10:1 ソロモンの箴言。知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみとなる。
知恵は、神の言葉を受け入れ従う分別です。それを持つ子は、父の喜びです。父は、御言葉を受け入れ従う歩みをしているのです。それが最も祝福された道であることを知っているからです。神の道に歩むことこそ祝福であると知っている父は、子がそこに歩むことを望まないでしょうか。そこに歩むならば、大いに喜ぶのです。
愚かな子は、母の悲しみになります。愚かは、ここでは、知恵のある子に対比されています。知恵がない子のことなのです。最も祝福される道を捨てるので愚かなのです。母にとって愛する子であるので、その祝福を逃すことは悲しみです。
10:2 不義によって得た財宝は役に立たない。義のわざは人を死から救い出す。
不義によって財宝を得ることは、神の前に罪です。それによってこの地上でいかにその人の必要を満たし、欲望を満足させたとしても、神の前には全く評価されません。処罰の対象となります。それによって永遠の祝福を獲得することはできません。永遠の資産としての報いを受けることはないのです。
人が神の前に生きているとされるのは、義の業を行うことによってです。肉に従って生きたとしても、それは、死です。神と共に歩む命はないし、永遠のいのちとしての報いを受けることもありません。義の業は、その人を通して神によってなされる業です。神と共に生きる命があり、永遠の報いを獲得するのです。これは、永遠のいのちです。
10:3 主は正しい人を飢えさせず、悪しき者の欲を突き放される。
主は、正しい人を満たされます。正しい人は、神の教えを信じてその中に生きる人のことです。決して飢えることがありません。これは、御霊によって生きることによって与えられます。
ヨハネ
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
ヨハネ
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
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悪しき者は、ここでは、欲に従って生きる人のことです。ですから、対比されている正しい人は、そのような生き方をしない人ことです。御霊によって歩み、肉を殺して生きる人のことです。悪しき者のように、肉に従って生きたとしても、その欲は、神の前には、何の価値もないものです。それで、突き放されるのです。
10:4 無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ませる。
無精者は、すべきことが分かっていてしない人のことです。そのような人は、貧乏になります。これは、霊的な歩みについての教えです。この世で、貧乏であるか、富を持つかは、さほど重要なことではありません。むしろ、神の御心を知りながら、それをしないことこそ永遠の富を逃すのです。
勤勉な者の手は、神の御心を忠実にか行います。それは、豊かな永遠の富をもたらします。
・「不精者」→欺瞞と怠慢を1つの用語にまとめたもの。背信的な言動、怠慢な労働。
10:5 夏のうちに集める者は賢い子。刈り入れ時に眠る者は恥知らずな子。
夏のうちに集める者は、与えられた機会を有効に使うことができる人です。将来を見据えて、今、何をすべきかが分かる人のことです。
そして、刈り入れ時に眠る者は、それと対比されています。しかも、かれは、刈り入れという最終段階になすべきことをしない人のことです。この刈り入れだけでもすれば収穫できるのに、それが無駄になることを考えない人のことです。それで、恥知らずと言われています。
10:6 正しい人の頭には祝福があり、悪しき者の口は不法を隠す。
正しい人は、神の祝福を受けます。頭は、全体を表すものとしてあります。頭に受けることは、彼の全てが祝福されることを表しています。
悪しき者は、その口の言葉によって悪しき者とされます。口から出てくるものは、心から出てきます。それは、その人を汚します。その彼の口は、不法を隠します。あからさまに悪を語るのではなく、正しい言葉のように語るのです。
今日、教会において、肉によって歩んでいる人は、正しい言葉を語ることができません。たとい当人が正しいことを語っていると思っても、御霊にはよらないのです。彼は、明らかに聖書の教えに背くことは語らないにしても、肉の思いに基づくことを語るのです。聞く人が肉的であれば、彼の考えを受け入れてしまうのです。
10:7 正しい人の呼び名は祝福となり、悪しき者たちの名は朽ち果てる。
呼び名は、その人の行いを表しています。愛の深い人は、愛の深い人と呼ばれます。その人の行いに基づく呼び名なのです。その名は、神の書物に記載されます。その書かれている名に従って裁かれ、永遠の祝福を受け継ぐのです。
悪しき人たちの為した行いは、評価されることはありません。全く価値のない者とされます。悪人、詐欺師、無慈悲、残忍などの名に価値はありません。彼らの名は、朽ち果てるのです。
10:8 心に知恵のある者は命令を受け入れ、無駄口をたたく愚か者は滅びに落ちる。
知恵は、御言葉を受け入れ従う分別です。そのような分別のある人は、命令を受け入れます。
