出エジプト記29章
29:1 彼らを聖別し祭司としてわたしに仕えさせるために、彼らになすべきことは次のことである。若い雄牛一頭、傷のない雄羊二匹を取れ。
雄牛は、罪のためのいけにえ、雄羊一匹は、全焼のいけにえのため、もう一匹は、和解のいけにえで、感謝のために捧げられます。
29:2 また、種なしパン、油を混ぜた種なしの輪形パン、油を塗った種なしの薄焼きパンを取れ。これらは最良の小麦粉で作る。
種なしのパンは、「最良の→挽かれた」小麦粉で作られました。それは、穀粒のままでないこと、また挽き割りではないことを表しています。粒は、よみがえりを表しています。粉は、人となられたことを表しています。
ちなみに「最良の」の訳は、英語訳の「fine細かい」の別訳の最良を採用したためと考えられます。
種なしパンは、教えにおいて清く、肉によらない歩みを表しています。それは、人としてのイエス様を表していて、人となられましたが、それらのものが入らない清さを表しています。
油を混ぜた種なしの輪形のパンは、油によって表される聖霊に満たされた歩みをされたことを表しています。
油を塗った種なしの薄焼きのパンは、人であることと、聖霊の働きがあることが同時に示されています。これは、イエス様の歩みが聖霊によってなされたことを表しています。
29:3 これらを一つのかごに入れ、そのかごと一緒に、先の一頭の雄牛と二匹の雄羊を連れて来る。
29:4 アロンとその子らを会見の天幕の入り口に近づかせ、水で彼らを洗う。
彼らは、水で洗われました。御言葉によって聖別されたのです。
29:5 装束を取り、長服と、エポデの下に着る青服と、エポデと胸当てをアロンに着せ、エポデのあや織りの帯を締める。
29:6 彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に聖なる記章を付ける。
29:7 注ぎの油を取って彼の頭に注ぎ、彼に油注ぎをする。
彼には、装束が着せられて、油注がれ、大祭司として任命されました。注ぎの油は、聖霊の比喩です。彼が選ばれ、大祭司として立てられるのは、聖霊の選びによります。
29:8 それから彼の子らを連れて来て、彼らに長服を着せる。
29:9 アロンとその子らに飾り帯を締め、ターバンを巻く。永遠の掟によって、祭司の職は彼らのものとなる。あなたはアロンとその子らを祭司職に任命せよ。
アロンの子たちの装束は、まず、長服で、自分を覆うことを表しています。次に、飾り帯で、帯自体は、力強く働くことを表しています。そして、飾り帯は、それによって神の栄光を現すことを表しています。ターバンは、自分を覆うことすなわち、自分の栄光を求めないことを表してます。
アロンの子たちが祭司職を継ぐことになります。
29:10 あなたは雄牛を会見の天幕の前に近づかせ、アロンとその子らはその雄牛の頭に手を置く。
29:11 あなたは会見の天幕の入り口で、主の前で、その雄牛を屠り、
29:12 その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の四隅の角に塗る。その血はみな祭壇の土台に注ぐ。
雄牛は、罪のための捧げ物です。手を置く事は、一つであることを表してます。彼らの代わりに屠られるのです。
雄牛の血は、祭壇の角に塗られます。祭壇の角は、神の権威を表しています。そこに血が塗られて宥めることになります。四隅は、あらゆる面を表していて、すべての点において、罪の宥めがされることを表しています。
そして、血は、祭壇の土台に注がれました。それは、ご自分を捨て、命を捨てたことを表してます。これは、罪のために命を捨てたことを表しています。
29:13 その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓とその上の脂肪を取り出し、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。
これらは、イエス様が聖霊によって歩まれ、たましいが聖霊に従うことで、神の御心を行われたことを表し、それが主イエス様の命であったことを表しています。
・「小葉」→医学的には肝臓の内部構造を指す言葉で、そぐわない。肝臓に張り付くように覆っている脂肪のこと。「小葉→原語:脂肪」は、腎臓と一緒に取り除かれるもので、腎臓と一体のものとみなされています。腎臓を中心に脂肪の記述があり、「小葉→脂肪」は、腎臓と関連付けられています。これは、このいのちは、たましいが主に従うことで経験できることで、これらは密接に関係しています。
・「内蔵」→その人のうちなるものの全てを指していて、それを覆う脂肪は、聖霊の比喩です。霊もたましいも聖霊の支配の下に歩まれた主イエス様を表しています。
・「肝臓」→命を表します。主とともに歩むことで経験できるいのちを表しています。下記▪️肝臓参照。
・「腎臓」→たましいを表します。それに関連する脂肪は、聖霊の比喩です。
29:14 その雄牛の肉と皮と汚物は宿営の外で火で焼く。 これは罪のきよめのささげ物である。
雄牛の他の部分は、宿営の外で焼かれました。人々から離れて焼かれたのです。それは、捨てられたことを表しています。
