歴代誌第二6章

6:1 そのとき、ソロモンは言った。「主は、黒雲の中に住む、と言われました。

 宮が雲で満ちたことを捉えて、主が黒雲の中に住まわれると言われたとおりに、雲が現れたのですから、主がそこにおられるということです。

6:2 そこでこの私は、あなたの御住まいである家を建てました。御座がとこしえに据えられる場所を。」

 主が雲の中に臨在されるのを見て、この私が主が住まわれる家を建てましたと言ったのです。御座がとこしえに据えられる場所として造ったと言ったのです。今、臨在されている主が、とこしえまでも、そこに臨在されることを確信した言葉です。

 接続詞「そこで」は、文脈からは、不適切な訳です。「そこで」は、前に記述されてことを理由として、接続詞以下のことを記述する場合に用いる言葉です。しかし、黒雲の中に住むことと、ソロモンが宮を建てることに直接的な関係はありません。「そして、」私が建てましたと。主が臨在される宮は、自分が造ったことを強調しています。

6:3 それから王は振り向いて、イスラエルの全会衆を祝福した。イスラエルの全会衆は起立していた。

 「祝福した」は、十三節の「ひざまずく」と同じ語で、こちらの場合は、民の祝福を求めたということです。ソロモンには、民に祝福を与える力はありません。その祝福は、神からのものです。

6:4 彼は言った。「イスラエルの神、主がほめたたえられますように。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて、こう言われた。

 彼は、主を褒め称えました。主は、約束したことをそのとおりに実現されたので、褒め称えたのです。それは、民に対する祝福として実現したのです。民に対する祝福は、主の栄光として実現したのです。

 祈りの内容は、神の御心に従う者に対して祝福を現すことです。ですから、神の栄光となるのです。

6:5 『わたしの民をエジプトの地から導き出した日からこのかた、わたしは、わたしの名を置く家を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町も選ばず、また、わたしの民イスラエルの上に立つ君主とするために、だれも選ばなかった。

6:6 ただ、エルサレムを選んでそこにわたしの名を置き、ダビデを選んでわたしの民イスラエルの上に立てた。』

 主は、その名を置くために一つの場所を選ばれたこと、そして、そのためにダビデを選ばれたことです。

6:7 それで私の父ダビデの心にはいつも、イスラエルの神、主の御名のために家を建てたいという思いがあった。

6:8 ところが主は、私の父ダビデにこう言われた。『あなたの心にはいつも、わたしの名のために家を建てたいという思いがあった。その思いがあなたの心にあったことは、良いことである。

 ダビデは、主の家を建てたいという思いを持ちました。その思いを主はご覧になられて、良いこととして評価なさいました。

6:9 しかし、あなたはその家を建ててはならない。あなたの腰から生まれ出るあなたの子が、わたしの名のために家を建てるのだ。』

6:10 主はお告げになった約束を果たされたので、私は主の約束どおりに父ダビデに代わって立ち、イスラエルの王座に就いた。そしてイスラエルの神、主の御名のためにこの家を建て、

6:11 主の契約が納められている箱をそこに置いた。その契約は、主が、イスラエルの子らと結ばれたものである。」

 そして、ダビデが家を建てることは主の御心ではなく、その子が建てることが告げられていました。その御心に従って、ソロモンが建てたのです。そして、ここでは、宮を建てた経緯が語られていますが、結論は、契約が収められている箱をそこに置いたことです。その契約については、更に説明が語られて、主がイスラエルの子らと結ばれたものであるということです。

 ソロモンは、主とイスラエルとの契約に焦点を当てているのです。今、臨在されている主が、その契約を履行することを願っているのです。

6:12 彼はイスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を伸べ広げた。

 彼が立った場所は、祭壇の前でした。主との関係が維持されるのは、そこにいけにえが捧げられて、主をなだめるからです。なかだちとしての主イエス様の存在を表しています。

6:13 ソロモンは、長さ五キュビト、幅五キュビト、高さ三キュビトの青銅の足台を作って庭の中央に据えていたので、その上に立った。そしてイスラエルの全会衆の前でひざまずき、天に向かって両手を伸べ広げて、

