民数記20章
20:1 イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。
イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に来ました。民は、カデシュにとどまりました。そこで、ミリヤムは、死に、葬られました。
ミリアムは、戦士ではありませんので、四十年の間に死ぬと言われた者たちには含まれていません。これから、エドムを迂回して、カナンの地の対岸のモアブに入ろうとする時、ミリアムは、死にました。指導者であるモーセに逆らい、公に証しを損なった彼女は、相続地を見ることなく荒野で死にました。不従順が相続をいただくことができないことを公に示されることになります。
20:2 そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。
そこには、会衆のための水がありませんでした。彼らは、共に集まって、モーセとアロンに逆らいました。
20:3 民はモーセと争って言った。「ああ、われわれの兄弟たちが主の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。
民は、モーセに主張して言いました。兄弟たちが主の前で死んだ時、我々も死んでいたら良かったのに、と。
彼らは、水がないことで、死んでいたらよかったと言ったのです。彼らは、死ぬことを決して喜びとはしていません。死んでいたらよかったと言いましたが、死にたくないのです。死んでも構わないというのであれば、水がなくても、このような主張はしないのです。これは、強烈な皮肉です。
20:4 なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。
あなた方は、主の集会をこの荒野に導き入れた。これは、ここで死ぬことのためか。私たちと獣が。
彼らは、民を主の集会と言い表していますが、主を恐れていたわけではありません。彼らの主張をもっともらしくするために、民が主のものであるということを言っているのです。彼らが、主を恐れていたのであれば、主の約束を信じて、信頼していたでしょう。
20:5 なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
なぜ、あなた方は、われわれをエジプトから上らせ、私たちをこの場所に来させたのか。この悪い場所は、穀物も、いちじくも、葡萄も、ざくろも、飲むための水がない。
彼らがエジブトを出て、この荒野に来たのは、モーセがさせたことだと言っています。彼らは、信仰により主の約束を信じて出て来たとは言いませんでした。それが彼らの信仰です。指導者の言いなりになって来ただけだと言いたいのです。自ら信仰によって歩んでいるのでない人は、このように指導者に不平を言います。
・「連れ上り」→上る。使役語幹。上らせる。
・「引き入れた」→行く。来る。使役語幹。来させる。
20:6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れた。
モーセとアロンは、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏しました。彼らは、主に委ねたのです。すると、主の栄光が現れました。
20:7 主はモーセに告げられた。
20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」
主は、モーセに言われました。杖を取れ、と。杖は、神の権威を表しています。神の業としてこれが行われるのです。そして、あなたすなわちモーセとアロンは、会衆を集めよ、と。あなた方が彼らの目の前で、岩に強く言う。岩は水を出す。そして、彼らのために岩から水を出させ、会衆と家畜に飲まさせよ、と。
会衆がよく見て、その大声で言うことを聞いて、これが主の技であることを知るためです。杖を取ったのも、そのためです。主が民にとって困難な状況を与えたのは、主の業が行われ、主の栄光が現されるためなのです。私たちは、その中で、困難の除去や自分の願う結末を願うことに関心を抱きますが、主の栄光のための業であることをまず第一に覚えることは幸いです。
・命じる」→言う。話す。強意語幹。強く言う。
20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。
モーセは、主が命じたとおりに、主の御顔の前から杖を取りました。主が、主の権威をもって遣わすのですが、主ご自身がこの業に強い関心を抱いていることを表しています。
20:10 モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
モーセとアロンは、会衆を岩の前に集め、彼らに言った。さあ、聞け。逆らう者たち。この岩から私たちがあなた方のために水を出させるのか、と。
モーセとアロンは、会衆に問いかけています。逆らう者たちと彼らのことを言っています。そのような者に私たちが水を与えることの是非を問うています。モーセは、主の命令としてそれを行いますが、彼らに対して業をなすことについて、怒っています。
20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
モーセは、彼の手を上げさせた。上げるの目的語は、直接目的語標識によって彼の手を差し示しています。自分の手を上げさせたのです。本来上げるべき手ではなかったのです。モーセが自分で上げたのです。それは、杖で岩を打つためです。杖を上げることは、神の権威によってなすことを表しています。しかし、ここでは、自分の手を上たのです。
二度打ちました。ここには、モーセが主の命じたとおりに従わなかったことが少なくとも三つ記されています。彼は、岩に強く言うように言われましたが、岩を打ちました。また、彼は、自分の考えで杖を振り上げました。さらに、岩を二度打ちました。岩を打つことは、必要なかったのですが、それを打つことで、キリストの十字架の御業の比喩を損いました。その御業は、一度にして完成したからです。さらに、二度打つことは、さらに、岩を打つことがキリストの十字架の比喩であることさえ損なっています。二度打ったならば、何のために打ったのかと言う比喩の意味が完全に壊れます。
