歴代誌第二29章
ヒゼキヤに対する評価
29:1 ヒゼキヤは二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビヤといい、ゼカリヤの娘であった。
29:2 彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。
彼は、父祖ダビデと比較されて、ダビデが行った通り主の目に適うことを行ったと評価されています。
行動のはじめ
これは、以下の記述の例証として記されている記事です。
「31:21神の宮の奉仕において、律法において、命令において、彼は神を求め、心を尽くして行い、これを成し遂げた。」
宮の戸を開くこと
29:3 彼はその治世の第一年の第一の月に、主の宮の戸を開いてこれらを修理した。
彼は、治世の最初の月にしたことは、主の宮の戸を開くことでした。彼がしたいと思っていたことの第一は、主に仕えることでした。彼は、父王がしていたことは、誤ったことであることをよく認識していました。そして、国が衰退しているのも、主に従っていないためであることをよく承知していたのです。しかし、王である父が治めている間は、王に従いました。それは、神様が立てた王であるからです。
今日、不適切な行動を取る長老がいたとしても、教会を出たり、分裂させたりしてはいけません。その長老への裁きは、神様に委ね、その人を長老として認めるべです。また、その長老に対する訴えは、確かな証人があれば、受理されるべきです。そして、皆の前で責めることも行われるべきです。
テモテ第一
5:19 長老に対する訴えは、二人か三人の証人がいなければ、受理してはいけません。
5:20 罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。そうすれば、ほかの人たちも恐れを抱くでしょう。
5:21 私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちの前で、あなたに厳かに命じます。これらのことを先入観なしに守り、何事もえこひいきせずに行いなさい。
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罪を犯している者は、長老です。
レビ人に対する呼びかけ
29:4 彼は祭司とレビ人を連れて来て、東側の広場に集め、
29:5 彼らに言った。「レビ人よ、聞きなさい。今、あなたがたは自分自身を聖別しなさい。あなたがたの父祖の神、主の宮を聖別し、聖所から忌まわしいものを取り除きなさい。
29:6 というのも、私たちの先祖は信頼を裏切り、私たちの神、主の目に悪であることを行い、この方を捨て去り、主の御住まいから顔を背けて背を向けたからです。
ヒゼキヤは、次にレビ人に呼びかけました。このレビ人は、祭司も含みます。そのことは、十六節で分かります。祭司が働いています。彼がレビ人に求めたことは、まず、自分自身を聖別することです。これから宮を聖別するのに、自分自身が聖くないことは矛盾しています。その働きにふさわしくないのです。
今日、兄弟の御言葉による奉仕は、教会の聖別のためです。語る者自身が聖別されている必要があります。教えは、言葉だけでなく、模範が必要です。
そして、次に求めたことは、宮を聖別することです。そこには、忌まわしいものすなわち偶像が置かれていました。
偶像は、誤った教えと貪りに関連付けられていますが、そのようなものが教会の中にあってはならないのです。ですから、教会の聖別のために働く者は、肉から聖められていなければなりません。肉欲に支配されているような人であってはならないのです。道徳的にも聖くなければなりません。また、教において健全でなければならないのです。聖書から正しい神の御心を理解している必要があります。そうでなければ、どうして正しい教えをすることができるでしょうか。曖昧な理解、根拠のない教え、人間的な解釈など、厳に戒めなければなりません。正しい教えを確信を持って語ることが必要なのです。そうかも知れませんというような、理解が不足しているようなことは、話すべきではありません。
語ったことについて、その人が責任を負うのです。その覚悟がないと、曖昧な表現を使うことがあるのです。その責任を負うためには、聖書からそれが間違いでないかどうかをよく調べる必要があるのです。そのうえで初めて語ることができのです。語ること自体が大切な務めではなく、語ることが神の目に適った正しいことであることが重要なのです。単に語ることに満足してはならないです。