29:15 また、一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。
手を置くことは、一つであることを表しています。
29:16 その雄羊を屠り、その血を取り、これを祭壇の側面に振りかける。
雄羊の血は、祭壇の側面に振り掛けられました。これは、全焼の捧げ物で、その血の尊さが披露されるためです。ご自分を捨てたことによって現される主イエス様の栄光です。
29:17 また、その雄羊を各部に切り分け、その内臓とその足を洗い、これらをほかの部位や頭と一緒にし、
29:18 その雄羊を全部、祭壇の上で焼いて煙にする。これは主への全焼のささげ物で、主への芳ばしい香り、食物のささげ物である。
全焼の捧げ物は、主にとって香ばしい香であり、火による捧げ物であり、主だけが受ける捧げ物です。それは、主を満たします。
・「食物の捧げ物」→火による捧げ物。
29:19 もう一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。
29:20 その雄羊を屠り、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また彼らの右手の親指と右足の親指に塗り、その血を祭壇の側面に振りかける。
29:21 祭壇の上の血と、注ぎの油を取って、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束にかける。こうして、彼とその装束、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなる。
次の雄羊の血は、アロンとその子らの耳たぶ、手足の親指に塗られました。その血は、装束にも振り掛けられました。装束の場合は、装束が聖なるものとなると記されていますので、アロンとその子らを聖別するためのものです。装束は、外に現れる振る舞いを表していて、彼らは、主イエス様の栄光を表すものとされています。
耳は、御言葉を聞くところです。聞いて従うことにおいて聖別されるのです。主イエス様ご自身は、そのようにされた方です。
手は、行いを表し、足は、歩みを表します。行いも歩みも、神のためのものとして聖別するのです。主イエス様がそうされたようにするのです。
装束は、神の栄光を現すものとして聖別するのです。
29:22 次に、その雄羊の脂肪、あぶら尾、内臓をおおう脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓とその上の脂肪、また右のももを取る。これは任職の雄羊である。
雄羊の脂肪が捧げられました。雄羊は、人となられたイエス様を表しています。脂肪は、聖霊の比喩です。聖霊によって歩まれたことを表しています。
あぶら尾は、羊特有な物です。脂肪でできています。それは、背骨に沿っていることがレビ記には記されています。骨は、その人の持つ教えの比喩で、その人の行動の基準となります。信者の場合は、それが神の教えに整合していることが幸いです。イエス様に関しては、ご自分の持つ教えは、聖霊の支配のもとにあったことを表しています。
レビ記
3:9 そして、その交わりのいけにえから、主への食物のささげ物としてその脂肪を献げる。すなわち、背骨に沿って取り除いたあぶら尾すべて、内臓をおおう脂肪、内臓に付いている脂肪すべて、
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右のももは、歩みを表しています。これは、祭司が食べることになります。主イエス様の歩みは、神の前に尊い歩みですが、祭司となる者は、それを食べることで学び、自分も同じ歩みをする者となります。
29:23 また、主の前にある種なしパンのかごから、円形パン一つと、油を混ぜた輪形パン一つと、薄焼きパン一つを取る。
種なしパンは、教えにおいて純正であり、また肉の性質から離れ、聖いことを表しています。
油を混ぜたパンは、聖霊に満たされたことを表しています。
薄焼きパンは、油が塗られることが省略されています。
29:24 そして、そのすべてをアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物(揺り動かす捧げ物、揺祭)として主の前で揺り動かす。
29:25 それらを彼らの手から取り、全焼のささげ物とともに、主の前の芳ばしい香りとして祭壇の上で焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物である。
全てが主の前で揺り動かされます。主の前に覚えられるためです。
レビ記
23:11 その束は主の前で揺り動かす。あなたがたが受け入れられるためである。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。
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29:26 アロンの任職のための雄羊の胸肉を取り、これを奉献物(揺祭)として主に向かって揺り動かす。これは、あなたの受ける分となる。