無駄口をたたくとは、命令に対して異を唱え、自己主張することです。彼らは、愚か者であるのです。命令に従うことでもたらされる祝福に目を留めないからです。かれは、命令に聞き従わないのですから、その命令に聞き従うことでもたらされる祝福を逃すのです。そのことを捉えて、「滅び」と言っています。
10:9 誠実に歩む者の歩みは安全だが、自分の道を曲げる者は思い知らされる。
誠実に歩む人は、神の契約に対して完全なのです。その人は、安全です。神がその人を通して栄光を現そうとするからです。
自分の道を曲げるとありますが、真っ直ぐな道は、神の言葉に適った道です。それを曲げることは、神の言葉に従わない歩みをすることであるのです。思い知らされるのは、その人にそれが懲らしめであることが分かるのです。
・「誠実」→完全さ。
10:10 目で合図する者は人に痛みをもたらし、無駄口をたたく愚か者は滅びに落ちる。
目で合図する者は、人に分からないように合図を送るのです。その人に知られては困るので、秘かな合図を送るのです。その人にとって不利益なことを図るからです。その人を害し、傷つけることが目的なのです。
後半は、八節の言葉と同じです。
10:11 正しい人の口はいのちの泉。悪しき者の口は不法を隠す。
正しい人の語る言葉は、いのちを湧き出させる泉です。その言葉を受け入れて従うならば、いのちの歩みができるのです。ちょうど泉によって表されている聖霊が御言葉によって働き、いのちの歩みをさせるのと同じです。
後半の句は、六節の後半の句と同じです。悪しき者は、良いことを語ることができないばかりか、不法を隠しているのです。
10:12 憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう。
憎しみがあれば、相手を赦すことができないのです。争いが引き起こされます。しかし、愛は、自分に対するすべての背きを覆うことができます。敵を愛するならば、神の子とされます。
10:13 悟りのある者の唇には知恵があり、良識のない者の背中にはむちがある。
悟りがある者は、神の御心に従うことを自分の教えとしている人のことです。その行動の基準となり教えとしての悟りを持っているのです。そのような人が語る言葉は、神の御心を受け入れ従う分別としての知恵について語ることができます。彼が実践していることであるからです。
良識は、心のことです。心がないことは、悟りがあることと対比されています。悟りは、神の教えを自分の教えにしていることですが、それと反対の状態のことで、神の教えを受け入れることがないことを表しています。心は、霊、たましい、その他の霊的器官が備わっているところです。心がないとは、それらの霊的な器官の一切が機能していないことです。そのような人は、懲らしめを受けます。
悟りと「良識→心」、唇と背中、知恵とむちが対比されています。
・「悟り」→行動の基準となる教え。
・「良識」→心臓。心。欲望は含まれない。知恵、英知、思慮を包含する。
10:14 知恵のある者は知識を蓄える。愚か者の口には滅びが迫る。
知恵のある者は、御言葉を受け入れ従う分別のある人です。その人は、さらに神の教えとしての知識を蓄えます。さらに教えられ、蓄えることができるのです。
しかし、愚か者には、滅びが迫ります。愚か者の口と記されていて、彼が語る言葉が原因で滅びが迫るのです。愚か者でも黙っていれば賢く見えるのですが、彼が御心に適わない言葉を語ることで、彼自身が滅びを刈り取ります。彼は、神からの祝福を逃すのです。この滅びは、神の前に実を結ばない、報いのない滅びのことです。
神の言葉を受け入れ、従う人は、神の正しい御心を蓄えることができますが、愚か者は、その語る言葉の責任を問われます。彼が神の言葉に従っていないので、正しいことを語ることができないのです。
10:15 富む者の財産はその人の堅固な城。貧しい者の恐れは自らの貧困。
富む者の財産は、その人のものとして与えられる堅固な町です。これは、霊的に富む人が永遠の報いとして町を支配することを表しています。
貧しい者は、神にのみ頼って生きています。そのような者にとって、神からの祝福を経験できないことは、恐怖です。
・「城」→町。人口の中心地。
・「貧しい(者)」→主にだけより頼む寄る方のない人のこと。主が彼らの訴えを取り上げられるのは、主に求めているから。
・「恐れ」→個人、都市、あるいは国家全体が経験する、破滅的な崩壊や麻痺するような恐怖を意味する。
・「貧困」→ר物質的な困窮を表す。単に収入が少ないだけでなく、日々の生存が危ぶまれる状態である。箴言では、知恵、勤勉さ、規律、そして神の充足に対する反定立として、この言葉が定期的に登場する。
10:16 正しい人の報酬はいのち。悪しき者の収穫は罪。
正しい人の働きに対する報いは、命です。この世で神と共に生きる命を経験しますし、永遠の報いとしての資産を命として受けます。
悪しき者の実は、罪です。
・「報酬」→「なされた仕事」とそれに続く「賃金」、「報酬」、「報い」を意味する具体的な用語である。
・「収穫」→実。穀物。
10:17 訓戒を大事にする者はいのちへの道にあり、叱責を捨てる者は人を迷わせる。
命の道とは、訓戒を保っていることである。叱責を捨てることは、自分を迷わせる。彼が自分の意思で叱責を捨てるのです。それは、同時に自分を迷わせているのです。
