民数記11章
11:1 さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
そして、民は、主の耳に悪いことを激しく呟いた。彼らは、直接主に対して不平を言ったわけではありません。主は、これを聞かれ怒りを燃やされました。怒りが燃え、火が燃え上がり、宿営の端を舐め尽くしました。
・「繰り返し激しく不平を言った」→不平を言う。強意語幹、再起。自らに激しく不平を言う。すなわち、呟く。
11:2 すると民はモーセに向かってわめき叫んだ。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。
そして、民は、モーセに向かって叫びました。それで、モーセは、主に対して自らを懸命に裁きました。その火は、消えました。
民がつぶやいたことに対して、モーセは、自らの責任を覚えて主の前に出ています。自らを執りなす、自らを祈るという表現は、適切ではありませんので、原意の「裁く」を適用しています。
・「祈る」→裁く。転じて、とりなす。祈る。強意語幹、再帰。懸命に自らを~する。
11:3 その場所の名はタブエラと呼ばれた。主の火が、彼らに向かって燃え上がったからである。
その地名は、タブエラと呼ばれました。主の怒りが燃え、宿営の端が燃えたからです。
宿営の端は、比喩としては、会見の天幕から離れたところすなわち、霊的に主から離れた所を表してます。そのような霊的状態にあるところに、呟きが起こるのです。
・「タブエラ」→燃える。
11:4 彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
11:5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。
11:6 だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」
彼らのうち混じって来ていた者たちは、激しい欲望に駆られました。混じって来ていた者たちは、イスラエルの部族として、約束の地で相続を受ける望みを持って出て来た人たちではないのです。その地は、部族ごとに割り当てられます。彼らは、寄留者となります。これは、御国で報いを受けることに関心の薄い人の比喩です。御国での相続に関心が薄いですから、この世のものを求める傾向が強くなります。
混じって来ていた者たちが欲望に駆られた時、イスラエルの子らが強い影響を受けました。イスラエルの子らは、再び泣いたと記されていて、前回呟いた時にも、大声で泣いたのです。
教会で、一部の人が世のものを求めるような行動をとれば、それが他の人たちに影響し、他の人たちもこの世のものを求めるようになるのです。
彼らの求めた物は、肉や野菜です。それは、エジプトの食べ物です。それと対比してマナが取り上げられています。彼らの「喉」がからからということはありません。彼らには、マナと水が与えられていました。この「喉」と訳されている語は、喉でも体でもありません。たましいのことです。彼らは、体が完全に保たれていたにもかかわらず、この不平を言っているのです。自分の舌を満足させるものが食べたいと言っているのです。その満足がないことをたまいしいが渇いていると言っているのです。
これは、神が与える命のパンとしてのイエス様によって満たされることをしないで、この世のものによって満たされることを求める人の比喩です。このように、人の欲望によって求めるものは、一時の過ぎてしまえば何も残らない体の感覚に関するものです。どんなに美味しいものに満たされても、過ぎ去ることであり、空しいのです。人は、イエス様による満たしや、御国での報いを求めようとはしないのです。
・「喉」→たましい。
11:7 マナはコエンドロの種のようで、一見、ベドラハのようであった。
見た目は、ベドラハのようです。これは、色を表しています。コエンドロの種は、大きさと形を表しています。色は、地の色に似ています。これは、人としての歩みを強調しています。
11:8 民は歩き回ってそれを集め、ひき臼でひくか臼でつき、これを鍋で煮てパン菓子を作った。その味は、油で揚げた菓子のような味であった。
民は、歩き回ってそれを集めました。自ら求めて初めて自分のものになります。それは、粉に轢かれ、煮てパンにしました。よく煮ることは、水が表す御言葉により覚えることを表しています。加工することで、より食べやすくしています。そのように、イエス様について、より深く知るためには、御言葉により、よく研究することが必要です。
その味は、油パンのようです。油は、聖霊の比喩です。聖霊によって歩まれたイエス様を表しています。人となられて、聖霊によって歩まれたイエス様を覚えるのです。
かつては、蜜の味として覚えましたが、それは、喜びをもたらすものでした。蜜は、以下に聖句にその意味を見ることができます。
箴言
16:24 親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする。
蜜は、言葉の比喩です。神様が好意によって備えた祝福に満ちた言葉です。それは、御国での報いをもたらす教えです。それで、その言葉に従う魂には甘いのです。よろこで従うことができます。人の歩みを強く動機づけるのは、御国の宝です。イエス様ご自身、天に宝を積みなさいと言われました。それに目を留める人は、熱心であり忠実です。また、それは、骨を健やかにします。骨は、その人の持つ教えの比喩で、行動や判断の基準になります。新約聖書では、「良心」と訳されている言葉該当します。
