歴代誌第二32章
32:1 これらの真実なことが行われた後、アッシリアの王センナケリブが来てユダに入り、城壁のある町々に対して陣を敷いた。それらを攻め取ろうと考えたのである。
アッシリヤの王がユダに攻め入ってきましした。その理由について伺わせることがここに記されています。このことが起こったのは、「これらの誠実なことが行われた後」です。ですから、これは、裁きではないし、懲らしめでもありません。このことの結果は、二十三節に記されています。人々は主への捧げ物を持って来るようになりました。またヒゼキヤも尊敬の目で見られるようになりました。神様の栄光が現され、また、そのしもべとしてのヒゼキヤがその信仰のゆえに、尊敬されるようになったのです。それが神様がなさろうとしたことであることが分かります。
32:2 ヒゼキヤは、センナケリブが来て、エルサレムに対して戦を仕掛けようとしているのを見たので、
32:3 町の外にある泉の水をふさごうと、高官たちや勇士たちと相談した。彼らは王を支持した。
32:4 そこで、多くの民が集まり、すべての泉と、この地を流れている川をせき止めて言った。「アッシリアの王たちに攻め入らせ、豊富な水を見つけさせてなるものか。」
ヒゼキヤは、センナケリブが戦いを仕掛けた時、町の外の泉の水を塞ぐことを相談しました。高官たちや勇士たちに相談したのです。彼らは、戦いの先頭に立つ者たちです。彼らの同意がなければ戦うことはできません。彼らが進んでそれをすることができるために相談したのです。
また、多くの民が集まりました。彼らも、アッシリアの王たちが水を見つけないようにと自ら働いたことがわかります。
教会として決めたことを皆が心一つにして行うことができることは幸いです。それは、力になります。
彼らは、泉の水を塞ごうとしました。これは、城壁のある町を包囲した敵にとって必要な現地調達する水を与えないためです。水がなければ長くとどまることはできません。水を調達するために、たとえばヨルダンまで汲みに行かなくてはなりせん。
これは、比喩にもなっていて、泉の水は、聖霊によって働く御言葉の比喩です。箴言でもそれを自分だけのものとして飲めと記されています。箴言の場合は、個人的な経験として語られています。ヒゼキヤの戦いにおいては、信仰者と敵との関係として記されています。これは、教会として聖霊に満たされて、御言葉に従って歩むことの比喩です。悪魔は、その健全さを損なおうとします。その戦いがあるのです。悪魔の挑戦は、聖霊により御言葉に従って歩むことに対する挑戦なのです。
箴言
5:15 あなた自身の水溜めから水を飲め。流れ出る水を、あなた自身の井戸から。
5:16 あなたの泉を外に散らし、広場を水路にしてよいものか。
5:17 それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他人のものにするな。
5:18 あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若いときからの妻と喜び楽しめ。
5:19 愛らしい雌鹿、麗しいかもしか。彼女の乳房がいつもあなたを潤すように。あなたはいつも彼女の愛に酔うがよい。
5:20 わが子よ。どうしてよその女に夢中になり、見知らぬ女の胸を抱くのか。
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32:5 王は奮い立ち、崩れていた城壁をすべて改修し、その上にやぐらを立て上げ、その外側にもう一つの城壁を築き、ダビデの町のミロを強固にした。さらに、大量の投げ槍と盾を作った。
王は、城壁をすべて修復しました。敵の攻撃に対して、守りを固めたのです。城壁が崩れていては、守れないのです。
櫓は、見張りと攻撃のためです。さらに、城壁を二重にし、守りを固めました。
また、投槍と盾を作りました。これは、戦いの武器です。
32:6 彼は民の上に戦時の隊長たちを立て、彼らを町の門の広場に召集し、激励して言った。
32:7 「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない。おののいてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が、私たちとともにいてくださるからである。
32:8 彼とともにいる者は肉の腕だが、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主であり、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる。」民はユダの王ヒゼキヤのことばによって力づけられた。
ヒゼキヤは、隊長たちを立て、彼らを激励しました。目に見える大軍を恐れてはならないと。ともにおられる方は、大いなる方であり、その方は、ともにいてくださるのです。戦いにおける励ましは、主がともにおられることを知らせることです。この世の方法とは異なるのです。
また、敵と主とを比較しました。彼らは、肉の腕なのです。ともにおられる方は、「私たちの神、主」です。神は、支配者を表し、彼らは、その方に従っていたのです。また、主は、存在者を表します。また、契約の履行者です。その方に従うならば、祝福をもって応える方なのです。その祝福は、神の栄光を現すという形で表されます。具体的には、民を助け、その戦いを戦ってくださることによってです。