 台の寸法がわざわざ示されているのは、意図してその寸法に仕上げたのです。五は、御心を行うことを表していて、三は、神の完全さを表しています。神の御心を完全に行うことが表されています。それは、ソロモンの意思表明でもあります。契約を守る者として歩むことの表明です。

 彼は、主の約束に基づく祝福を祈り求めましたが、それは、律法を守ることを前提としています。

6:14 こう言った。「イスラエルの神、主よ。天にも地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。

 彼は、主を賛美しましたが、それは、主の偉大さについてです。天地にそのような神はいないと言い表しています。それは、主が契約と恵みを守られる方であるという点において、比類なき偉大さを持たれる方であるということです。

 「心を尽くして御前に歩む」「あなたのしもべたち」にそれを実現されます。しもべとは、神の御心を行う者のことを表しています。心を尽くして、心から進んで御心を行う者を表しています。

 主は、契約を守る方として偉大なのです。「恵みを守る」ことは、契約を忠誠をもって守られることです。契約を守られるのですが、主が忠誠をもって契約を守られるのです。ですから、契約の一つも間違いなく全力で守られることを表しています。

・「恵み」→契約に対する忠誠。

6:15 あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたことを、ダビデのために守ってくださいました。あなたは御口をもって語り、また、今日のように御手をもってこれを成し遂げられました。

6:16 そこで今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたことを、ダビデのために守ってください。『あなたがわたしの前に歩んだように、あなたの子孫がその道を守り、わたしの律法に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に就く者がわたしの前から断たれることはない』と言われたことを。

 最初の契約の事項としては、ダビデに約束されたことで、彼の子孫には、イスラエルの王座に着く者が主の前から断たれることがいなというものです。ダビデのためにと言っていますが、ダビデとの約束なので守ってくださいという願いです。

 但し、条件についても言い表していて、「その子孫がダビデが神の前を歩んだように歩む」ことです。

6:17 今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべダビデに約束されたおことばが堅く立てられますように。

 「イスラエルの神、主よ」と言い表していますが、イスラエルの神は、イスラエルを支配される方であり、その方のしもべとしてイスラエルは御心を行うのです。そして、主は、存在者を表しますが、また契約の履行者を表します。

 その方に対して、大胆に祈ることができるのは、「約束された言葉」があるからです。

6:18 それにしても、神は、はたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。

6:19 あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。

6:20 そして、この宮、すなわち、あなたの御名をそこに置くと言われたこの場所に、昼も夜も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。

 ソロモンは、神様がどのような方であるかをよく認識していました。人とともに地の上に住まう方ではなく、まして、ソロモンが建てた宮に住む方ではないということです。天も、天の天も、お入れすることができない方です。

 それで、彼は、祈りと願いに対して「御顔を向けてください」と祈っています。その上で、この宮の位置づけについて、「御名を置く」と言われた所であり、「神様の臨在の象徴的な場所」として、その所に向かって捧げる祈りを聞いてくださるように願いました。遍在の神の臨在を人間にも理解しやすい物理的な場所と施設によって象徴として存在させ、そこに神がおられるかのようにすることが御名を置くということです。御名とは、神のすべての特性を表しています。ですから、御名を置くとは、そこに神がおられるかのように考えてよいことを表しています。神は、遍在の方ですが、宮に向かって祈るということを許されるのです。また、その祈りは、神に向かって祈った祈りとしてお受け入れになられるのです。

6:21 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この場所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたの御住まいの場所、天からこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。

 それで、次に、民がこの場所に向かって捧げる願いを聞いてくださいるように願いました。主は、それを御住まいの場所である天から聞いてくださるように願っています。実際は、天には住まわれず、天の天もお入れすることかできないのですが、ここで言っている天は、神の御住まいとしての天です。

6:22 ある人が隣人に罪を犯して、のろいの誓いを立てるよう求められ、この宮の中にある、あなたの祭壇の前に来て誓うなら、

6:23 あなたご自身が天からこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行って、悪い者にはその生き方への報いをその頭上に返し、正しい者にはその正しさにしたがって義をもって報いてください。