・「親切な」→ギリシア語の「恵み」。神が好意によって備えた祝福で、信仰によって獲得できる。
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今は、イエス様と同じように聖霊によって歩むことで、イエス様を知る者とされています。今度は、自らの体験としてイエス様を知ることになります。イエス様を知ることは、イエス様の栄光を将来知ることや、聖書を通して知ることだけでなく、今、自分の直接的な経験として知ることであるのです。
・「煮て」→煮る。強意語幹。よく煮て。
・「油で揚げた」→油。
11:9 夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれと一緒に降りて来た。
マナは、主イエス様を表しています。露は、御言葉の比喩です。主イエス様を御言葉により知ることを表しています。そして、すでに見たように、主と一つになって歩むことによって、主と同じ者に変えられ、経験として主を知ることになります。
11:10 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入り口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がった。このことは、モーセにとって辛いことであった。
人々が家族ごとに天幕の入り口で泣いていたことは、その家全員がないていたことを表しています。家長が止めることをしませんでした。入り口で泣くことで、その嘆きを周りの人々と共有しようとしていました。不信仰による肉欲の満たしを皆求めていて、さらに、周りに悪い影響を広めていました。主の怒りは、激しく燃え上がり、また、モーセの目にそれは悪として映りました。
肉欲の満たしを求めて主が与えたマナを否定し、他の人々を巻き込んでその欲をあらわにすることは、主を怒らせることであり、モーセは、それを悪と見ていました。決して同情することはできません。私たちが肉に従い、主の与えた命に歩むことを否定するならば、主に受け入れられることはありません。怒りを買います。それは、悪です。決して肉が容認されることはないのです。
主の怒りは、激しく燃え上がりました。
・モーセに「とって」→モーセの「目の中で」。
・「辛い」→悪。
11:11 それで、モーセは主に言った。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのですか。なぜ、私はあなたのご好意を受けられないのですか。なぜ、この民全体の重荷を私に負わされるのですか。
民がいつまでも主の御心に敵わないことを現すことは、モーセにとって苦しみでした。それは、指導者としてのモーセが神の御心に適い、好意を受けることを拒まれているかのようです。そのような頑な民の重荷を追うようにされたことについて、疑問を呈しました。
11:12 私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。私が彼らを産んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『乳母が乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの父祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのですか。
さらに、彼らは、自分が産んだ子ではないが、乳母が乳飲み子を抱えるように、彼らを自分の胸に抱いて、導いて行くように言われたことにもなぜと問うています。神様の仰せは、イスラエルを大切に扱い、愛を注いで導くことです。しかし、彼らの悪い状態を見た時、彼らを尚も大切にし愛さなければならないことに疑問を抱いたのです。
主は、彼らの不信仰に対しては、怒りを発せられ、懲らしめられます。しかし、彼らを愛して、彼らに対する契約を果たすことをやめることはないのです。モーセは、忍耐しつつ、彼らを導かなければならないのです。
11:13 どこから私は肉を得て、この民全体に与えられるでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。
また、モーセは、どこから肉を得て、この民全体に食べさせるのでしょうかと言い、彼自身の能力ではそれはできないと言っています。彼は、主に頼ることを忘れています。
また、彼らが肉を食べさせてくれと言っていることを取り上げ、彼らの欲求を満たさなければならないと考えていたのです。しかし、この要求は、マナが与えられているにも関わらず求めているのであり、単なる肉欲の満足のために過ぎないのです。それに応えることが、彼らに対する愛ではないのです。
11:14 私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。
さらに、自分一人でこの民全体を追うことはできないと申し上げました。