はじめに神と言い表し、次に主と言い表しているのは、主からの祝福は、神としてのこの方に従うところにあるからです。
民は、ヒゼキヤの言葉によって力付けられました。彼らは、その言葉を信じたのです。彼らとともにおられる方がいることを信じたので、力付けられたのです。このように、勧めの言葉を受け入れることは幸いです。敵に囲まれた状況を見て、信用しないというのであれば、彼らは力強くあることはできないのです。
32:9 この後、アッシリアの王センナケリブは、その家来たちをエルサレムに遣わした。彼自身は全軍を率いてラキシュを攻めていた。家来たちは、ユダの王ヒゼキヤとエルサレムにいたすべてのユダの人々に告げた。
32:10 「アッシリアの王センナケリブがこう言っておられる。おまえたちは何に拠り頼んで、エルサレムの包囲の中にとどまるのか。
32:11 ヒゼキヤは、『私たちの神、主は、アッシリアの王の手から私たちを救い出してくださる』と言って、おまえたちをそそのかし、飢えと渇きで、おまえたちを死なせようとしているではないか。
センナケリブがしたことは、まずヒゼキヤの言葉を疑わせることでした。ヒゼキヤは、主に信頼するならば、主が答えてくださることを語りました。その言葉に対して疑いを抱かせたのです。これは、悪魔の働きです。ヒゼキヤ自身、主を信じていたし、その勧めの言葉は正しいものです。しかし、悪魔は、そこに疑いを抱かせるのです。その言葉をそのまま信じさせないように働くのです。
もし、エルサレムの住民が語られた言葉を信じないならば、その言葉は悪魔によって持ち去られるのです。私たちが勧めの言葉を聞くとき、信仰によって受け入れるのではなければ、それはその人のものにはなりません。疑いを抱きながら聞いている人は、決して理解しないし、それを受け入れて歩むこともしません。成長もないのです。
32:12 ヒゼキヤとは、その高き所と祭壇を取り除いて、ユダとエルサレムに『あなたがたは、ただ一つの祭壇の前で拝み、その上で香をたかなくてはならない』と言った者ではないか。
そして、センナケリブは、主は無力だと言いました。主への奉仕は、ヒゼキヤが整えて初めて実現したのであり、人の力によるのだと言ったのです。
センナケリブは、主のお取り扱いについて理解していませんでした。主は、不信仰に歩むならば、その堕落のままにされます。それが裁きなのです。これは、怖いことなのです。主は、人が自ら進んで、主に仕えるのを待っておられます。
32:13 おまえたちは、私と私の先祖たちがすべての国々の民にしてきたことを知らないのか。諸国の神々が彼らの国を私の手から救い出すことができたか。
32:14 私の先祖たちが滅ぼしたこれらの国々の神々のうち、だれがその民を私の手から救い出すことができたか。おまえたちの神がおまえたちを私の手から救い出すことができるとでもいうのか。
32:15 今、おまえたちは、ヒゼキヤにごまかされるな。このようにそそのかされてはならない。彼を信じるな。どのような国、どのような王国のどのような神も、その民を私の手や私の先祖たちの手から救い出すことはできないからだ。まして、おまえたちの神は、おまえたちを私の手から救い出すことはできない。」
彼は、諸国の神々が無力であったことを取り上げて、主が救い出すことはできないと言いました。そのように主も無力であると言いました。
彼は、真の神と神々との違いを知りませんでした。
32:16 彼の家来たちは、なおも、神である主とそのしもべヒゼキヤに悪口を浴びせた。
32:17 センナケリブは手紙を書いて、イスラエルの神、主を侮辱し、主に逆らって言った。「自分の民を私の手から救い出せなかった国々の神々と同じように、ヒゼキヤの神も、その民を私の手から救い出すことはできない。」
更に、彼は手紙を書き、主が無力であると主張しました。それは、主を侮辱することであり、主に逆らうことでした。これは、信仰に対する挑戦です。
32:18 彼らは、城壁の上にいたエルサレムの民にユダのことばで大声で呼びかけ、民を恐れさせ、おじけさせて、この町を取ろうとした。
そして、彼は、城壁の上の民を恐れさせるために、大声で呼びかけたのです。民の心がしなえて降伏するようにしようとしたのです。
堅く主に信頼していないならば、このような脅しの言葉に惑わされるのです。
32:19 彼らは、人の手のわざである、地上の民の神々について語るのと同じように、エルサレムの神について語ったのである。
センナケリブの誤りについて指摘されています。彼は、エルサレムの神を人の手の業である地上の民の神々と同じもののように語ったのです。
32:20 ヒゼキヤ王と、アモツの子、預言者イザヤは、このことについて祈り、天に叫び求めた。
ヒゼキヤとイザヤは、「このことについて」祈りました。このこととは、センナケリブの語った誤りについてです。主を諸国の神々と同じものように考えたことです。そのことは、列王記、イザヤ書に記されています。
32:21 主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた。アッシリアの王は恥じて国へ帰り、自分の神の宮に入った。そのとき、自分の身から生まれ出た者たちが、そこで彼を剣にかけて倒した。