宮については、「父祖の神、主の宮」と記されています。イスラエルは、先祖との契約で神の民とされたのです。その方は、従うべき支配者であり、契約の履行者です。それを聖別することは、その方にふさわしい状態にすることです。
教会は、人のための集まりではありません。神、主のためのものです。「神の教会」と言われています。その方にふさわしく、神の目に適う状態にしなければならないのです。
そして、宮をこのような状態にした先祖の悪について指摘し、そこからの回復のためであることを伝えました。まず、先祖は、「信頼を裏切った」ことです。神様は、ご自分の栄光を現す者としてイスラエルを選ばれていたのです。しかし、彼らは、裏切りました。
私たちは、この地上にあって、神の栄光を現すものとされています。神様は、そのことを期待しています。自分は、全然そんな者ではありませんと言うことは、神様を失望させることになります。
神の民が裏切ることは、ひどく悪いことです。神の栄光を地に落とし、評判をひどく傷つけるものになります。
裏切ったことは、主の目に悪であることを行ったということです。
そして、「主」を捨て去りました。永遠の存在者であり、契約の祝福をもたらす方である主を捨てたのです。
そして、主が住まい、臨在されるとされた宮に背を向けたのです。主の臨在ほど偉大なことはありません。偉大な祝福なのです。主は、そこにおられるかのように祈りに耳を傾け、それに応え、栄光を表してくださるのです。それなのに、背を向けました。
教会において、人間的な考えや行動が支配する時、聖霊は働くことができなくなります。主の目に適うことがないからです。そこでは、主の臨在を覚えることができなくなります。主がお働きにならないならば、主の栄光を見ることはできません。
29:7 また、彼らは玄関の戸を閉じ、ともしびを消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のささげ物を献げることをしなかったのです。
御住まいに背を向けた具体的な事実が述べられています。玄関の戸を閉じたことです。宮に誰も入れないようにしました。
これは、今日、人々を神様に近づけさせないことを表しています。神様への奉仕も、礼拝も妨げるのです。健全な兄弟を追い出すことさえします。兄弟姉妹が、喜んで神様に仕えることができないようにしてしまうのです。
灯火を消しました。絶えず灯しておかなければならないと言われた火なのです。この灯火は、幕屋では、イエス様の栄光を表していますが、神殿では、主イエス様の栄光の現れとしての教会の証しを表しています。それを全く損なうのです。愛し合うことも一致もないのです。神の言葉に従う行動もないのです。灯火が消された状態です。
イスラエルの神に香を炊きませんでした。彼らが従うべき神に、主イエス様の栄光を捧げることをしなかったのです。主イエス様は、教会を通して働かれます。そして、栄光を現し、主イエス様の御名が褒め称えられ、父なる神様に栄光が着せられるのです。全てを計画しておられるのは父であるからです。一切の栄光は、神に帰せられるべきなのです。しかし、人の肉がはびこる時、その栄光は、神にではなく、人間に帰せられることになります。
全焼のいけにえが捧げられることもありませんでした。全焼のいけにえは、捧げる人にとっては、自ら進んで捧げるものであり、神に受け入れられるように捧げるものです。そのように、自分を捧げる者はなかったことを表しています。いけにえ自体は、主イエス様を表していて、主イエス様が神様に完全に受け入れられたことを表し、神様に栄光を帰したことを表しています。それと同じように受け入れられるのです。主イエス様のゆえに。
それが、捧げられないことは、人が自分自身を神様に捧げてないことを表しています。そのようにさせたのです。人々を誘惑し、自分の肉のままに歩むようにさせたのです。人々は、神に自分を捧げようとはしません。肉に走り、偶像に走ることになるのです。
29:8 そこで、主の御怒りがユダとエルサレムの上に下り、あなたがたが自分の目で見るとおり、主は彼らをおののきのもと、恐怖のもと、また嘲りの的とされました。
そして、主を捨てた結果もたらされたものについて示し、このような状態からの回復のために、このことを成し遂げることを命じた理由として示しました。それは、主の裁きをもたらし、それを見た人がおののき、恐怖を覚えるような裁きとなったのです。また、敵にとっては、嘲りの的となりました。神の民が躓き、裁かれることは、悪魔と世の人の嘲りの的なのです。
29:9 見なさい。このため私たちの先祖は剣に倒れ、私たちの息子たち、娘たち、妻たちは、捕虜になっています。
