出エジプト記31章

31:1 主はモーセに次のように告げられた。

31:2 「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、

31:3 彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。

 神様の召命は、救いへの召命と働きへの召命があります。ここでは、働きのための召命で、神の業をさせるに当たって「名指し」で召命されたのです。それは、働きへの召命は、個人個人に対してであるということです。救いも、個人個人に対してです。

 また、その働きのためには、神の霊によって、すなわち聖霊によって必要なものを満たしたのです。「知恵」「英知」「知識」とあらゆる仕事において、神の霊を満たしました。

 知恵は、神の言葉を受け入れ、従う分別です。

 英知は、知識に整合したことだけをまっすぐに行う分別。 

 そして、知識です。これは、神が示されたとおりの正しい知識という意味です。彼は、設計の能力に優れていました。そして、設計のための知識を持っていたのです。しかし、ここでは、神が示した通りのものを実現することが要求されています。彼には、神が示した正しい知識が必要です。

 あらゆる仕事は、実際の行動です。それも聖霊によってなさいました。

 神の言葉を受けて従うまでに、四つの段階で示されています。その順は、神の言葉を受け入れ従う分別から示されています。実は、まず受け入れる分別がないと、神の言葉を受け入れることができないのです。神の言葉を受け入れ、従う分別が働くところに、正しい知識が示されるのです。そして、あらゆる行いが神の導きのままに行われるのです。

 今日も、聖霊は、ご自分の御心のままに賜物を与えて信者を通して業をされます。その賜物は、その人がキリストを現す者となった者に与えられて用いられます。そこに至るには、聖霊が教える神の言葉を受け入れ従うことが必要であり、御言葉の知識が必要です。御言葉の知識は、御言葉を受け入れ従う分別のある人に与えられます。

31:4 それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、

31:5 はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。

 彼の役割は、設計と彫刻です。設計は、彼が新たに何かを考案するための設計ではありません。彼の役割は、モーセが山で示された型どおりに作るための設計です。

出エジプト記

25:40 よく注意して、山であなたに示された型どおりに作らなければならない。

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 型は、それによって主イエス様の栄光を現します。それが正確に現されるように作らなければならないのです。同様に、教会を立てる働きにおいては、神様が御言葉に示しておられることを正確に教会で実践することが求められているのです。人間的な考えに基づく教えや、人の考えによる組織などを取り入れてはならないのです。それによって、利便性が図られることがあるかもしれませんが、神の言葉に忠実でなかったら、何の意味もありません。

31:6 見よ。わたしは、ダン部族に属する、アヒサマクの子オホリアブを彼とともにいるようにする。わたしは、すべて心に知恵ある者の心に知恵を授ける。彼らは、わたしがあなたに命じたすべてのものを作る。

 さらに、オホリアブが彼の下に任命されました。このようにして、それぞれが能力を与えられて働くことができるのです。

 「わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。」とあります。心に神の言葉を受け入れ従う分別としての知恵のある者に、さらに知恵を授けられるのです。彼は、ますます神の言葉を求め従うようになります。そのような人を通して、神の業がされます。人間的な能力に優れた人がその働きをするわけではありません。

マタイ

13:12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。

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 信仰を持って聞く人は、さらに豊かに神の言葉を与えられます。

31:7 すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『宥めの蓋』、天幕のすべての備品、

31:8 机とその備品、きよい燭台とそのすべての器具、香の祭壇、

31:9 全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、洗盤とその台、

31:10 式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、その子らが祭司として仕えるための装束、

31:11 注ぎの油、聖所のための香り高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。」

 そして、神様が知恵を授けられたのは、神様が命じられたとおりのものを作るためです。その知恵は、作る人の発想によって、好き勝手なものを作るためではありません。あるいは。人の考えに基づいて仕様を変更するためでもありません。人が考えてより良いと見えるものを作ることでもありません。人の目に良いと見えても、神様の命じたとおりに作らなければ意味がありません。幕屋は、そのほとんどは、主イエス様の栄光に関わるものです。神様の示したものと異なるものを作るならば、主イエス様の栄光は正しく現れないことになります。

31:12 主はモーセに告げられた。

31:13 「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。 わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。

 次に安息日を守ることを命じました。それは、しるしのためです。神様がイスラエルを聖別する主であることをイスラエルが知るためです。イスラエルは、神様によって取り分けられた神の民であるのです。安息日は、わたしの安息日言われていて、主のために守ります。主は、イスラエルが聖別されることを求めておれます。イスラエルは、安息日を守ることで自分自身を神に聖別するのです。

31:14 あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。

 安息日は、聖なるものです。神のものなのです。神が天地を創造し、また、永遠の安息があることをそれによって示すのです。イスラエルがそれを守ることで、それを証しするのです。それを守らないことは、聖なるものを汚すことになるのです。それで、裁きとして、民から断ち切られるのです。

31:15 六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は主の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。

 七日目に休まないものは、殺されました。それは、その日が神のものであるからです。「主の」という言葉が、そのことを表しており、「聖なる」という言葉も、そのことを表す言葉で、神のものという意味です。その神のものとしての日をイスラエルが聖なるものと認め、聖別してこれを守らなければならないのです。

 神様にとって、民が安息日を守ることは喜びでした。自分のためにその日を使うのではなく、神のものとして過ごすからです。それが神に栄光を帰すことになります。その日に、神を覚え、天地を造られた神を覚えるのです。神を覚えることで、神を恐れ、いよいよその契約に誠実に歩むようになるのです。

 イエス様の御在生当時、形式だけに囚われた戒めによって、神を恐れない人々の行動は神を悲しませるものです。父を愛して、父の栄光を求められたイエス様が、彼らの偽善を強く指摘されたのは当然のことです。

31:16 イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。

 この安息日を守ることが契約でした。永遠の契約として守らなければならないのです。

31:17 これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」

 安息日は、しるしでした。それは、神様が六日間で天と地を造られたことを示すものです。すなわち、神が天地の創造者であることを安息日を守ることによって示すことになります。

 その方がイスラエルを特別なものとして取り分けました。聖別したのです。ですから、イスラエルは自分を神のものとして聖別するのです。安息日を守ることは、自分が神のものであることを認めることです。

31:18 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。

 律法は、石と関連付けられています。比喩としては、石は、教えを表しています。偶像礼拝においても、偶像とともに石の柱につい記述されています。石の柱は、偶像の教えを表していて、まず、石の柱を砕くことが取り上げられています。それは、本体の偶像よりも影響力が大きいのです。

 証しの板二枚と記されています。「証し」は、法廷における証言の意味です。この石の板によって、神が証ししておられるということです。この石の板は、神の教えであり、二枚に分けられたことは、神の証であるということです。「二」は、このように、「証し」を表しています。