歴代誌第二24章

24:1 ヨアシュは七歳で王となり、エルサレムで四十年間、王であった。彼の母の名はツィブヤといい、ベエル・シェバ出身であった。

24:2 ヨアシュは、祭司エホヤダが生きている間は、主の目にかなうことを行った。

 ヨアシュは、主の目に適うことを行いました。しかし、それは、エホヤだが生きている間だけでした。

24:3 エホヤダは彼に二人の妻を迎えさせた。息子たちと娘たちが彼に生まれた。

 エホヤダは、ヨアシュに二人の妻を迎えさせました。絶えようとしている王の子を残さなければならないという思いから出たことと考えられます。旧約時代には許されたことですが、イエス様が説明されたように、神様が計画された正しい夫婦の形ではありません。

 しかし、この結婚は、比喩になっています。ヨアシュは、宮から出てきて、王宮に入った者して、キリストの雛形です。そして、キリストの花嫁の比喩がここに記されています。キリストの妻は、二人です。一人は、新約の契約に基づく集会です。もうひとりは、旧約の契約に基づくイスラエルです。その事は、アブラハムの二人の妻についての比喩から知ることができます。

ガラテヤ

4:24 ここには比喩的な意味があります。この女たちは二つの契約を表しています。一方はシナイ山から出ていて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。

4:25 このハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっているからです。

4:26 しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。

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 この二つの契約による二者は、黙示録では、キリストの花嫁として紹介されています。

黙示録

21:9 また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」

21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。

21:11 都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。

21:12 都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。

21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。

21:14 都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。

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 都の門は、十二部族に基づくものです。そして、城壁の十二の土台石は、十二使徒に基づくものです。

 門は、支配を表していて、この都は、イスラエルが支配することを表しています。そして、都の外の支配もします。この都は、アブラハムが望んでいたものであり、イスラエルに対する契約に基づくものなのです。新約の信者が特別なのではなく、イスラエルに対する契約に与ったのです。ただし、それは、新しい契約として立てられます。

 そして、土台石は、教えを表しています。都は、新約の教えに基づくものなのです。旧約時代に比喩として示されてきたものは、明らかにされ、そして、使徒に啓示された教えがあります。新約によって明らかにされた教えによって築かれているのです。城壁は、境界を表しいます。都の中は、この教理によって築かれていることを表しています。

24:4 その後のことであった。ヨアシュは主の宮を新しくすることを志し、

24:5 祭司とレビ人を集めて、彼らに言った。「ユダの町々へ出て行き、あなたがたの神の宮を毎年修繕するために、全イスラエルから金を集めて来なさい。あなたがたは急いでそのことをしなければならない。」ところが、レビ人は急がなかった。

 ヨアシュは、宮の再建を志しました。しかし、それを委ねたレビ人は、急いでそのことをするように命じられたのに、急ぎませんでした。

 これは、イエス様が宮である集会を聖めて聖なるものとしようとする働きを表しています。しかし、そこで働く奉仕者レビ人によって表されている今日の信者も、また、主の目に怠慢であるかもしれません。

24:6 そこで王は、かしらであるエホヤダを呼んで、彼に言った。「なぜあなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの会衆があかしの天幕のために定めた税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。」

24:7 それは、悪女アタルヤとその子らが、神の宮に押し入り、主の宮の聖なるものをすべてバアルの神々のために用いていたからである。

 そして、ヨアシュは、このことに関しては、頭であるエホヤダに問いただしました。この時、ヨアシュは、神殿の修復に対して非常に熱心であったのです。

 神殿の聖なるものは、アタルヤがバアルのために用いるために全て持って行ったのです。

 これは、アタルヤによって表されている悪魔の働きを表しています。この聖なるものは、神様に捧げられたキリストの栄光を現す信者のことを表しています。しかし、悪魔の働きによって、偶像に仕えるものにされてしまったのです。

24:8 王が命令すると、人々は一つの箱を作り、それを主の宮の門の外側に置いた。

24:9 彼らは、神のしもべモーセが荒野でイスラエルに定めた税金を主のもとに持って来るように、ユダとエルサレムに布告した。

24:10 すべての首長たちとすべての民は喜んでそれを持って来て、あふれるまで箱に投げ入れた。

 レビ人による徴収を止め、自ら捧げるために持って来るようにしたところ、首長たちと全ての民は、喜んでそれを持って来ました。そして、あふれるまでなったのです。

 神様は、嫌々ながら働く奉仕者を用いませんでした。すべての民は、喜んでそれをしたのです。自ら捧げました。

24:11 その箱がレビ人によって王の役所に運ばれるたびに、多くの金額があることが確認されると、王の書記と祭司のかしらに仕える管理人が来て箱を空にした。そして、それを持って行って元の場所に戻した。彼らは毎日このように行い、多くの献金を集めた。