おののき、恐怖、嘲りの的とは、先祖が剣に倒れ、息子、娘、また妻たちが捕虜となったことです。神の民が神様によって捨てられたのです。
29:10 今、私の願いは、イスラエルの神、主と契約を結ぶことです。そうすれば、主の燃える怒りが私たちから離れるでしょう。
ヒゼキヤの願いとして、イスラエネ神、主と契約を結ぶように言いました。それによって主の怒りが離れるからです。
彼らは、既に契約の民でした。ここで、契約を改めて結ぶのは、契約を反故にしたからです。今、この時代の人が、主の律法を守ることを契約として結ぶことです。先祖と結ばれた契約を持っているということだけでなく、彼ら自身がその契約を守る者でなければならないのです。ですから、改めて彼ら自身と契約を結ぶことで、主に従うことを明確にしたのです。
私たちは、神の言葉を信じたのです。そして、イエス様を主と告白したのです。主に従う者であることを表明したのです。私たちは、そのことをもう一度思い起こして、主に従う者としての歩みをすべきです。
29:11 子たちよ、今、手をこまねいていてはなりません。主はあなたがたを選んでご自分の前に立って仕えさせ、ご自分に奉仕する者、香をたく者とされたからです。」
そして、すぐに行動することを求めました。彼らは、特別に選ばれた者たちであり、宮に関する役割を担う者とされ、神に仕える幸いな者とされているのです。その高い立場を覚えて、行動するように求めました。
私たちは、今、主の目に適うように行動を起こすべなのです。自分自身がどのような状態にあるかについて気付かない人は、現状維持ということになります。しかし、私たちがイエス様と同じものになるという標準に達しようと願う者は、行動を起こします。それは、今なのです。私たちは、特別に選ばれて、神に仕え、神に栄光を帰すことのできる立場が与えられているのです。
レビ人の行動
29:12 そこで、レビ人は立ち上がった。ケハテの子孫からはアマサイの子マハテとアザルヤの子ヨエル、メラリの子孫からはアブディの子キシュとエハレルエルの子アザルヤ、ゲルションの子孫からはジンマの子ヨアフとヨアフの子エデン、
29:13 エリツァファンの子孫からはシムリとエイエル、アサフの子孫からはゼカリヤとマタンヤ、
29:14 ヘマンの子孫からはエヒエルとシムイ、エドトンの子孫からはシェマヤとウジエルであった。
レビ人は、「立ち上がった」のです。その幸いな人について、わざわざ記されています。それは、神の前に価値ある尊い人たちであるからです。
29:15 こうして、彼らは自分の兄弟たちを集め、身を聖別して、主のことばによる王の命令のとおりに、主の宮をきよめに来た。
レビ人がしたことは、まず、同じ立場にある兄弟たちを集めたことです。彼らは、身を聖別しました。そして、宮を聖めました。それは、王の命令によることですが、主の言葉によると記されています。王の命令は、主の言葉に適った命令でした。ヒゼキヤは、主の言葉をよく理解していたことが分かります。
29:16 祭司たちは主の宮の内側に入って、これをきよめた。彼らが、主の神殿にあった汚れたものをみな主の宮の庭に出すと、レビ人が受け取って、外のキデロンの谷へ持って行った。
祭司たちは、主の宮の内側に入りました。それができるのは祭司だけです。彼らは、そこで仕える者として、そこでの責任を負ったのです。それができる立場にある者がそれをしたのです。また、身を聖別した祭司だけがそれをすることができました。
そこには、汚れたものがありました。それをみな運び出したのです。それをレビ人は、キデロンの谷に持って行きました。
29:17 彼らは第一の月の一日に聖別し始めた。その月の八日に主の玄関に入り、八日間にわたって主の宮を聖別し、第一の月の十六日に終えた。
29:18 そこで、彼らは中に入り、ヒゼキヤ王のところに行って言った。「私たちは主の宮をすべてきよめました。全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、並べ供えるパンの机とそのすべての備品をきよめました。
29:19 また、アハズ王がその治世に主を裏切って取り除いたすべての用具を整えて、聖別しました。ご覧ください。それらは主の祭壇の前にあります。」
祭司たちは、聖めた結果をヒゼキヤ王に報告しました。それらが聖められたことを示すために、祭壇の前に置かれました。王は、宮に入れないからです。
主に対する礼拝 いけにえ
29:20 ヒゼキヤ王は朝早く、この町の長たちを集めて、主の宮に上って行った。
29:21 彼らは、王国と聖所とユダのために、罪のきよめのささげ物として、雄牛七頭、雄羊七匹、子羊七匹、雄やぎ七匹を引いて来た。王は、祭司であるアロンの子らに命じて、主の祭壇の上でささげ物を献げさせた。