 誓いについて、祭壇の前で誓うならば、これを聞いて、正しくお取り扱いくださるように願いました。この誓いは、彼が罪を犯して、呪いの誓いを立てるように求められて、祭壇の前に来て誓う時です。明確な罪があると認められるならば、それに応じて裁くことができます。しかし、証拠がなく、主にその裁きを委ねる場合です。それで、主が正しく裁いて、悪者にはその悪の報いを返し、正しい者には、正しさに従って義を報いてくださるように願いました。

6:24 あなたの民イスラエルが、あなたの前に罪ある者となって、敵に打ち負かされたとき、彼らが立ち返り、御名をほめたたえ、この宮で御前に祈り願うなら、

6:25 あなたご自身が天からこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らとその先祖たちにお与えになった地に、彼らを帰らせてください。

 罪を犯して、かつ敵に敗北した時、彼らが「立ち返り」、「御名を褒め称え」、「この宮で御前に願うならば」天から聞いてくださいというものです。

 ここには、手順が示されていて、まず、「立ち返る」ことです。次に、「御名を褒め称える」ことです。罪を犯していながら戦いに臨んだことは、彼らが自分たちの力で勝利できると考えていたからです。そして、罪を犯して立ち返らないでいること自体、彼らが主の主権を認めていないことを表しています。褒め称えることは、その逆で、主の権威を認め、その偉大さを認め、褒め称えるのです。主を褒め称えることの中には、完全な服従が表されています。そして、「願う」のです。

 彼らの罪を赦すことと、神様が彼らの先祖に与えた地に帰らせることを実現してくださるように願いました。敵に対する敗北の問題点は、相続地を失うことです。しかし、彼らは、自分たちの罪ゆえに敗北し、それを失ったのです。相続地を失うことは、悪魔に敗北し、肉に従ってもはや実を結ぶことないことの比喩です。それは、報いとしての永遠の資産の相続を失うことを表しています。

6:26 彼らがあなたの前に罪ある者となって、天が閉ざされ雨が降らなくなったとき、彼らがこの場所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたが苦しませたことによって彼らがその罪から立ち返るなら、

6:27 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦してください。彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。

 次は、彼らが罪を犯して、雨が降らなくなったときのことです。「天が閉ざされ」と記されているように、神様が裁きとしてその祝福を取られたことが表現されています。ここで、立ち返る順についての記述が入れ替わっていますが、しかし、ここでは、立ち返ることは、順として示されているのではなく、「罪から立ち返る」という全体像について示しています。彼らが、祈ったのは、主が彼らの罪のために苦しませたことを認めたからです。それで祈ったのです。ここでは、具体的な願いは出てきません。雨を与えるかどうかは、主の主権によります。問題は、彼らが罪の状態から立ち返ることにあるのです。

 それで、彼らに罪の赦しを与えることと、彼らが歩むべき良い道を教えて下さいと願っています。

 雨は、御言葉の比喩です。彼らが神の言葉に従うことを止め、罪を犯すならば、神様の方から御言葉を閉ざされます。聖書を読むことができるにしても、神の言葉に従うことを求めない者にその御心が示されることはないのです。読んではいても、理解しないのです。そのようにして、御言葉による実を結ぶことがないことに彼らが気付き、悪魔の支配にあり、肉によって生きている苦しみに気付くならば、彼らは、立ち返ろうとするのです。主がその祈りに応える時、主は、彼らに歩むべき正しい道を教えられるのです。そして、実を結ばせ、永遠の資産としての報いを与えられるのです。

6:28 この地に飢饉が起こり、疫病や立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫が発生したときでも、敵がこの地の町々を攻め囲んだときでも、どのようなわざわい、どのような病気であっても、

6:29 だれでもあなたの民イスラエルが、それぞれ自分の疫病や痛みを思い知らされて、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、どのような祈り、どのような願いであっても、

6:30 あなたご自身が、御座が据えられた場所である天から聞いて、赦し、一人ひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心をご存じです。あなただけが、すべての人の子の心をご存じだからです。

