創世記35章
35:1 神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
この時点で、神は、ヤコブにベテルに上りそこに住むように命じました。その場所の名は、以前のルズではなく、ヤコブが呼んだベテルです。その意味は、神の家ですが、神ご自身がそれを神の家として示し、そこに上るように命じられたのです。
かつて、ベテルで約束を与えました。それは、アブラハムへの祝福を継承したものです。そして、彼を守ることも約束されました。それをすでに実現し、そして、アブラハムへの祝福を実現するその神に祭壇を築き、栄光を帰すことを求めたのです。
神は、そこに住むように命じました。ベテルは、神の家としての教会の比喩になっています。そこに、いつまでも留まることが求められています。
創世記
28:13 そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
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これ以前に、シェケムでは、戦いがありました。ディナがこの世に興味を持つことから始まったことです。それがいかに害悪をもたらすかが示されてます。そして、兄弟たちは、男たちをことごとく絶ち滅ぼしました。シェケムの人たちは、縁を結んでヤコブたちを取り込もうと諮ったのです。しかし、結果的に、その企みは、砕かれ、彼らは、滅ぼされたのです。彼らは、その地の住民の憎しみを買ったかもしれませんが、ヤコブとその家族は、彼らと完全に分離することになります。
ただし、レビとシメオンの行動は、正しいものではなく、彼らは、怒りに任せて行動しました。ヤコブは、彼らの激しい怒りを呪いました。
創世記
49:5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の武器。
49:6 わがたましいよ、彼らの密議に加わるな。わが栄光よ、彼らの集いに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、思いのままに牛の足の筋を切った。
49:7 のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは。私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう。
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35:2 それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。
彼は、神の家が神の支配のもとにあることを承知していました。彼が神の家と呼んだのです。それで、異国の神々を取り除くことを命じました。神の家には、異国の神々のような、異なる教えが入ってはならないのです。
そして、身を清めることを求めました。身は、肉の振る舞いです。それを清めるのです。教会に一切の汚れが入ってはならないのです。
衣服を着替えます。肉による古い人を脱ぎ捨てて、新しい人としてのキリストを着ることの比喩です。
35:3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
ベテルに行く目的は、祭壇を築くためです。神に栄光を帰すためです。神が、苦難の日にヤコブに答えたこと、歩んだ道に共にいてくださって御業をなし、栄光を現されたからです。すべてが神の手によってなされたことを覚えていました。
35:4 彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
彼らは、実際に異国の神々を持っていました。それが生ける神に背くことであることを深くは認識していませんでした。
そのことは、今日の私たちにも見られることです。貪りは、偶像礼拝です。肉は、聖いですが、過度に求める貪りが偶像礼拝であり、御心を損ない、罪を犯すことになります。しかし、多くの人が、肉によって歩むことが聖霊に背き、御心に適わない歩みであることを深くは認識していないのです。
耳輪を外しました。耳は、神の言葉に聞き従うことを表しています。彼らは、耳を飾っていましたが、神の言葉に聞き従っていませんでした。彼らは、単なる飾りとして付けていたのです。それは、神の言葉を聞くが、聞き従っていない状態の比喩です。例えば、信者が教会に行くことは幸いですが、神の言葉に聞き従って生きているのでなければ、価値はありません。
35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。
町々には、神からの恐怖が下りました。神様が守られました。
35:6 ヤコブは、カナンの地にあるルズ、すなわちベテルに来た。彼とともにいた人たちもみな一緒であった。
35:7 彼はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。
ヤコブは、ルズに上りましたが、そこをベテルと呼びました。かつて神がそこで現れたからです。
35:8 リベカの乳母デボラが死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それで、その木の名はアロン・バクテと呼ばれた。
リベカの乳母は、死にました。リベカとの強い絆を表しているデボラが死ぬことで、リベカとの関係が絶たれました。リベカは、ヤコブの祝福について、神の御心を示されていましたが、肉によって行動した人です。神の手に委ねることをせず、夫を騙しました。
神の家においては、そのような肉の働きはきよめられなければならないのです。
35:9 ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
神は、再びここでヤコブに現れて彼を祝福されました。
35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。
ヤコブの名について、改めてイスラエルであると言われました。ヤコブと呼ばれないことも示されました。イスラエルの意味は、「神が戦うあるいは神の戦い」であり、神が事をなさるということです。もはや自分で押しのけることを意味する「ヤコブ」であってはならないのです。
実際は、ヤコブという名も使われますが、それは、肉による弱さを持つイスラエル民族を表現するときに使われます。
創世記
27:36 エサウは言った。「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。」また言った。「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか。」
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35:11 神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。
35:12 わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」
そして、アブラハム、イサクに対する祝福の言葉が、ヤコブを通して実現することを示されました。