11:15 私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」
また、主がモーセをこのように扱われるならば、どうか殺してくださいと願いました。「もし、主の目に適ったのであれば、私の悪を見させないでください。」彼は、民が泣いたことは、自分の悪の結果と考えていました。民が悪いとして裁いていたのではありません。
なお、彼が求めていたことは、自分を悲惨な目に合わせないでくださいということではありません。自分の置かれた状況から自分のことを考えていたのではありません。
・「自分を悲惨な目に合わせ」→自分の「悪」を見せないで。この悪は、「善」に対して悪。
11:16 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうちから、民の長老で、あなたが民のつかさと認める者七十人をわたしのために集めよ。そして、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。
11:17 わたしは降りて行って、そこであなたと語り、あなたの上にある霊から一部を取って彼らの上に置く。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたがたった一人で負うことはなくなる。
主は、モーセの願いを聞かれました。彼が自分だけで重荷を負うことはできないと言ったことに対して、七十人の長老を集めるように言われ、彼らの上に、モーセの上にある霊の一部を取り、彼らの上に置くと言われました。それで、民の重荷は、モーセ一人が負うことがなくなると言われました。民を導く働きは、主の霊によって行われます。なお、主の霊は、分割されたわけではなく、モーセを通してなされている主の霊による働きを、七十人の長老に分けることを意味しています。同じ一つの御霊による働きです。
11:18 あなたは民に言わなければならない。明日に備えて身を聖別しなさい。あなたがたは肉を食べられる。あなたがたが泣いて、主に対して『ああ、肉が食べたい。エジプトは良かった』と言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉を食べられるのだ。
そして、民に語るように言われました。明日に備えて身を聖別しなさいと。それは、肉を与えることも主に業としてなされるからです。
肉が食べられると。それは、彼らが、主に対して肉が食べたい。エジプトは良かったと言ったからだと。エジプトは、奴隷の地でした。しかし、欲望の満足のためには、その奴隷の状態を懐かしんだのです。主が約束した、御国の比喩であるカナンを目指すのでなく、肉の満足を求めて、罪の奴隷であることを求めたのです。それは、主の業を蔑むことです。
これは、内住の罪の奴隷に戻ることを願う肉の働きです。肉の欲望の満足を求め、主の御心を行って御国で報いを受けることを目指さない歩みの比喩です。欲望に従って生きても、報いはないのです。主は、御国で、大いなる報いを受けるように働いています。その御業を欲望によって退けてはならないのです。
しかし、主は、肉を与えます。彼らが強く望んだとき、与えられます。
11:19 あなたがたが食べるのは、ほんの一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、
11:20 一か月もであって、ついには、あなたがたの鼻から出て来て、吐き気をもよおすほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、その御前で泣き、『いったい、なぜ、われわれはエジプトから出て来たのか』と言ったからだ。」
主は、肉を一ヶ月も与えると言われます。そして、ついには鼻から出てきて吐き気を催すと言われました。主は、欲望を満たすために与えられますが、それが空しいことを教えられます。初めは、喜んで食べるでしょうが、そのうちに食べたくなくなるのです。鼻から出てくるのは、体が受け付けなくなるのです。そして、吐き気を催します。見たくもなくなるのです。欲望とはそのようなものです。
彼らが、彼らのうちにいる主を蔑んだので、主は、そうされるのです。欲望に従って生きても、それらが全く空しいことを教えるためです。
11:21 しかしモーセは言った。「私と一緒にいる民は、徒歩の男子だけで六十万人です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一か月の間食べさせる、と言われます。
11:22 彼らのために羊の群れ、牛の群れが屠られても、それは彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚が全部集められても、彼らに十分でしょうか。」
しかし、モーセは、その主の言葉を信じませんでした。この時、彼は、不信仰になっていたことがわかります。
11:23 主はモーセに答えられた。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」
主は、モーセの言葉に対して、不信仰になっていることを指摘されました。主の手が短いというのかと。彼は、主の力を過小評価したのです。主に全てのことができると信じませんでした。主の言葉は、必ず実現します。それは、今に分かると言われました。
