歴代誌第二30章
これは、以下の記述の例証として記されている記事です。
「31:21神の宮の奉仕において、律法において、命令において、彼は神を求め、心を尽くして行い、これを成し遂げた。」
最初は、過越のいけにえを捧げることです。
30:1 ヒゼキヤはイスラエルとユダの全土に人を遣わして、またエフライムとマナセに手紙を書いて、エルサレムにある主の宮に来て、イスラエルの神、主に過越のいけにえを献げるように呼びかけた。
ヒゼキヤは、全イスラエルにエルサレムの主の宮に来て、イスラエルの神、主に過越しのいけにえを捧げるように呼びかけました。彼は、イスラエルとユダの全土に人を遣わしました。エフライムとマナセには、手紙を書きました。
この時、北王国イスラエルは、アッシリヤによって圧迫されていました。最後の王、ホセアの第三年にヒゼキヤは、王となりました。ホセアの第六年にサマリヤは、アッシリヤの王シャルマヌエセルに包囲され、第九年にサマリヤは取られイスラエル人は捕え移されることになります。
六節の記述から既に捕囚にされた者たちがあったのです。
列王記第二
18:1 イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。
列王記第二
17:3 アッシリアの王シャルマネセルが攻め上って来た。そのとき、ホセアは彼に服従して、貢ぎ物を納めた。
17:4 しかし、アッシリアの王はホセアの謀反に気がついた。ホセアがエジプトの王ソに使者たちを遣わし、アッシリアの王には年々の貢ぎ物を納めなかったからである。そこで、アッシリアの王は彼を捕らえて牢獄につないだ。
17:5 アッシリアの王はこの国全土に攻め上り、サマリアに攻め上って、三年間これを包囲した。
17:6 ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせた。
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30:2 王とその高官たちとエルサレムの全会衆は協議して、第二の月に過越のいけにえを献げようと決めた。
第二の月にいけにえを捧げるように協議し、決定しました。過越しのいけにえは、イスラエルにとって非常に重い意味があります。イスラエルにとっての存在の意義を示すものであるからです。神によって滅ぼされるべき者を神が血をもって贖い、すなわち買い取られてご自分のものとされたからです。イスラエルが神の民であるのは、この贖いにかかっているのです。
30:3 というのは、身を聖別した祭司たちが十分な数に達しておらず、民もエルサレムに集まっていなかったので、そのときには献げることができなかったからである。
ヒゼキヤが王になった最初の月にの捧げ物を捧げることができなかったのは、祭司が身を聖別していなかったからです。聖別した者の数が少なかったのです。
今日、祭司の立場にある信者が神様の聖さにふさわしく自分を捧げることができることは特権であり、幸いです。王が変わり突然奉仕をできるようになったのです。その時に、祭司が普段から主に仕える志を持っていないのは、残念なことです。対応できませんでした。主に仕えようと志すのであれば、普段から身を聖別するのです。汚れた者は、奉仕にふさわしくありません。
さらに、民がエルサレムに集まっていませんでした。律法の規定を行うことを民は心がけていませんでした。また、王によってそれは妨げられていたのです。指導者が主から離れるならば。民は霊的祝福に与れないのです。指導者が教えに厳格に歩むことは大切なことです。
30:4 このことは、王と全会衆の目に良いことに思えたので、
30:5 彼らはベエル・シェバからダンに至るまで、イスラエル全土に通達を出し、エルサレムに来てイスラエルの神、主に過越のいけにえを献げるよう、呼びかけることを決定した。規定どおりに献げている者が多くなかったからである。
その決定は、王と民の目に良いことと思えました。規定通りに捧げる者が少なかったからです。
二月に過越のいけにえを捧げることは、律法に規定されていることですが、民の目にも良いことと思われ、さらに全土に呼びかけることにしました。全ての民が一致して神の目に適った行動を取ろうとしたことは幸いです。
30:6 急使たちは、王とその高官たちから託された手紙を携えて、イスラエルとユダの全土を行き巡り、王の命令のとおりに告げた。「イスラエルの子らよ、アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば、主は、アッシリアの王たちの手を逃れて残ったあなたがたのところに、帰って来てくださいます。
ヒゼキヤは、彼らの困難について、その原因について示すことで、主に立ち返ることを求めました。アッシリヤによる捕囚は、彼らが主から離れたためであったのです。彼らが立ち返るならば、主は帰ってきてくださる、すなわち、彼らとともにおられるようになるのです。
30:7 あなたがたは、父祖の神、主の信頼を裏切ったあなたがたの父たちや兄弟たちのようになってはなりません。あなたがたが見るとおり、主は彼らを恐怖に渡されました。
彼らの父や兄弟たちは、主の信頼を裏切ったのです。主の言葉の中に生きることで、主の栄光を現すべき民であったのに、それを自ら否定したのです。その時、主は、彼らが証しを担うにふさわしくないとして、取り去られたのです。それは、人の目から見たら恐怖の出来事でした。