6:31 そうして、あなたが私たちの先祖にお与えになった大地の上で彼らが生き続ける間、いつもあなたを恐れて、あなたの道に歩むようにしてください。

 飢饉は、食料がないために起こります。比喩としては、彼らは、真の食物としてのキリストを自らのうちに取り入れ、キリストと同じように歩むはずでのに、キリストを信じてキリストによって生きることをしない状態になります。それが、飢饉です。

 また、疫病は、健全な信仰の歩みがなくなることの比喩です。

 立ち枯れや黒穂病は、実を結ぶことがないことです。霊的に、実を結ぶことがないことの比喩です。いなごやその若虫の発生は、実を結ぶことを妨げる働きです。肉が働いて、実を結ぶことができない霊的状態の比喩です。

 敵が町に攻め込むことは、敵である悪魔の誘惑によって、その生きた歩みが妨げられることの比喩です。

 そのように、実を結ばないようになることで、自分の霊的状態に気づき、痛みを覚える時、宮に向かって祈るならば、どのような願いであっても、主が聞かれて、彼らの罪を赦してくださることを願いました。両手を伸べ広げることは、彼らの清い行いの表明です。彼らが考えを変えて立ち返ったことを表しています。

 その彼らの祈りに応え、また、彼ら一人ひとりの生き方に従って報いてくださることを願いました。彼らが神に立ち返り、御言葉の中に生きるならば、主は、彼らを祝福し、永遠の報いを備えられます。彼らの立ち返りが偽りなら、主は、それに応じて応えられるのです。主は、その心をご存知です。

 主が、そのように取り扱われることで、民が主を恐れ、生きる間、主の道に歩むようにしてくださることを願いしまた。彼らに与えられた相続地は、彼らが主の前に実を結ぶためのものです。

6:32 同様に、あなたの民イスラエルの者でない異国人についても、その人があなたの大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕のゆえに、遠方の地から来てこの宮に向かって祈るなら、

6:33 あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所である天からこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことをすべて、かなえてください。そうすれば、地上のあらゆる民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じようにあなたを恐れるようになり、私が建てたこの宮で御名が呼び求められなければならないことを知るでしょう。

 次は、異国人が祈りを捧げた場合です。その人は、主の「御名」、「力強い御手」と「伸ばされた御腕」について知った人です。そのような人が宮に来て宮に向かって祈る場合に、聞いてくださいというものです。

 その祈りが聞かれることで、すべての国民が「御名を知り」「あなたを恐れるようになる」からです。そして、主が御名を置くと言われたことが現実のことであることを知り、この宮が単なる建物ではなく、主の名が置かれた場所であることを知り、主の御名が呼び求められなければならないことを知るようになるのです。

 主は、生ける神であり、その御名が宮に置かれたという事実を認め、その方を知り、また恐れ、そして、その御名を呼び求めなければならないということを知るのです。単に、祈らなければならないということを知るのではなく、その前提として主を知り、恐れるのです。そのような方の存在を知るならば、自分の思いのままに生き、自分の力で生きることではなく、まして、罪のうちを歩むのではなく、主の御名を呼び求め、主に服従して、主の御心を行う者として歩むようになることを知るのです。それが、御名を呼び求めることを知るようになるということです。

ローマ

10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

10:11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」

10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。

10:13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。

10:14 しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。

10:15 遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。

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 主と告白することは、この方を主と認め服従して生きることです。その前に、私たちが「神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じる」ならば、その信仰が義とされます。十字架を信じるとは記されていません。義とされる信仰は、イエス様のよみがえりを神の力として信じる信仰です。

 そして、救われる者は、すべての国民です。主の御名を呼び求めるすべての国民です。御名を呼び求めるというのは、心に信じて、主を告白することです。単に信じたるだけでなく、信じて主に服従するのです。信じた時に義とされますが、ここでは、更に御国の相続者として豊かな報いを受けることを救いと言っています。

6:34 あなたの民が敵との戦いのために出て行くとき、遣わされる道で、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てた宮に向かって、あなたに祈るなら、