11:24 モーセは出て行って、主のことばを民に語った。そして民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の周りに立たせた。
モーセは、主の言葉をそのまま民に告げました。民に肉を食べさせることは、不可能のように見えました。しかし、主には、それを実現する力があることを信じたのです。
そして、主が言われたように、長老たちを集めました。
11:25 すると主は雲の中にあって降りて来て、モーセと語り、彼の上にある霊から一部を取って、その七十人の長老に与えられた。その霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言した。しかし、重ねてそれをすることはなかった。
主は、モーセが受けいてた霊を七十人の長老たちに分けられました。その霊が彼らの上に留まると、彼らは預言しました。主の霊が留まっていることの明らかなしるしとして示されました。重ねてそれをすることがなかったことから、それが霊が与えられたことを示すためのしるしであったことが分かります。
11:26 そのとき、二人の者が宿営に残っていた。一人の名はエルダデ、もう一人の名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。彼らは長老として登録された者たちだったが、天幕へは出て行かなかったのである。彼らは宿営の中で預言した。
その時、二人の長老として登録された者が残っていました。その二人にも霊が留まりました。彼らは、天幕へは出ていきませんでしたが、預言しました。彼らにもしるしが伴ったのです。
11:27 それで、一人の若者が走って来て、モーセに告げた。「エルダデとメダデが宿営の中で預言しています。」
11:28 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」
二人が預言していることが報告された時、ヨシュアは、モーセにそれをやめさせるように求めました。
11:29 モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」
ヨシュアには、モーセの指摘のように妬みがあったのです。特別に選ばれた者だけが預言すべきだと考えていたのです。宿営の中にいて、モーセの招集に応じなかったような者が預言すべきでないと考えたのです。しかし、モーセは、主の民皆が預言者になり、主が彼らの上に霊を与えられると良いのにと言いました。彼は、民全員が主の御心を行う者になり、主の目に適うこと者になることを願っていたのです。
ヨシュアのように、預言のような特別な働きは、主の霊によってなされる、栄誉ある働きのように考える考えを人は持ちやすいのです。しかし、モーセが願っていたことは、誰もが主の霊によって主の御心のままに御心を行う者になることです。さらにいうならば、それは、主の働きであって、肉の誇りにはならないのです。
今日、教会において、主はすべての業を聖霊の働きとして行われます。しかし、その働きをする者がそれを自分の栄誉のように考えることは誤りです。全ては、神の栄光のための業です。人間的な誇りなど入る余地はないのです。
11:30 それから、モーセとイスラエルの長老たちは、宿営に戻った。
11:31 さて、主のもとから風が吹き、海からうずらを運んで来て、宿営の近くに落とした。それは宿営の周り、どちらの側にも約一日の道のりの範囲で、地面から約二キュビトの高さになった。
主から風が吹きました。海からウズラがもたらされました。風が宿営の近くに落としました。
11:32 民は、その日は終日終夜、次の日も終日出て行ってうずらを集めた。集めたのが最も少なかった者でも、十ホメルほど集めた。彼らはそれらを自分たちのために、宿営の周囲に広げておいた。
民は、それを集めて、宿営の周りに広げておきました。
11:33 肉が彼らの歯の間にあって、まだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打たれた。
主は、彼らに肉を与えました。それは、非常に多くのものでした。しかし、主は、彼らが口に入れた途端に、彼らを非常に激しい疫病で打たれました。主は、彼らに怒りを発せられたのです。
主は、彼らの強い欲望による求めに応えられました。しかし、その欲望の満たしは、主の御心に適わず、主は、怒りをもって彼らを裁いたのです。このように、主は、肉の欲によって求めることをそのままにされますが、その結果もたらされるものは滅びです。神の前に実を結ぶことはなく、死んでいるのです。その意味で滅びです。彼らの死は、そのことを比喩として表しています。
11:34 その場所の名はキブロテ・ハ・タアワと呼ばれた。欲望にかられた民が、そこに埋められたからである。
11:35 キブロテ・ハ・タアワから、民はハツェロテに進んで行った。そしてハツェロテにとどまった。
その場所は、「欲望の墓」と呼ばれました。主は、欲望を葬られたのです。マナによって示されていることは、その味が示すように、聖霊に満たされたイエス様を自分のうちに受け入れ、主と同じ者に変えられることです。それとは、対極にあるものとして、肉によって生きた人たちが葬られたことから、肉に死んで生きることが教訓として教えられています。