創世記49章
49:1 ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は、終わりの日におまえたちに起こることを告げよう。
ヤコブは、息子たちを呼び寄せ、終わりの日に起こることを告げました。終わりの日とは、ユダへの祝福から、主イエス様が来られるときであることが分かります。ただし、それまでの全期間を含んでいます。
49:2 ヤコブの子どもたちよ、集まって聞け。おまえたちの父イスラエルに聞け。
彼は、父として語りましたが、イスラエルを名乗りました。イスラエルは、神が事をなさることを表す名です。これから告げることは、神からのものであることを示したのです。
49:3 ルベンよ、おまえはわが長子。わが力、わが活力の初穂。威厳と力強さでまさる者。
ルペンは、長子です。長子がどのような者であるかをはじめに示しました。それは、父の力の現れ、活力の初穂です。威厳と力強さで優る者であるのです。その威厳は、長子であるので与えられています。
・「活力」→活力。
49:4 だが、おまえは水のように奔放で、おまえはほかの者にまさることはない。おまえは父の床に上り、そのとき、それを汚した。──彼は私の寝床に上ったのだ。
しかし、ルペンは、他の者に勝るものではないのです。なぜならば、彼は、水のように奔放であるからであり、その奔放さによって父の床を汚しました。
ルペンは、長子として受けるべき栄誉を失いました。自分の欲望のままに生きる奔放さがその結果を招いたのです。これは、警告になっています。
49:5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の武器。
これは、シメオンとレビがシェケムを襲ったことを受けてのことです。彼らのしたことは、暴虐だと言いました。彼らのしたことは、妹の受けたことに対する復讐でした。それは、正当化されない悪です。
49:6 わがたましいよ、彼らの密議に加わるな。わが栄光よ、彼らの集いに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、思いのままに牛の足の筋を切った。
「わがたましい」と言いうことで、彼の霊的歩みについて取り上げ、自分は、そのような悪を図る密議には加わらないと表明しました。わが栄光と言い表し、そのような悪に加担すれば、栄光を受けることができないので、連なることがないことを表明しました。
彼らのしたことは、怒りに任せて人を殺したことです。妹の受けた仕打ちに対して、過度な仕返しです。彼らをそうさせたのは、怒りです。正しい判断に基づくものではないのです。牛の足の筋を切ることで、食べ物を食べることができず、牛は死にます。意味のない殺戮なのです。
・「思いのままに」→願いのままに。
49:7 のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは。私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう。
イスラエルは、その激しい怒りを呪いました。イスラエルの中にそのような怒りがあってはならないのです。彼らへの呪いの結果、彼らは、ヤコブの中で引き裂き、散らされるのです。彼らが明確な相続地を持たないのは、彼らの怒りに対する呪いのためであり、これも、後の子孫のための教訓になるのです。
私たちが、激しい怒りによって事をなすことがあってはならないのです。
49:8 ユダよ、兄弟たちはおまえをたたえる。おまえの手は敵の首の上にあり、おまえの父の子らはおまえを伏し拝む。
ユダは兄弟たちによってたたえられます。それは、彼が敵を押さえつけるからです。そして、父の子たちは、彼を伏し拝みます。
49:9 ユダは獅子の子。わが子よ、おまえは獲物によって成長する。雄獅子のように、雌獅子のように、うずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こせるだろうか。
ユダは、獅子が獲物によって成長するように、彼は、獲物によって成長します。それは、ダビデの時代に実現し、彼は、周辺の国々を打ち、大いなる者となりますが、それは、ユダの家を大きくするものです。彼に敵対し、彼を起こすことができる者はいないまでになります。
49:10 王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。ついには彼がシロに来て、諸国の民は彼に従う。
→「シロが来るまで、杖は、ユダを離れず、王権は、その足の間を離れない。諸国の民は、彼(シロ)に従う。」
そのことは、この節で、ユダに王権が与えられることからも分かります。ユダから王権は離れません。王笏は、王の権威を表します。「王権」と訳されている言葉は、「杖」です。その杖の説明が、「王笏」と訳されている言葉であり、王権のことです。その王権を表す杖は、その足の間を離れることはありません。
シロは、地名として聖書に記されていますが、ここでは、地名ではなく、ユダの王権を持つシロが来られることを表しています。イエス様が来られた時、「ダビデの子」として来られたのであり、ユタが王権は失われていませんでした。
主が王として立つとき、諸国の民は従うのです。
・「王権」→杖。
・「王笏」→王権。
・「シロ」→「それは彼のものという方」「彼に属するもの」。すべてのものの所有権を主張できる方すなわち主。
49:11 彼は自分のろばをぶどうの木に、雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で、衣服をぶどうの汁で洗う。
49:12 目はぶどう酒よりも色濃く、歯は乳よりも白い。