 そこには、多くのお金がありました。その金は、適切に管理され、毎日多くの献金が集められました。

 誰がいくら入れたかはわからないのです。彼らは、主のために喜んで捧げました。その結果が多くの献金となったのです。

24:12 王とエホヤダは、これを主の宮の奉仕の働きをする者に渡した。彼らは、主の宮を新しくするために石切り工と大工を雇い、さらに、主の宮を修繕するために鉄と青銅の職人を雇った。

24:13 仕事をする者は仕事をし、彼らの手によって修復作業が進んだ。彼らは、神の宮を元のとおりに建て、これを補強した。

 その金は、宮の修繕のために使われました。職人が雇われ、仕事をする者は、仕事をしました。そのお金は、適切に使われたのです。

 神の宮は、もとのとおりに建てられ、さらに補強されました。

 それぞれがその働きを果たすことで、主の業が完成されるのです。

24:14 工事が終わると、彼らは残った金を王とエホヤダの前に持って来た。その金で、主の宮の用具、すなわち、儀式や全焼のささげ物の用具、深皿、金銀の器が作られた。エホヤダが生きている間、主の宮では絶えず全焼のささげ物が献げられた。

 さらに、残った金で、宮の器が作られました。そして、主の宮では、絶えず全焼にいけにえが捧げられました。神様に対する奉仕が完全に回復したのです。

24:15 エホヤダは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。死んだとき、彼は百三十歳であった。

 百三十は、百と三の十倍数です。百は、聖別を表し、三は、欠けのない完全さ、十は、到達点に達することでの完全さを表しています。聖別され、欠けのない完全さに到達とことを表してます。彼は、人として神の御心に適う歩みを全うしたことを表しています。

24:16 彼はダビデの町に王たちとともに葬られた。彼がイスラエルにおいて、神とその宮に対して良いことを行ったからである。

 祭司エホヤダは、王たちとともに葬られました。非常に高い誉れが与えられたのです。それは、神とその宮に対して良いことを行ったからです。神様を尊ぶ者は尊ばれます。

24:17 エホヤダの死後、ユダの首長たちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。

 エホヤダの死後、ユダの首長たちは、王を誘惑しました。彼らは、王を伏し拝んだのです。

 このようにへつらう態度は、その人に対する尊敬からではなく、取り入ろうとする悪から出ているのです。また、首長たちには、エホヤダのように、神を恐れ、喜んで神に仕える心は、一切なかったのです。かつて彼らは、宮のために献金したのです。それは偽善でした。後に、裁きとしてすべての民の指導者が滅ぼされます。ですから、すべての首長が加担したと考えられます。

24:18 彼らは父祖の神、主の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えた。彼らのこの罪過のゆえに、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。

 彼らは、主の宮を捨てたのです。アシェラと偶像に仕えました。彼らは、今までしてきた良いことをを全く捨てたのです。

24:19 彼らを主に立ち返らせるため、預言者たちが彼らの中に遣わされた。預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった。

 さらに、主は預言者を遣わされましたが、耳を傾けませんでした。二十七節には、「多くの預言」と書いてあります。彼は、それを聞いたにも関わらず変わりませんでした。

24:20 神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤをおおった。彼は民よりも高いところに立って、彼らに言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ主の命令を破り、繁栄を逃がすのか。』あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」

 神の霊がゼカリヤを覆いました。覆ったことは、全く支配されたことを表しています。彼自身が主を恐れて歩んでいたからです。その人を神様は用いられました。彼は、聖霊の導きのままに神の言葉を取り次いだのです。王と首長たちとに対立することになりますが、恐れませんでした。

 彼は、神の言葉を告げました。主の命令を破ることは、彼ら自身にとって損失です。なぜならば、繁栄を逃すからです。

 私たち自身もこのことをよく覚えることは幸いです。私たちは、自分の思いを成し遂げて、自分の思いのままに生きることが幸いだと考えるのです。肉に従い、自分の目に従った行き方を求めるのです。しかし、それは、繁栄を逃す道なのです。私たちは、多くのものを失うのです。

 彼らが主を捨てたので、主も彼らを捨てたと警告しました。はじめの部分は、神の言葉として語られました。それは、支配者を表しています。そして、後半は、契約の履行者としての主を捨てたので、契約を破棄し、彼らに繁栄を約束していたが、それを取り消す意味で、主という言葉を使っています。