胸は、愛を表します。モーセは、大祭司と対比される時、父神の比喩になっています。父にとって最大の関心事は、御子の愛です。父に向けられた愛であり、父のものを愛する愛です。モーセは、それを食べることで、父神に向けられたイエス様を愛を覚えることの比喩になっています。
出エジプト記
4:15 彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。
4:16 彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。
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モーセとアロンの役割について示されています。モーセは、神の代わりです。
29:27 アロンとその子らの任職のための雄羊の、奉献物(揺祭)として揺り動かされた胸肉と、奉納物(捧げ物)として献げられたもも肉とを聖別する。
29:28 それは、 アロンとその子らがイスラエルの子らから受け取る永遠の割り当てとなる。それは奉納物(捧げ物)である。それはイスラエルの子らからの交わりのいけにえの奉納物(→イスラエルの子らからのいけにえからの「交わりのいけにえ→和解の生贄。完全さのいけにえ。」)、主への奉納物(捧げ物)であるから。
胸肉とももの肉は、聖別され、アロンとその子らのものとなります。そして、それは、「交わりのいけにえ」を表しています。
29:29 アロンの聖なる装束は彼の跡を継ぐ子らのものとなり、彼らはこれを着けて油注がれ、これを着けて祭司職に任命される。
29:30 彼の子らのうちで、彼に代わって聖所で務めを行うために会見の天幕に入る祭司は、 七日間、これを着る。
アロンの聖なる装束は、聖所の中で務めを行うときに、祭司が七日間着ます。
29:31 あなたは任職のための雄羊を取り、聖なる所でその肉を煮なければならない。
29:32 アロンとその子らは会見の天幕の入り口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンを食べる。
肉を煮るのは、御言葉によって主を覚えることの比喩です。これは、過越の子羊を火に焼いて食べるのとは異なります。過越の子羊は、罪人が裁きを免れるために捧げられるイエス様を表しています。ここでは、祭司として、模範者であるイエス様を知るために食べるのです。パンを食べるのもそうです。
29:33 彼らは、自分たちを任職し聖別するため、宥めに用いられたものを食べる。一般の者は食べてはならない。これらは聖なるものである。
彼らは、宥めに用いたものを食べます。すなわち、神様と同じ物を食べるのです。神様がそれによって満足されたイエス様を同じように覚えるのです。神の観点から、栄光を現した方を覚えるのです。
29:34 もし任職のための肉またはパンが朝まで残ったなら、その残りは火で燃やす。食べてはならない。これは聖なるものである。
朝まで残った物は、火で焼かれます。そのようにして神に捧げられます。それは、聖なる物であり、神のものです。人は、十分に覚えることができないかもしれません。しかし、神様にとっては、御子の栄光を表すものであり、非常に価値あるものです。朝まで残ったものは、焼くことで主に捧げられます。
29:35 わたしがあなたに命じたすべてにしたがって、このようにアロンとその子らに行え。七日間、 任職式を行わなければならない。
アロンとその子の任職のためには、七日間儀式を行います。大祭司は、主イエス様の比喩です。祭司は、贖われて神に仕える者の比喩です。それは、血による聖め、そして、油による聖別によって聖くされました。
主イエス様は、人となられて歩まれて完全な者とされました。聖くない者が聖められたのではなく、聖いことが現されたのです。
祭司は、聖くない者が贖われたのです。そして、聖められました。聖霊によって聖められたのです。
29:36 毎日、宥めのために、 罪のきよめのささげ物として雄牛一頭を献げる。あなたはその上で宥めを行い、その祭壇から罪を除く。聖別するためにそれに油注ぎをする。
これは、祭壇の聖めの儀式です。祭司の任命とともに、祭壇を聖めて、祭司の捧げ物が受け入れられるためです。
雄牛一頭が取られて宥めがされました。祭壇から罪を除くためです。裁断自体は、人の手による作り物ですから、それ自体が罪を犯すことがありません。しかし、イスラエル人の中にあることで汚れを受けているので、聖めるのです。
そして、油注ぎをします。人の手による作ですから、神のために用いるために聖別するのです。油が注がれることは、聖霊の支配に入ることの比喩です。全ては、聖霊による業としてなされなければならないことの比喩です。
29:37 七日間、祭壇のために宥めを行い、それを聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。 祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる。