彼は、水を出すことで、神様が示そうとしている比喩を損なったのです。彼は、自分のすることを慎重に判断することができなかったのです。彼は、この時会衆に対する怒りによって行動していました。
モーセの不信仰にかかわらず、岩から豊かな水が湧き出ました。民に水を与えることは、実現したのです。
・「上げる」→上げる。使役語幹。上げさせる。
・「二度」→二度。二回。
20:12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
しかし、主は、モーセとアロンに言われた。「あなたがは、イスラエルの子らの目の前で、わたしを聖なる者とさせることのために、わたしを信じさせなかったので、あなた方はこの会衆を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。
主が、モーセとアロンに対して岩に言うように言われたのは、信じていれば水を出すことをイスラエルの子らが学ぶためでした。信じる者に応える種を知ることで、イスラエルの子らは、この方を聖なる方とするのです。それは、信じている者が聖霊を受け、いのちを受けることをの比喩になっています。以下の聖句がそのことを示しています。
ヨハネ
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
--
「信じる者」は、冠詞+現在、分詞で記されていて、「信じている者」と言う意味です。信じている者は、聖霊の働きにより、命を経験し、渇くことがないのです。
岩を打つことは、イエス様の十字架の御業を表していて、贖いの御業を表しています。そのこととともに、父が御子をよみがえらせたことを信じる者は義とされます。そのことと、ここで示されている、信じている者が聖霊によっていのちを経験することは、別のことを扱っています。イエス様を信じている者すなわち、すでに義とされた者が信仰によって歩み続けることに主が応えて、聖霊により御心を行わせ、主とひとつになって歩み、いのちを経験し、永遠の報いをいのちとして受け継ぐ者とされることを表しています。
このような比喩の違いがあるので、モーセは、岩を打ってはならなかったのです。
エペソ
1:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。
救いの福音を聞き信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されたことが、初めに岩を打って水を飲んだ出来事です。そして、十四節に記されていることは、聖霊によって御心を行い続けることができることを表しています。私たちが「贖われ」すなわち、聖霊によって肉に死に、新しく生まれた者として信仰によって歩むことを保証するものです。これが、二度目に岩から水が出たことです。信じている者が経験することです。
--
20:13 これがメリバの水である。イスラエルの子らが主と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。
これらがメリバの水である。一連の出来事を指しています。その名の理由は、彼らが主と争ったからである。
メリバと名付けられた場所は、レフィディムとカデシュの二箇所で、水に関して主と争った場所です。会衆は、この荒野で死なせるためか、とモーセたちに詰め寄りましたが、主は、流れ出る水によっていのちを与えられました。彼らは、不信仰によって、水のない渇きを死と捉えましたが、主は、彼らに渇きを与えたのは、彼らの知らない方法で、すなわち、信じることで、岩から水を出し、いのちを与えることを学ばせるためであったのです。これは、信仰の歩みの中で核心部分をなします。それで、不信仰による争いについては、二度もその争いを記憶させるためにメリバと名付けたのです。
そして、主は、水を与えることで、聖なるものとされました。主は、その業によって、ご自分が聖なる者であることを人々に分からせたのです。「聖なる者とされた」と、受動態で記されることで、会衆がそう認識したことを表しています。
出エジプト
17:1 イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。
--
20:14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを遣わして言った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。
モーセは、カデシュからエドムの王に使者を遣わして言いました。あなたの兄弟イスラエルは言いました、と。エドムとヤコブが兄弟であることをもって願っています。イスラエルと名乗ったのは、彼らが主のものとして、主の権威によって行動していることを表すためです。
そのうえで、イスラエルの受けた困難の全てをご存知です、と。兄弟に対する憐れみを求めています。
20:15 私たちの先祖はエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖を虐待しました。
20:16 私たちが主に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、一人の御使いを遣わし、私たちをエジプトから導き出されました。今、私たちはあなたの領土の境界にある町、カデシュにおります。
先祖は、エジプトに下り、そこで虐待されました。主に叫ぶと、主は聞かれ、一人の御使いを使わし、エジプトから導き出されました。このことを言うのは、全てが主の手の内にあってなされていることを告げるためです。そして、カデシュにいることも、主の導きによることです。
20:17 どうか、あなたの土地を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは『王の道』を行き、あなたの領土を通過するまでは、右にも左にもそれません。」
それで、目的の地に行くのにエドムの土地を通らせてくださることを願ったのです。その道は、王の道をゆくことを告げ、それ以外のところは通らないことを告げました。
20:18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。通るなら、私は剣をもっておまえを迎え撃つ。」
エドムは、通ってはならない、と言いました。エドムには、主の導きと権威を理解させることはできませんでした。