目は、信仰の比喩。ぶどう酒よりも色濃いことは、ぶどう酒によって表されている自分捨てることが際立っていることを表していて、自分を主張せず、自分を捨てて神の言葉を受け入れることを表しています。
歯は、咀嚼能力を表していて、それが白いことはその健全さを表しています。御言葉をよく受け入れることを表しています。
49:13 ゼブルンは海辺に、船の着く岸辺に住む。その境はシドンにまで至る。
セブルンの相続地は、内陸部で、海辺のシドンとは、境界を接することはありません。相続地が変更されることは考えづらいことです。ですから、これは、相続地のことではありません。
これは、ゼブルンが船で交易することを表していて、海辺の町シドンと交易をすることを表しています。船が着く岸辺は、キション川河口の入江です。
霊的比喩として、海は、神に従わない勢力を表しています。異邦人が適用されることもあります。シドンは、相続地から外れた異邦人の町です。彼は、交易により豊かになりますが、異邦人との接点を持つという危険な活動をすることになります。
・「境」→脇腹。しかし、比喩的にのみ使われる。後ろ。区切り。境界。
49:14 イッサカルは、たくましいろば、二つの鞍袋の間に身を伏せる。
イッサカルの相続地は、イズレエルの谷です。イスラエルの相続地の中でも豊かな穀倉地帯です。それで、彼は、二つの鞍袋を背負います。それは、収穫物です。彼は、たくましいと表現されているように、豊かな収穫を得ます。
49:15 彼は、休息の地が快く、その地が麗しいのを見る。しかし、肩は重荷を負ってたわみ、苦役を強いられる奴隷となる。
その地は、豊かな穀物を産出しますので、彼は、安心して過ごすことができます。それは、休息のようです。
しかし、そのように豊かな地であるので、士師の時代には、ミデアン人に支配を受け、サウロの時代には、ペリシテ人に支配されます。
49:16 ダンは自分の民を、イスラエルの部族の一つとしてさばく。
ダンは、他の部族からは独立した行動をとります。彼らには、独自に立てた祭司がいます。彼らは、偶像礼拝をし、神から離れた独自の道を歩むのです。
彼らが支配した町は、他の町から離れていました。そのために、征服時には、それを容易に成し遂げられました。彼らは、他の町との行き来のない場所に住んだのです。
これは、独りよがりの信仰者の比喩です。正しい教えに従うのでなく、自分たちの考え出した独自の教えに従って行動し、彼らの宗教を作ります。形式的には神の民と似ていますが、彼らは背教者です。神に受け入れられるはずもありません。
49:17 ダンは道の傍らの蛇となれ。通りのわきのまむしとなれ。彼が馬のかかとをかむと、乗り手はうしろに落ちる。
彼は、道で馬のかかとを噛みます。かかとは、押しのけることを意味します。彼を押し除けようとする者に対して、彼は、蛇の毒で対抗するのです。乗り手は、後ろに落ちます。これがダンの戦いのやり方です。彼は、蛇であり、毒をもって打ちます。蛇は悪魔の比喩であり、彼は、悪魔の支配の下にあって行動する者になるのです。なぜならば、彼は、偶像を部族に持ち込み、それに仕える祭司を選び、偶像を神として拝むからです。彼は、相続地に入った初めから神に背き続けます。ダンは、滅びるまで神に背き続けるのです。彼は、馬の乗り手を落とすように、戦いにおいて勝利するでしょうが、彼の業は、悪魔の業です。
49:18 主よ、私はあなたの救いを待ち望む。
ヤコブは、そのようなダンの戦いを覚えた時、自分自身は、主の救いを待ち望むことを表明しました。当然に悪魔の力ではなく、また、肉の力でもなく、主の救いを待ち望むのです。
49:19 ガドについては、襲う者が襲うが、彼は、その者たちのかかとを襲う。
ガドは、襲われますが、彼は、その者たちのかかとを襲います。彼は、その者たちを押しのけるのです。ヤコブの言い表しとは対照的に、彼は、自ら敵対者を押し除けるのです。主の救いを待つのではないのです。
それは、ヤコブのしてきたことです。ヤコブは、「かかと」という意味の名を持ちましたが、この時には、主の救いを待ち望む人に変えられました。
・「かかと」→押しのける。
49:20 アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す。
アシェルは、海岸の平野を所有地として与えられました。彼は、豊かな食物を収穫することができます。それは、王のご馳走になります。
私たちが実を結び、満たされた者になることの比喩です。その実が豊かに結ばれる時、それは、王のご馳走を作り出すように、王である主を満足させるものになります。主の働きは、私たちがキリストと同じ者に変えられ、神の御心を行う者になることです。私たちがそのようにして実を結ぶならば、主は満足されるのです。
49:21 ナフタリは放たれた雌鹿。美しい子鹿を産む。
ナフタリは、雌鹿です。彼女は、自由に高嶺を歩むことができます。美しい言葉を語ります。
・「美しい」→美しい。ここにしか記されていない。
・「子鹿」→言葉。
・「産む」→与える。
49:22 ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの、実を結ぶ若枝。その枝は垣を越える。
ヨセフは、実を結びます。若枝は、成長が期待できます。その枝は、垣を超えます。これは、霊的実を結ぶことと成長の比喩です。
泉のほとりは、聖霊によって実を結び、成長することを表します。
49:23 弓を射る者は激しく彼を攻め、彼を射て苦しめた。
弓を射ることは、内面に対する攻撃です。彼の持つ教えに対する言葉による攻撃です。すべての攻撃は、その人の持つ教えを覆す働きです。人が信仰に堅く立って、神の言葉を握っていれば、何があっても揺るぐことはないのです。