29:22 彼らは牛を屠り、祭司たちがその血を受け取って祭壇に振りかけた。次に雄羊を屠り、その血を祭壇に振りかけた。次に子羊を屠り、その血を祭壇に振りかけた。
彼らは、王国と、聖所と、ユダのためにいけにえとなる動物を携えてきました。それらは、「罪のきよめの捧げ物」と記されています。この罪のきよめのための捧げ物は、次節の表現と同じです。しかし、捧げ物の構成としては、全焼の捧げ物と、罪のための捧げ物に分けられます。ここで、彼らが主に従って来なかった罪についての捧げ物という意味で罪のための捧げ物なのです。特定の犯罪行為ではなく、もっと高度な、彼ら自身を神に捧げていないということを問題としていたのです。
まず、全焼のいけにえが捧げられました。それは、牛、雄羊、そして子羊です。それらは、主イエス様を表していて、牛は、神の僕としての主イエス様を表しています。また、羊は、牧者なる神に従順に従われた人としてのイエス様を表しています。また、子羊は、神の御子としてのイエス様を表しています。人となられて、御心を行われることで、独り子の御子の栄光を現されました。そのイエス様のように、自分たちも神の目に適う者として自分を捧げることを表しています。
その血は、祭壇に「ふりかけた」と記されています。レビ記一章五節に記されている語と同じ語で、第2版では、「注ぎかける」と訳されています。原語の意味は、あちこち撒く様子です。血を披露するために、祭壇に振りかけられるのです。
その数は、七で、満たす意味での完全を表しています。彼らは、神の前に全き物であることを求めたのです。しかし、神の完全さに達し得ない弱さも承知していました。それで、十分な意味を表す七頭を捧げました。
29:23 それから、彼らは王および会衆の前に、罪のきよめのささげ物とする雄やぎを引いて来て、それらの上に自分たちの手を置いた。
29:24 祭司たちはこれらを屠り、その血を祭壇に献げて、罪のきよめのささげ物とし、全イスラエルのために宥めを行った。全焼のささげ物と罪のきよめのささげ物を、王が全イスラエルのために命じたからである。
次に、罪のためのいけにえが捧げられました。これは、彼らが犯してきた罪の聖めのための捧げものです。
その血は、祭壇に献げたとありますが、原語には、動詞はなく、「祭壇へ」とだけ記されています。罪のための捧げ物の血ですから、祭壇の土台に注がれたのです。
数が七頭であることは、特異で、通常は一頭です。しかし、満たす意味での完全を表す七になっていて、彼らの主の前に罪から完全にきよめられることを求めました。
楽器による演奏と歌
29:25 また、王はレビ人を主の宮に配置し、ダビデおよび王の先見者ガド、預言者ナタンの命令のとおりに、シンバルと琴と竪琴を持たせた。この命令は主から出たものであり、その預言者たちを通して与えられたものだからである。
また、レビ人に楽器を持たせました。その根拠について、ダビデ、預言者ガド及び預言者ナタンによることが示されています。楽器はダビデ一人の発案ではなく、彼が預言者をとおして神から示されたことが分かります。このように、根拠が示されているのは、神の御心に適って行動したことを示すためです。
29:26 こうして、レビ人はダビデの楽器を手にし、祭司はラッパを手にして立った。
ダビデの楽器は、ダビデと預言者の命令によります。祭司のラッパは、モーセが神から示された命令に基づきます。それは、捧げ物が主に受け入れられるためです。
29:27 そこでヒゼキヤは、全焼のささげ物を祭壇で献げるように命じた。全焼のささげ物が献げ始められると、イスラエルの王ダビデの楽器に合わせて、主の歌とラッパが始まった。
29:28 全会衆は伏し拝み、歌い手は歌い、ラッパ奏者はラッパを吹き鳴らした。このすべては、全焼のささげ物が終わるまで続いた。
捧げ物は、神の命令のとおりに捧げられ、民は、主を伏し拝みました。神様に栄光を帰したのです。
29:29 献げ終えると、王および彼とともにいたすべての者は、膝をかがめて伏し拝んだ。
そして、王を始め、全ての者が伏し拝んだのです。王も礼拝者の一人でした。そのようにして、主こそ主権者であることを全ての者の礼拝をとおして現したのです。
レビ人の詩篇による賛美
29:30 ヒゼキヤ王と高官たちが、ダビデおよび先見者アサフのことばをもって主を賛美するようにレビ人に命じると、彼らは喜びつつ賛美した。そして、一同はひざまずいて伏し拝んだ。
そして、次に、詩篇の言葉によって、賛美が捧げられました。彼らの思いではなく、主によって与えられた言葉をもって賛美したのです。