30:8 今、あなたがたは、自分たちの父たちのようにうなじを固くしてはなりません。主に服従しなさい。とこしえに聖別された主の聖所に来て、あなたがたの神、主に仕えなさい。そうすれば、主の燃える怒りがあなたがたから離れるでしょう。
主に立ち返るとは、具体的に主に服従することです。これが正しい姿です。私たちは、支配や服従ということを嫌います。しかし、主との関係では、私たちは、しもべであり、神の御心だけを行うべき存在です。
人の主権や自分の願いの実現が、人々の間では声高に叫ばれています。しかし、主の前にあっては、主に服従すべき存在なのです。
30:9 もしあなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたの兄弟や子たちは、彼らを捕虜にした人々のあわれみを受け、この地に帰って来るでしょう。あなたがたの神、主は恵み深く、あわれみ深い方であり、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔を背けられることはありません。」
主に従う時に、主は、捕虜となった人々も返してくださるのです。それは、主がご自分の民を喜ばれ、尊いものとして扱うからです。捕囚の地で、彼らを捕虜とした人々から同情を受けるのです。
そして、主は、主に立ち返るならば、御顔を向けてくださるのです。もう背けられることはありません。主に従う者を顧みられ、応えてくださるのです。主は、「恵み深い」方であるからです。これは、求める者に喜んで答える神様の性質です。また、「あわれみ深い」のです。これは、同情深いということです。
30:10 こうして急使たちは、エフライムとマナセからゼブルンの地に至るまで、町から町へと行き巡ったが、人々は彼らを笑いものにして嘲った。
多くの人々は、嘲りました。もはや主を求める心はありませんでした。
30:11 ただ、アシェル、マナセ、およびゼブルンの一部の人々は、へりくだってエルサレムに上って来た。
謙った一部の人々は、エルサレムに来ました。彼らは、神の言葉に対して謙る人々でした。
30:12 また、ユダには神の御手が臨んで、人々の心を一つにし、主のことばどおり、王とその高官たちの命令が実行された。
そして、ユダには、神の御手が臨みました。求める人たちに対して、主の方から働きかけられる幸いを見ることができます。
人々の心を一つにし、主の言葉通りにその命令を実行させたことです。御言葉通りに実行を命じたのは、王と高官たちでした。民の祝福は、指導者がいかに御言葉に適って行動するかにかかっています。
「心」という語は、それが神様の御言葉を受け入れる器官を表しています。心一つにしたというのは、神様の御言葉をそのまま受け入れ、みな、御言葉の権威を認め受け入れたことを表しています。肉が働く時、御言葉の権威を認めないことも起こるのです。その時、一致して行動することはできません。
30:13 こうして、第二の月に多くの民が、種なしパンの祭りを行うためにエルサレムに集まった。それは、おびただしい数の大集団であった。
ここでは、「種なしパンの祭り」と記されています。過越しは、主の贖いを覚えるためです。種なしパンの祭りは、その者たちが汚れを捨てて主に従うことを表しています。
30:14 彼らは立ち上がり、エルサレムにあった祭壇を取り除き、すべての香の壇を取り除いて、キデロンの谷に投げ捨てた。
その彼らが、まず、エルサレムにあった偶像に関わる祭壇や香の壇を取り除いたことは、ふさわしいことでした。
30:15 そして、第二の月の十四日に、彼らは過越のいけにえを屠った。祭司とレビ人は恥じて、身を聖別し、全焼のささげ物を主の宮に携えて来た。
民は、主の言葉通りに行動し、過越しのいけにえを屠ったのです。
祭司とレビ人が恥じたのは、民が主に対して熱心を示しているのに対して、自分たちこそ先頭に立って仕えるべきなのに、それをしていなかったからです。
30:16 彼らは神の人モーセの律法のとおり、定めにしたがって、それぞれの持ち場に立った。祭司はレビ人の手から受け取った血を振りかけた。
その恥じた祭司とレビ人は、律法のとおり、定めに従って、持ち場に立ちました。彼らは、神の言葉通りに行ったのです。
30:17 会衆の中には、身を聖別していない者が多かった。そこで、きよくないすべての人々に代わって、レビ人が、過越のいけにえを屠る役目に就かなければならなかった。それらを主に対して聖なるものとするためである。
会衆の中には、身を聖別していない者が多くいました。レビ人が代わって屠りました。そうすることで主に受け入れられるように行ったのです。身を聖別していないということで、彼らを締め出すことはしませんでした。レビ人が代わりに屠ることで、聖なるものとなるのです。彼らは、一人でも多く主に仕えることができるように配慮しました。彼らが喜んで主に仕えることが大事なのです。足りないところは、補ってあげるのです。締め出すことが良い方法とは言えません。
30:18 民のうち大勢の者、エフライムとマナセ、イッサカルとゼブルンの多くの者は、身をきよめずに、しかも、記されているのとは異なったやり方で過越のいけにえを食べてしまった。それでヒゼキヤは彼らのために祈った。「いつくしみ深い主よ、彼らをお赦しください。
中には、身を聖めず、記されている方法によらないで過越しのいけにえを食べた人たちがいました。彼らは、北王国から来た多くの人々でした。彼らは、律法を知らなかったのです。知識のない人たちが正しく行動することはできないのです。しかし、彼らは、わざわざエルサレムに来て、その祭りを守ろうとしたのです。ヒゼキヤは、彼らのために祈りました。