35:13 神は彼に語ったその場所で、彼を離れて上って行かれた。
神は、彼の見ている前で天に上られることで、天から支配していることを示されました。教会は、天の支配のもとにあります。
35:14 ヤコブは、神が自分に語られた場所に、柱を、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、さらにその上に油を注いだ。
ヤコブは、そこに石の柱を立てました。石の柱は、教えの比喩です。神の家は、神の臨在の場所であることを表し、その支配のもとにあることを表しています。それですから、神の言葉に適った行動が求められるのです。その真理を表すものでした。
以前にも石の柱を立てたのですが、その時は、油を注いだだけでした。神のために聖別することを表しています。これは、人のものではなく、人の支配によるものでもありません。神のものであることを表したのです。
今回は、ぶどう酒をまず注ぎました。ぶどう酒は、自分を捨てることを表しています。捧げ物としての注ぎのぶどう酒は、イエス様が神の御心を行うために自分を捨てたことを表す尊い捧げ物です。ヤコブは、ぶどう酒注ぐことで、自分捨てて、神に完全に服従することを表明したのです。
35:15 ヤコブは、神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。
また、その場所をベテルとなずけました。初めは、ベテルと呼んでいたのですが、名付けることで、ここがもはや他の名で呼ばれることがないようにしたのです。これが神の家であることを明確に表明したのです。
教会は、神の家なのです。
35:16 彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。
彼らは、ベテルから旅立ちました。ベテルに住むように神様から言われましたが、旅立ちました。彼は、エサウのもとに行くことも約束していました。また、彼は、この地に土地を得ていたわけではなく、天の故郷を待ち望む者として、天幕生活をしたのです。「住みなさい」と言われたことは、いつまでも神の家にとどまるという比喩的意味で言われたのです。彼は、神の家に住む者として振る舞うのです。それは、場所には依存しません。
ラケルは、難産でした。
35:17 彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。
35:18 彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。
助産婦は、彼女を励ましましたが、彼女は、死に至ることになります。彼女は、その子の名をベン・オニすなわち、苦しみの子と呼びました。ラケルは、自分の苦しみを見ていました。神が男の子を与えてくださったことに心を留めませんでした。
父は、ベニヤミンすなわち右手の子と呼びました。神の祝福として受け止めたのです。
35:19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。
35:20 ヤコブは彼女の墓の上に石の柱を立てた。それはラケルの墓の石の柱として今日に至っている。
ラケルは、ベツレヘムすなわち「パンの家」に至ることはありませんでした。パンの家は、真の食物であるキリストに満ちたところ、キリストを豊かに知ることができるところを表しています。彼女は、その祝福を逃したのです。ラケルは、ヤコブに愛されましたが、肉の人です。そして、父から偶像を盗んで自分のものとしたのです。彼女は、神を恐れて従う人ではありませんでした。
35:21 イスラエルは旅を続け、ミグダル・エデルを過ぎたところに天幕を張った。
35:22 イスラエルがその地にとどまっていたころ、ルベンが父の側女ビルハのところに行って、彼女と寝た。イスラエルはこのことを聞いた。ヤコブの子は十二人であった。
ルペンは、ビルハと関係を持ちました。ビルハは、ラケルの女奴隷でしたが、ラケルの死後、そのようなことをしたのです。ベテルに上り、清められた者として神に従うことを表明したにもかかわらず、彼は、肉のままに歩んだのです。ヤコブは、彼のことを水のように奔放と表現しました。これにより、彼は、長子としての祝福を逃すことになります。これは、私たちが肉によって歩むことで、永遠の祝福を逃すことの比喩です。肉によるならば、御霊によって神の御心を行うことはできないのです。身を結ぶことができず、御国に永遠の資産としての報いを受けることができません。
教会は、聖よいところです。肉が働くことがあってはならないのです。一人一人の信者が、報いを失うようなことがあってはならないのです。主イエス様は、天に宝を積みなさいと言われました。
35:23 レアの子はヤコブの長子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン。
35:24 ラケルの子はヨセフとベニヤミン。
35:25 ラケルの女奴隷ビルハの子はダンとナフタリ。
35:26 レアの女奴隷ジルパの子はガドとアシェル。これらはパダン・アラムで生まれたヤコブの子である。
ヤコブには、十二人の男の子が与えられました。それは、神の支配を表す数字です。ヤコブの家族は、教会の一人一人の信者を表しています。彼らは、神の支配のもとにあるのです。
35:27 ヤコブは、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいる父イサクのところに着いた。そこは、アブラハムとイサクがかつて寄留していたところである。
彼は、ヘブロンにつきました。アブラハムとイサクがかつて寄留したところです。住んだところではなく、「寄留」と記されています。アブラハムもイサクも、天の故郷に憧れていたので、寄留生活をしたのです。ヤコブもその一人です。
ヘブル
11:8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。
11:10 堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。
11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
11:14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。
11:15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
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35:28 イサクの生涯は百八十年であった。
35:29 イサクは年老いて満ち足り、息絶えて死に、自分の民に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った。
彼の死は、神が定めた日が満ちたからです。自分の民とは、地上の民でないことは明らかです。神の前に生きている神の民のことです。後に、「アブラハム、イサク、ヤコフの神」と言われたとき、彼らは、生きていたのです。そのような民のことです。
・「年老いて満ち足り」→年老いて日が満ち。