今日、私たちは、主によって示されている聖書の言葉によって賛美することは幸いです。聖書の言葉そのものも幸いですが、そこに示されている神様の御心を正しく理解し、神様が示している通りのことを賛美をもって捧げるのです。時として、人間的な解釈が入り、主イエス様のことを正しく表現していないことがあるのです。御言葉を正しく理解することは大切なことです。
また、その人の霊的な理解を超えて、主イエス様のことが言い表されることはありません。主イエス様のことを知る程度に応じて、その賛美は、変わるのです。自分が理解し得ないことを語ることはできないのです。
主の言葉による賛美は、主から出たことですから、みな主の栄光の尊さを覚えることができます。一同は、ひざまずいて伏し拝んだのです。その栄光の偉大さを覚えたからです。
会衆による感謝の捧げ物
29:31 そのとき、ヒゼキヤは言った。「今、あなたがたは主に身を献げました。近づいて、感謝のささげ物を主の宮に携えて来なさい。」会衆は感謝のささげ物を携えて来た。また、心から進んで献げる者はみな、全焼のささげ物を携えて来た。
これら一連の、捧げ物から始まり、ひれ伏して拝むことまでのことは、彼らが身を捧げたことの証しです。ヒゼキヤは、彼らの態度を見て、そのことを言い表しています。
その上で求めたことは、感謝のいけにえを捧げることです。その捧げ物は、彼らが本当に自分の身を捧げていなかったら、意味のない捧げものです。また、喜んでそれを捧げることはできないのです。形だけ捧げることはできても、心は伴わないし、神が喜んで受け入れる捧げ物になならないのです。そのように、彼らは、和解のいけにえの中で感謝のために捧げる捧げ物を捧げたのです。
彼らが感謝することは、主を崇め、心から主を喜んだことの現れです。
ローマ
5:10 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
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御子のいのちによってとは、御子のよみがえりと同じように肉に死んで新しく生まれた者として生きるように働く御子の働きです。その命に歩ましてくださるので、救いをいただくのです。すでに救いの立場を得ている者について記しており、御国において報いを受けることを言っています。
彼らは、主に身を捧げることができることを感謝したのです。主に身を捧げた者として、彼らは進んでそれができるようになっていたのです。
29:32 会衆が携えて来た全焼のささげ物の数は、牛七十頭、雄羊百匹、子羊二百匹であり、これらはみな、主への全焼のささげ物であった。
会衆の捧げ物の数が記されています。七十は、七の十倍数です。七は、牛が現しているようにしもべとして従うことが完全であることを表しています。十は、到達点で、完全さを現します。その果たすべき責任を完全に果たすことが表されています。ですから、七十と示されていることで、彼らは、神の僕として完全に服従することをその数によって表しています。
雄羊は、百匹です。百は、聖別を表しています。羊は、人としての姿をとられて歩まれ、神の御心に従われた主イエス様を表していますが、それと同じように、神の御言葉によって聖められて、この世とは分離したものとして歩むことがその数によって表されています。
子羊は、二百頭です。子羊は、独り子の御子としてのイエス様の栄光を表しています。その数は二百で、御言葉によって自分を聖めることすなわち、御言葉を行うことによって、神としての栄光を現すことです。イエス様の独り子の神としての栄光は、恵みとまことによって現されましたが、恵みは、一方的な贈り物というような意味ではなく、示されたことに対して従うことで頂く祝福を表しています。それがいのちなのです。イエス様は、父から示された御心をことごとく行われました。嘘偽りなく、これを実現し、神の独り子の御子の栄光を現されたのです。二は、証し、百は、聖別です。それと同じように、神の言葉に従い生きることで、イスラエルの会衆が、彼らが聖別されたことを証しすることで、神御自身を現す者となることがその捧げ物と数によって表されています。
29:33 また、聖なるささげ物は、牛六百頭、羊三千匹であった。
聖なる捧げ物は、神様のために神に捧げた物という意味です。いけにえとして捧げられ物以外の物です。これは、神のものとされるものです。具体的には、レビ人に与えられます。牛は、神の僕を表しています。その数六百は、六によって表される人が百によって表される聖別されることを表しています。肉を持つ人としての自分を神の僕として捧げ、肉にはよらず神の言葉に従って生きるという聖別が表明されています。