20:19 イスラエルの子らはエドムに言った。「私たちは大路を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。歩いて通り過ぎるだけですから、何事でもないでしょう。」
イスラエル子らは、エドムに言いました。これは、主が語らせた言葉ではありません。イスラエルは、大路を上って行きます、と言いました。自分たちと家畜が水を飲むようなことがあれば、その代価を払います、と。歩いて通り過ぎるだけであるので、何事もないことを告げました。彼らは、水の代価を払うことで宥めようとしたのです。しかし、ここでの彼らの言葉は、信じている者に水が与えられることを信じていないことから出て来る言葉です。モーセは、「井戸の水を飲みません」と言っています。主が与えてくださると信じていたのです。
20:20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。
20:21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせることを拒んだので、イスラエルは彼のところから向きを変えた。
しかし、彼は、通ってはならないと言い、多くの軍勢とともに出てきました。それで、彼らは、向きを変えました。彼らは、エドムの西のカデシュからエドムに入りその領地を南北に走る王の道に入り、北へ進む予定でした。
20:22 イスラエルの全会衆はカデシュを旅立ち、ホル山に着いた。
20:23 主は、エドムの国境に近いホル山で、モーセとアロンにお告げになった。
彼らは、エドムとの国境に近いホル山に着きました。そこで、主は、モーセとアロンに告げられました。
20:24 「アロンは自分の民に加えられる。彼は、わたしがイスラエルの子らに与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命に逆らったからである。
アロンは、自分の民に加えられ。なぜならば、彼は、メリバの水に関して、わたしの言葉に逆らったことにより、わたしがイスラエルの子らに与えた地に入ってはならないからである。
アロンは、信じている者が御霊によって歩み、御国で報いを相続するという真理を現すことができませんでした。御国で相続を受けさせる働きは、大祭司イエス様の働きです。大祭司である彼は、その真理を現さなければならず、それができなかった責任が問われたのです。それで、彼は、相続地に入ってはならないのです。彼が偶像礼拝を主導したことは、非常に大きな罪ですが、直接的にはその罪に対する処罰ではありません。
ヘブル
9:11 しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、
9:12 また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
9:13 雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、
9:14 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
9:15 キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。
--
ここでは、キリストは、大祭司として来られたことが取り上げられています。完全な膜屋は、人となられておいでになられて完全であることを表しています。キリストは、贖いの御業を完成するためにとこしえの御霊によってご自身を捧げられました。これは、人としての生涯の全てを捧げたことを表しています。それゆえ完全なのです。その血は、キリストによる一度きりで成し遂げた完全な贖いを表し、雄山羊や雄牛の血、雌牛の灰は、払われた代価の偉大さと完全な模範を表しています。その血は、キリストの愛を表しています。愛によって働く信仰に歩むためです。灰は、謙りの偉大さ、自分を捨てたことの偉大さを表しています。その愛と模範により良心が清められるのです。心から進んで信仰に歩み、神の教えを自分の教えとなし、従って歩むようになるのです。それは、御国で永遠の資産を受け継ぐためです。
アロンが大祭司として現すべき比喩は、岩からの水としての聖霊が信じている者に与えられることです。彼は、最初の、岩を打って出た水とは異なる、信じている者に御霊が働く比喩を示すことに失敗したのです。信じている者に聖霊が豊かに働くことは、信仰生活にとって極めて重要な教えです。信仰によって救われることは、イエス・キリストを信じて永遠の滅びから救われることと、信仰によって歩む者が聖霊による業によって、永遠の報いを受けることの両方を含んでいるのです。今日、前者のみが強調され、後者が軽く扱われ、永遠の資産を受け継ぐことを目当てとして、御言葉に忠実に、熱心に歩むことが見失われていることは残念なことです。
20:25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。
20:26 アロンの衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せよ。アロンは自分の民に加えられ、そこで死ぬ。」
アロンの服が脱がされて、その子エルアザルに着せられました。彼は、信じている者が聖霊によって歩み、御国の相続を受けるという真理を現すことができませんでした。それで、彼は、その役割を終え、その子のエルアザルが引き継いだのです。
20:27 モーセは、主が命じられたとおりに行った。彼らは、全会衆の見ている前でホル山に登って行った。
20:28 モーセはアロンの衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。アロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から下りて来たとき、
20:29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。
彼らは、ホル山に上っていき、命じられたとおりにしました。アロンは、山の頂で死にました。全会衆は、三十日の間泣き悲しみました。三十は、三の十倍数です。三は、欠けのない完全さを表し、十は、到達点を表す完全さです。泣き悲しみは、全きものでした。