主は、アッシリヤの王に対して、彼が主を侮辱したことをそのまま返されました。まず、すべての勇士、指揮官、隊長を全滅させることで、彼らが主の前に無力であることを示したのです。
さらに、彼が信じていた神と主との違いを示すために、彼の神の宮で彼を殺したのです。彼の神は、無力でした。彼を守ることはできなかったのです。しかも、彼を殺したのは、実の息子たちです。このように、敵の手によってではなく、身内に殺されるという方法を取ることで、それが主から出たことを明らかにされました。
32:22 こうして主は、ヒゼキヤとエルサレムの住民を、アッシリアの王センナケリブの手、および、すべての者の手から救って、四方から彼らを守られた。
主は、センナケリブや、全ての者の手から守ることで、主は、守る力があることを示されたのです。主は、信仰に答えられ、それ以上のことをなし、ご自分の栄光を現されました。
32:23 多くの人々が、主へのささげ物やユダの王ヒゼキヤに贈る選りすぐりの品々を携えて、エルサレムに来るようになった。この時以来、ヒゼキヤはすべての国々から尊敬の目で見られるようになった。
多くの人々がエルサレムに来るようになりました。まず、「主への捧げ物」を携えてきたことが記されています。人々が主の御名を知ったことがわかります。人の手ではなし得ないことが実現したのを見て、人々は、主の栄光を見たのです。それで、主への捧げ物を携えてきました。そして、ヒゼキヤに送るよりすぐりの品を携えてきました。人々は、ヒゼキヤを尊敬したからです。主に対する信仰をこのような非常時に現したからです。
32:24 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。彼が主に祈ったとき、主は彼に答え、しるしを与えられた。
ヒゼキヤが病気になったとき、主は、その祈りに答えられました。しかも、しるしを与えられたのです。
32:25 ところがヒゼキヤは、自分に与えられた恵みに応えようとせず、かえってその心を高ぶらせたので、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。
32:26 しかし、ヒゼキヤがその心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼もエルサレムの住民もそうしたので、主の御怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。
しかし、ヒゼキヤは、主のそのようなお取り扱いにも関わらず、それに応えませんでした。かえってその心を高ぶらせました。しかも、その高ぶりは、ユダとエルサレムにもあったのです。主から祝福を頂いたとき、ヒゼキヤのような人でも、心高ぶらせる危険があるのです。
幸いなことに、彼らは、その高ぶりを捨てました。しかし、彼の時代に御怒りが臨まなかったとあるように、それは、後の時代に結果を招くものとなります。
32:27 ヒゼキヤは非常に多くの富と誉れを手にした。彼は、銀、金、宝石、バルサム油、盾、すべての尊い器を納める宝物倉、
32:28 穀物、新しいぶどう酒、油などの産物のための倉庫、さらに、あらゆる家畜のための小屋や、羊の群れの囲いを造った。
32:29 彼は町々を建て、羊や牛の群れもおびただしい数であった。神が、実に豊かな財産を彼に与えられたからである。
神は、ヒゼキヤに実に豊かな財産を与えられました。
32:30 このヒゼキヤこそ、上方にあるギホンの水源をふさぎ、ダビデの町の西側に向かってまっすぐに流した人である。ヒゼキヤは、そのすべての仕事を成し遂げた。
また、彼は、仕事を成し遂げることができました。成功させてくださのは、主です。これらは、主に信頼して歩んだことに対して、主が答えたことを表しています。
32:31 ただし、バビロンの首長たちが、この地に示されたしるしについて調べるために彼のもとに使節を遣わしたとき、神は彼を試みて、その心にあることすべてを知ろうとして彼を捨て置かれた。
「ただし」とあり、主は、ヒゼキヤを試みられました。その心にあることをすべて知ろうとしてそうされたのです。彼が、人々から尊敬を受けたとき、どのように振る舞うかを知ろうとしたのです。その時、彼は、自分を誇ったのです。主の期待は、彼が信仰に歩むことでした。そうすれば、彼はさらに大いなる主の栄光を見たでしょう。
主は、ヒゼキヤが自分を現すのではなく、すべてのことが主の栄光のためになされた業であることを証ししたならば、主は、喜ばれたでしょう。しかし、彼のしたことは、自分を現すことでした。
人は、自分が現されることを求めやすいのです。主のための働きにおいてさえ、自分を現そうとするのです。
32:32 ヒゼキヤについてのその他の事柄、その誠実な行いは、『ユダとイスラエルの王の書』の『アモツの子、預言者イザヤの幻』にまさしく記されている。
32:33 ヒゼキヤは先祖とともに眠りにつき、人々は彼をダビデの子たちの墓地の上り坂に葬った。ユダのすべての人々とエルサレムの住民は、彼の死に際し、彼に栄誉を与えた。彼の子マナセが代わって王となった。
ヒゼキヤの行いについては、「誠実な行い」と記されています。この「誠実」という語は、契約に対する忠誠を表す語です。この語が使われることによって、彼が契約に対して忠誠をもって従ったことを表しています。
彼は、人からも栄誉を受けました。