49:24 しかし、彼の弓はいつも固く張られ、彼の腕はすばやい。ヤコブの力強き方の手から、そこから、イスラエルの岩である牧者が出る。
→「彼の矢は、強さのうちに留まり、手の腕は、ヤコブの全能者の手により素早い。そこから、イスラエルの岩が牧する。」
ヨセフの弓は、素早く、強いものです。それは、全能者がそれをさせるからです。この弓は、敵対者が放つ弓に対抗するものです。御言葉で敵対者の放つ教えの元となる敵対者の考えを貫くのです。ヨセフが、教えの惑わしによって屈することはありません。
「そこから」とは、場所の代名詞です。ヨセフのことではありません。また、ヨセフの相続地について語られているわけではありません。「そこ」が指すのは、素早く弓を放つところです。弓は、御言葉の比喩です。この場合、ヨセフは、牧者である全能者の業をなす者として、御言葉により牧者の働きをするのです。その目的は、イスラエルを岩の上に立たせるためです。岩は、揺るぎない足場を表しています。
この点で、ヨセフは、イエス・キリストの比喩です。イスラエルの岩である牧者は、イエス・キリストを表しています。その牧者としての働きが、御言葉を扱う者であることが示されています。
49:25 おまえを助ける、おまえの父の神によって、おまえを祝福する全能者によって、上よりの天の祝福、下に横たわる大水の祝福、乳房と胎の祝福があるように。
そして、ヨセフへの祝福は、上よりの天の祝福です。これは、雨によって地が潤うことです。他の箇所には、神の裁きとして、雨が降らず、飢饉になることが記されています。上の天に対比して下に横たわる水は、地を潤す水です。それらは、豊かな収穫をもたらします。これらは、御言葉による祝福の比喩です。
申命記
28:15 しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
28:23 あなたの頭上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。
28:24 主はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。
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乳房は、生まれたばかりの幼子に与えられ、霊的成長を促す御言葉の比喩です。
胎は、新しく生まれる子の宿るところで、新しく生まれる者が多く与えられることの比喩です。これは、伝道の比喩です。胎は、大切にする意味があります。大切なたましいとして扱い、救いに導くのです。
ペテロ第一
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
・「天」→複数形。地を覆うもの。
49:26 おまえの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘の極みにまで及ぶ。これらがヨセフの頭の上に、兄弟たちの中から選り抜かれた者の頭の頂にあるように。
ヤコブの祝福が彼の父たちの祝福に優っているのは、その祝福が永遠の丘の極みに及ぶからです。「丘」と表現することで、これが相続地に関係していることがわかります。ヤコブは、永遠の相続の祝福を与えたのです。
その祝福がヨセフの頭の上にあるようにと。そのヨセフについては、兄弟たちの中から選り抜かれた者と言い表されていて、実を結ぶ若枝であるからこそ、選り抜かれた者であるのです。
ヨセフは、イエス・キリストの比喩になっています。イエス・キリストこそ、若枝として実を結び、永遠の栄光を現し、また、永遠の栄光を受け継ぐ方となられました。それはまた、キリストに従い実を結ぶ者も同じように、永遠の栄光を相続することも表しています。
49:27 ベニヤミンは、かみ裂く狼。朝には獲物を食らい、夕には略奪したものを分ける。」
ベニヤミンは、狼に例えられていて、彼は、噛み裂き、獲物を食らうこと、そして、略奪物を分けます。
ユダに関して、獅子に例えられ、獲物で成長することが語られています。ベニヤミンも獲物で成長します。サウロの時代には、力強い働きをしました。
49:28 これらはすべてイスラエルの部族で、十二であった。これは、彼らの父が彼らに語ったことである。彼らを祝福したとき、それぞれにふさわしい祝福を与えたのであった。
その祝福は、それぞれにふさわしいものとして与えられました。将来のことは、神の手の内にあることです。神が示されたことです。
49:29 また、ヤコブは彼らに命じた。「私は、私の民に加えられようとしている。私をヒッタイト人エフロンの畑地にある洞穴に、先祖たちとともに葬ってくれ。
49:30 その洞穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヒッタイト人エフロンから、私有の墓地とするために、畑地とともに買い取った洞穴だ。
49:31 そこにはアブラハムと妻サラが葬られ、そこにイサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。
49:32 その畑地とその中にある洞穴は、ヒッタイト人たちから買ったものだ。」
49:33 ヤコブは息子たちに命じ終えると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。
ヤコブは、自分を、アブラハムがエフロンから買った畑地にある洞穴に葬るように求めました。彼は、カナンの地が相続地として与えられていることを信じての指図です。それは、アブラハムの信仰に始まったことです。彼は、その地を彼の子孫が受け継ぐことを信じて、ヒッタイト人から購入し、私有の墓地としました。イサクも、リベカもそこに葬られていて、イサクも同じ信仰に歩んだのです。