24:21 ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、王の命令によって、主の宮の庭で彼を石で打ち殺した。

 しかし、彼らのしたことは、神の言葉を語った者を殺すことでした。しかも、その命令は王から出され、陰謀を企てて実行されました。

 立ち返る機会があったにもかかわらず、それを聞かないどころか、その言葉を取り次いだ者を殺しました。彼らを責めたのは、神の言葉です。しかし、憎しみは、その言葉を語った者に向けられます。神の言葉が自分に当てはまるのであれば、考えを改めたらよいのです。

 神の言葉は、責め、戒めるためにも語られます。それは、耳障りな、聞きたくない言葉であるのです。そのような時こそ、御言葉を受け入れて考えを改める必要があるのです。

24:22 ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれた誠意を心に留めず、かえってその子を殺した。ゼカリヤは死ぬとき、「主がご覧になって、責任を問われますように」と言った。

 ヨアシュ王は、エホヤダの恩を無にしました。彼の誠意に心を留めなかったのです。ゼカリヤは、主が責任を問われますようにと主に委ねて死にました。死ぬときも立派でした。

24:23 年が改まるころ、アラムの軍勢がヨアシュに向かって攻め上り、ユダとエルサレムに来て、民の中から民の指導者たちをすべて滅ぼした。そして、分捕り物をすべてダマスコの王のもとに送った。

 アラムは、民の指導者たちを全て滅ぼしました。彼らがヨアシュを悪に引き込んだのです。そして、ユダの繁栄を分捕り物として取り去りました。繁栄は、主に従っている時与えられ、彼らが自らそれを捨てるようなことをしたからです。

24:24 アラムの軍勢は少数で来たが、主が非常に大きな軍勢を彼らの手に渡されたのであった。それは、人々が、その父祖の神、主を捨てたからである。こうして、ヨアシュにさばきが下された。

 ユダの大群が少人数のアラムに敗北したことは、主から出たことで、彼らが主を捨てたので、主は彼らを捨てられたのです。

24:25 軍勢が、重傷を負ったヨアシュを捨てて離れて行ったとき、彼の家来たちは、祭司エホヤダの息子たちの血のゆえに謀反を企て、寝台の上で彼を殺した。彼は死んで、人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には葬らなかった。

 ヨアシュは、重傷を負いました。その時、彼の家来たちは、ヨアシュを殺しました。その動機は、エホヤダの子たちの血のためです。彼らは、無抵抗な怪我人を殺しました。ここでは、子たちと記されていて、複数の者が死んだことを表しています。

 また、王に対する人々の評価は、非常に低く、王たちの墓には葬りませんでした。エホヤダが王の墓に収められたことと対照をなすものです。

24:26 彼に謀反を企てたのは次の者たちである。アンモン人の女シムアテの子ザバデ、モアブ人の女シムリテの子エホザバデ。

 しかし、王を殺すことは、してはならないことです。彼は、神に選ばれた者であり、神の主権を犯すことになります。心情的には、善良なエホヤダの子たちの血に報いることは理解できますが、してはならないことであるのです。肉の判断によって行動してはならないのです。

 それを実行した人々の名が記されていますが、アモン人とモアブ人の血を引く者たちであり、彼らは、肉を現す人の比喩になっています。彼らの判断は、肉によるのです。神の真理をわきまえて行動しなければならないのです。

24:27 ヨアシュの子たちのこと、彼について語られた多くの預言のこと、神の宮の修復のことは、『王の書の注解』にまさしく記されている。彼の子アマツヤが代わって王となった。

 ヨアシュには、多くの預言が語られました。しかし、耳を傾けなかったのです。彼は、神の宮の修繕を志し行った人であるのに、神に捨てられたのです。誠実な歩みをしていた人が、突然変わるのです。悪魔は巧妙です。首長の思いを遂げさせるように働いたのです。ヨアシュは、自分が高く持ち上げられた時に、肉が働き、霊的な判断を見失ったのです。彼自身がいつでも主を恐れているならば、こうも簡単に躓き、堕落することはないのです。彼は、エホヤダに指導されている間は、よい振る舞いをしましたが、自分と主との関係を堅く築くことができていなかったのです。

 教会に熱心な指導者がいるときには、その指導者に従って行動し、よい振る舞いが見えても、その人自身が主の前に堅い歩みを築いていないと、指導者がいないときには、簡単に躓いてしまいます。それは、その人の行動が、主を恐れてのものではなく、指導者を恐れての歩みである場合が多いのです。