・「いつくしみ深い」→求める者に喜んで答えること。これは、契約に基づくものです。彼らの赦しを求めたのです。
30:19 彼らは聖なるもののきよめの規定どおりにいたしませんでしたが、心を定めて神を、彼らの父祖の神、主を求めています。」
ヒゼキヤは、彼らが正しい知識によって行動していないことを告白しましたが、しかし、彼らは、心を定めて神、主を求めている人たちであることを言い表し、そのように、主を求める者に対して喜んで応えてくださるのが神様であることを言い表し、罪の赦しを求めているのです。
私たちは、兄弟姉妹の御言葉から外れてしまったことについて、あるいは。知識の誤りについて責めるものですが、彼らが、心を定めて主を求めているのであれば、責めるのではなく、祈るべきことを教えられます。主は、主を求める人に応える方であるからです。
30:20 主はヒゼキヤの願いを聞き、民を癒やされた。
その祈りは、主の御心に適った祈りでした。主は、聞かれて民を癒やされました。
30:21 エルサレムにいたイスラエルの子らは、七日の間、大きな喜びをもって種なしパンの祭りを行った。レビ人と祭司たちは、毎日主に向かって力強い調べの楽器を奏でて、主をほめたたえた。
イスラエル子らには、七日間大きな喜びがありました。彼ら自身が主を求めたことを喜び、みことば通りにしたことを喜んだのです。
今日、バン裂きに集い、喜びをもって主を覚えることは幸いです。
彼らは、その喜びを楽器の演奏と、賛美で現しました。
30:22 ヒゼキヤは、主への務めによく通じている(直訳:良い知識を教えられているすなわち、神の目に適った知識によって教えられている)すべてのレビ人に励ましのことばをかけた。彼らは、交わり(和解)のいけにえを献げ、父祖の神、主に告白をしつつ、七日間、祝いの食事にあずかった。
ヒゼキヤは、レビ人を励ましました。彼が励ましたのは、神の目に適った知識によって教えられているレビ人です。彼らは、御言葉通りに正しく行動できる人たちでした。ヒゼキヤは、そのような忠実な人たちを励ましたのです。彼らが益々そのように歩むためです。それは、他の模範になります。
御言葉に適っていない人を指導することは必要ですが、励ますというわけにはいきません。正しくない人をもっとそのように歩んでくださいとは言えないのです。ヒゼキヤは、形通りに過越し、また種なしパンの祭りが行われれば良いと考えたのではなく、より神の言葉に対して忠実に行動することを求めたのです。
そのレビ人は、和解のいけにえを捧げました。主を喜びとし、褒め称えました。これは告白です。心からのものとして言い表したのです。また、自分を捧げて主とともに歩むことを告白したのです。祝いの食事は、神の前に捧げられたいけにえを喜びとする食事です。それは、御子を予表しており、その方を覚えるためのものです。
ローマ
5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。
5:10 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
5:11 それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
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和解は、神を喜びとし、私たち自身が神の愛の中にあることを明確に示しています。さらに、私たち自身が変えられて、御国において報いを頂く者となることが明らかなのです。
30:23 全会衆は、さらに七日間祭りを行うことを決め、喜びをもって七日間、祭りを行った。
彼らは、七日間の祭りを喜びをもって過ごしたのです。もう七日行うことを誰もが賛成しました。彼らは、祭りの幸いを深く味わいました。祭りに飽きることはありません。
30:24 ユダの王ヒゼキヤは、千頭の雄牛と七千匹の羊を会衆に提供し、高官たちは雄牛千頭と羊一万匹を会衆に提供した。また、多くの祭司が身を聖別した。
ヒゼキヤは、雄牛を千頭、雄羊を七千頭提供しました。千は、雄牛の頭と同じ語でしもべを表します。数字としては、千頭は、は一、七千は、七を表しています。一万は、十です。
雄牛は、しもべとしてのイエス様を表しています。一は、独り子の御子の栄光を表しています。しもべとして従うことで、それを表されたのです。
羊は、人としてのイエス様を表しています。また、七は、満たす意味での完全を表しています。人として全き者を表しています。
一万は、千が十です。十は、到達点を表しており、完全に満たすことを表しています。人として歩まれ、完全であることを表しています。
30:25 こうして、ユダの全会衆、祭司とレビ人、イスラエルから来た全会衆、イスラエルの地から来た寄留者でユダに在住している者たちは、みな喜んだ。
すべての民が喜んだことが記されています。
30:26 エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代以来、エルサレムでこのようなことはなかったからである。
その喜びは、彼らが今まで神殿が建設されてからこのように御言葉通りに実行されてこなかったことを実行できたからです。
30:27 レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。
祭司たちは、民を祝福しました。民の祝福は、民がさらに御言葉の内を歩んで、神の御心に適う者となることです。それを神様は聞き届けられました。主に身を捧げた時、主は喜んで答える方であるのです。