羊は、人としてのイエス様を表しています。その数は、千が三つです。千は、牛の頭を意味し、しもべを表します。三は、神の完全さが表されています。イエス様は、しもべして、神の御心を行って完全であることが表されています。それと同じように完全な者となることを表明しています。
29:34 ただ、祭司たちが少なかったので、すべての全焼のささげ物の皮を剥ぎ尽くすことができなかった。そこで、彼らの兄弟に当たるレビ人が、その役目を終えるまで、またほかの祭司たちが身を聖別するまで助けた。レビ人は、祭司たちよりも直ぐな心をもって、身を聖別したのである。
祭司たちが少ないことで、いけにえの皮をはぎ尽くすことができなかったという残念なことが起こりました。それは、祭司たちの中に身を聖別していない者がいたからです。彼らは、レビ人と比較されていますが、直ぐな心が弱かったことが指摘されています。彼らは、主の近くに仕えることができる立場が与えられていながら、それを喜びとし、自らを捧げようという心が少なかったのです。
今日、主を知り、主に近づくことができることは、信者の特権です。それを喜びとし、自らを捧げる方は、非常に幸いです。その与えられた特権を十分に果たそうと思うのです。主を覚えることも、御言葉を伝えることも選ばれた者の特権です。
29:35 また、多くの全焼のささげ物、その全焼のささげ物に添える交わりのいけにえの脂肪、注ぎのぶどう酒もあった。こうして主の宮の奉仕の用意ができた。
和解のいけにえの脂肪は、聖霊の比喩です。それは、神様の食物です。すなわち、聖霊によって御心が行われることを神様の喜びとされるのです。イエス様も聖霊によって歩まれ、聖霊によってすべての業を実現されました。同様に、主に自分を献げた民は、聖霊によって歩む者とされているのです。これは、私たちの日常の経験であるべきです。
注ぎのぶどう酒は、自分を捨てることを表しています。それは、イエス様が十字架に命を捨てたことを表しています。そのように、自分の身を献げた者は、自分を捨てるのです。自分の命を保とうとする者は、それを失うのです。
マタイ
16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
16:22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
ペテロにとって主が苦しみの会うことは、起こるはずのないことです。彼の肉からは、起こってほしくないことであったのです。「とんでもないことです。」→「主のあわれみがあなたにありますように。」とは、「神の目に適っている者に対する契約による祝福がありますように。」という意味です。神の御心は、主が苦しみの会うことではなく、他のところにあるはずだと言っているのです。
16:23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
ペテロは、イエス様の苦難は神の御心でないと言い、イエス様を神様の御心を行うことから逸らせようとしたのです。しかし、それは、人のことを中心に考える考えでした。苦しみに遭うことは神の御心でないという考えです。そのような考えは、神の御心の実現ということを考えてのものではありません。
16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
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その上で話されさたことは、イエス様について行きたい者は、自分を捨てなければならないということです。自分中心の、自分を満たし喜ばすことを第一とする考えを捨てることです。それは、肉を満たすことであるのです。それが、自分の命を救うことです。それを捨てるように言われたのです。自分の十字架を負うというのは、自分の命を捨てることです。そのような歩みに対して、主は報いてくださることを語られました。これがまことの命であり、御国で受ける永遠の栄光です。
そのようにして初めて、主の宮での奉仕の用意が整うのです。いけにえの順とは逆ですが、まず、自分を捨て、次に、聖霊によって歩み、全てを捧げるのでなければ、主に仕えることはできないのです。
29:36 ヒゼキヤとすべての民は、神が民のために備えてくださったことを喜んだ。このことが突然のことだったからである。
ヒゼキヤと全ての民は、多くの捧げ物を喜びました。今まで行われていなかったのに、驚くほどたくさん用意されたのです。それは、突然のことでした。それを神様が備えてくださったと知りました。そのことを喜んだのです。