10:18 憎しみを隠す者は偽りの唇を持ち、そしりを口に出す者は愚かな者である。
心に憎しみを持つ二つの状態について示しています。憎しみを隠すことは、偽りの唇である。誹りを(口に)言わせることは、愚かである。
いずれにせよ、心に憎しみを持つことがもたらことは、悪い結果です。真実の愛ではありません・
10:19 ことば数が多いところには、背きがつきもの。自分の唇を制する者は賢い人。
多くの言葉を語ることには、背きがつきものです。例えば、交わりと称して、多くのことを語り合うならば、罪を犯し易いのです。自分の唇を制することが賢いことです。
10:20 正しい人の舌は選り抜きの銀。悪しき者の心は無価値に等しい。
正しい人の舌は、選り抜きの銀です。非常に価値があることを表しています。それと対比して、悪しき者の心は、価値が小さいのです。悪しき者の心からは、価値ある言葉は出て来ません。
銀は贖いを表していて、正しい人は、肉にはよらず御霊によって新しく生まれた者としての歩みを教えてくれます。
10:21 正しい人の唇は多くの人を養い、愚か者は良識がないために死ぬ。
正しい人の唇は、多くの人を養います。彼は、永遠の資産としての報いを受けるように励ますことができるのです。しかし、愚か者は、霊的な部分が欠けています。良識は、心を指していますが、単に心でなく、知恵、英知、思慮など、霊的事柄を指しています。それらがないために、死ぬのです。彼は、神の前に実を結ぶことなく、永遠の命としての報いを資産として受けることもありません。
・「良識」→心臓。心。欲望は含まれない。知恵、英知、思慮を包含する。
10:22 人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。
主の祝福は、人を富ませます。人を霊的に豊かなものとするのは、主の祝福です。人の労苦は、それに何も加えることはありません。
すべてのことは、主の業としてなされるのです。私たちをキリストと同じ完全な者に変える働きは、神の力によります。永遠の資産は、その神の業の結果として与えられるのであり、肉の力には一切よりません。
10:23 愚かな者には悪事が楽しみ。英知のある者には知恵が楽しみ。
愚かな者とは、楽しみによって悪を行う者である。知恵ある人とは、英知がある人です。すなわち、教えられている知識の通りに行動する分別を持つ人です。その知識は、神の教えです。
・「楽しみ」→晴れやかな喜びから腐敗したあざけりまで、笑いの全領域を一語に集めている。
・「知恵」→神の計画に対する信仰的洞察。御心を信仰によって受け入れる分別。神の御心や計画を信仰によって受け入れ、またそれを用いる分別。その受け入れた知識を語ることも知恵による。
・「英知」→与えられた知識の通りに行動する分別
10:24 悪しき者の恐れることはその身に降りかかり、正しい人の望むことはかなえられる。
悪者の恐れることは、その身に来ます。正しい人の望むことは、叶えられます。神様がご覧になっておられるからです。
10:25 つむじ風が過ぎ去ると、悪しき者はいなくなる。正しい人は永遠の礎である。
悪しき者は、旋風でいなくなります。正しい人は、永遠の礎のように揺るぐことがありません。
10:26 怠け者は、これを遣わす者にとって、歯に酢、目に煙のようなもの。
歯に酢のように、目に煙のように、それは、怠け者を遣わすこと。遣わす者にとって、不快なのです。直接的な害は少ないのかもしれませんが。
10:27 主への恐れは日数を増やす。悪しき者の年は短くなる。
主への恐れは、日数を増やさせます。悪しき者の年は短くなります。これは、霊的な命の比喩です。主を恐れる者に対して、主が命を与えることです。
10:28 正しい人の望みは喜び。悪しき者の期待は消え失せる。
正しい人の望みは、消え失せることがありません。主に信頼する者は、失望させられることがないと記されています。主に信頼するならば、主がその人の内で業をなし、永遠の資産を報いとして相続するようにしてくださいます。
10:29 主の道は、誠実な人には砦、不法を行う者には滅びである。
正しい者の力とは、主の道。不法な者が行うことは、滅び。正しい者は、主の道に歩むことで力を得ます。主が御心を行うことに対して力を与えられるからです。しかし、不法な者が行う業は、何一つ評価されず、滅びなのです。
10:30 正しい人は永遠に揺るがされることがない。しかし、悪しき者は地に住むことができない。
昔から変わらないことは、正しい者が決して揺るがされないこと。しかし、悪者は、地を受け継ぐことがない。正しい者は、堅く立つことができます。しかし、悪しき者は、地を受け継ぎません。これは、御国での相続に与れないことの比喩です。
10:31 正しい人の口は知恵を実らせる。しかし、ねじれた舌は抜かれる。
正しい者の口は、知恵をもたらします。人は、その言葉を聞いて、受け入れ、従う分別を獲得します。しかし、ねじれたことを言う舌は、抜かれます。神様がもう語れないようにされるのです。
10:32 正しい人の唇は好意を知っており、悪しき者の口はねじれごとを知っている。
正しい者が正しいことを語ることで、神からの好意を受けるのです。悪者の口は、ねじれごとを語るのです。何一つ良いことを語ることができません。