6:35 天から彼らの祈りと願いを聞いて、彼らの言い分を聞き入れてやってください。

 次は、神の民が遠くの地から祈った場合です。敵との戦いのために遣わされて、宮から離れていても、その所から宮に向かって祈った場合のことです。その祈りを聞いてくださるように願いました。

6:36 罪に陥らない人は一人もいません。ですから、彼らがあなたの前に罪ある者となったために、あなたが怒って彼らを敵に渡し、彼らが、遠く、あるいは近くの国に捕虜として捕らわれて行き、

6:37 捕らわれて行った地で我に返り、その捕囚の地であなたに立ち返ってあわれみを乞い、『私たちは罪ある者です。不義をなし、悪を行いました』と言い、

6:38 捕らわれて行った捕囚の地で、心のすべて、たましいのすべてをもってあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮の方に向かって祈るなら、

6:39 あなたの御座が据えられた場所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦してください。

 更に、彼らが敵との戦いで彼らの罪のために敗北し、捕虜となって連れて行かれた地で祈った場合です。

 「あなたに立ち返り」、「憐れみを乞い⇢懇願する」、「告白」、「心のすべて」、「たましいのすべて」をもって立ち返り、「宮に向かって祈る」という手順を踏んだ場合です。あわれみを乞いと訳されていますが、懇願するという強い意味です。心の全てとは、彼からが神の言葉を完全に受け入れることを表しています。たましいの全てとは、彼らが完全に神の言葉に服従して歩むことを表しています。心は、御言葉を受け入れる部分を表し、たましいは、神の言葉に従う部分を表しています。

 そして、その願いは、彼らの訴えを叶えることと、罪の赦しです。

6:40 今、わが神よ。どうか、この場所でささげる祈りに御目を開き、御耳を傾けてください。

 もう一度、この場所で捧げる祈りに目を開き、耳を傾けてくださるように祈りました。

6:41 今、神、主よ、立ち上がってください。あなたの休み所にお入りください。あなたとあなたの御力の箱も。神、主よ、あなたの祭司たちが救いを身にまとい、あなたにある敬虔な人たちが、いつくしみを喜びますように。

 この宮を休みどころと表現したのは、神様の臨在が、いつまでもあることを期待しての言葉です。それは、続く言葉が、神が祭司たちを受け入れることであるからです。次の節にも、油を注がれた者たちから顔を背けないでくださいと言い表されてます。

 宮が煙で満ちて、祭司たちは、外に出ざるを得ませんでした。しかし、その祭司が、主の臨在のもとで、仕えることができるように願ったのです。それが祭司が救いをまとうということです。あなたにある敬虔な人たちとは、祭司たちのことです。「いつくしみ」と訳されている語は、「美しい」、「良い」とも訳される語で、御心に適っていることを意味します。天地創造の業において、「見よ、それは非常に良かった」と記されている「良い」という言葉です。祭司たちがいつくしみを喜ぶというのは、祭司たちの奉仕が御心に適っていることを神が認めてくださって、祭司たちがそのことを喜ぶという意味です。

 私たちのすべてが神の御心かなっているということを知ることができることは、私たちにとって大きな喜びです。

6:42 神、主よ、あなたに油注がれた者たちの顔を退けないでください。あなたのしもべダビデの誠実な行いの数々を思い起こしてください。」

 ここでは、あなたに油注がれた者たちと言い、祭司たちと、油注がれたソロモンのことです。その選ばれた者たちから、御顔を背けないでくださいと願いました。それは、ダビデに免じてそうしてくださいと願ったのです。ダビデのなした誠実な行いの数々に免じて、受け入れてくださることを願いました。

 ダビデが願い、主がその実現を約束された宮です。その宮での奉仕は、ダビデの願いの実現であり、神がそれを認めておられるのです。その一環として、祭司たちの奉仕があるのであって、それがダビデのゆえに受け入れられるのです。

 比喩としては、神によって選ばれた者たちの奉仕は、神の御心の実現であり、主イエス様のゆえに受け入れられるものとなります。主イエス様の業としてその奉仕があるのです。奉仕者は不完全な者ですが、主の御心を行う者として、受け入れられるのです。