聖別のためには、七日を要しました。七は、満たす意味での完全を表しますが、祭壇は、最も聖なるものとなります。祭壇が神の評価を表すからです。神の聖さを表すものとして、最も聖なるものとされる必要があるのです。
29:38 祭壇の上に献げるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく、一歳の雄の子羊二匹。
29:39 朝、一匹の雄の子羊を献げ、 夕暮れに、もう一匹の雄の子羊を献げる。
一歳によって、一つということが現されていて、子羊によって、子ということが現されています。合わせて、独り子の御子を表しています。神様が愛されたのは、独り子の御子です。
毎日絶やすことなく、朝と夕に捧げられたことは、父神が常に独り子の御子の栄光を覚えることを望んでおられることを表しています。
29:40 一匹の雄の子羊には、 上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、 また注ぎのささげ物としてぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。
小麦粉の十は、到達点を表します。小麦粉は、人としての歩みを表しています。小麦粉が使われる種無しパンの祭りは、教えや古い性質に汚されない歩みの比喩です。その点に関して完全であることを表しています。人となられて全き方は、イエス様だけです。
油は、聖霊の比喩です。四は、あまねくということを表し、あらゆる点において聖霊に満たされていて、神の御心を行うことを表します。
注ぎの捧げ物としての葡萄酒は、自分を捨てることを表しています。あらゆる点においてご自分を捨てられたのです。聖霊に満たされることと、自分を捨てることは、比例します。肉が一切入らず、聖霊によって神の御心を行なったことを表しています。
・「最良の小麦粉」→挽かれた小麦粉。穀粒と対比されている。
・「上質のオリーブ油」→「油」。
・「四分の一」→四に意味がある。あまねく。
・「十分の一」→十に意味がある。
29:41 もう一匹の雄の子羊は夕暮れに献げなければならない。これには、朝の穀物のささげ物や注ぎのささげ物を同じく添えて、献げなければならない。それは芳ばしい香りのためであり、主への食物のささげ物である。
その捧げ物は、芳ばしい香りとなりました。それは、主の食物です。主がそれによって満たされるのです。父は、御子の歩みをご覧になられて満足されます。
29:42 これは、主の前、会見の天幕の入り口での、あなたがたの代々にわたる常供の全焼のささげ物である。その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る。
その捧げ物がある所で主は会い、語られます。御子のゆえに人と交わることがおできになられます。
29:43 その場所でわたしはイスラエルの子らと会う。そこは、わたしの栄光によって聖なるものとされる。
そこでイスラエル子らと会います。信者全てにご自分を現されます。そして、主が御栄光を現されるので、そこは、聖なるものとされます。神に属するものとされます。
29:44 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる。
そして、人の手による天幕と祭壇を神のものとして聖別されます。さらに、アロンとその子らも、人ですが、聖別して神のものとされ、祭司として仕えさせます。
29:45 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる。
そのようにして、主は、御子を表す捧げ物によって、そこに臨在され、彼らの中に住まれ、彼らの神となられます。神と人を繋ぐのは、人となられて神の御心を行われた主イエス様です。主は、そこに満足を見出され、人の間にお住みになられるのです。
29:46 彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。
主がそのようにされることで、イスラエルは、主が彼らの神、主であり、彼らをエジプトから連れ出されたのは、彼らの只中に住むためであることを知るようになるためです。
彼らの神とは、彼らの支配者です。
彼らの主とは、契約を果たされる方です。
▪️肝臓について
箴言
7:23 ついには、矢が肝を射通し、鳥がわなに飛び込むように、自分のいのちがかかっているのを知らない。
「肝」は、肝臓のことです。彼が女についていくことで、「ついに」経験することとして、肝を矢で射通されることが示されています。これは、神の裁きです。肝が矢で射通されることは、後半に「いのち」を失うことであることが示されています。ですから、肝は、「いのち」を表しています。この、いのちを失うことは、鳥が罠に飛び込むこととしても説明されています。鳥は、天に属するものを表しています。人は、神に従って生きることで、天に属するものとして、聖なる者であり、神と一つとなって生きることを経験することができるのです。しかし、女についていくことでそれを失うのです。それがいのちを失うことです。
哀歌
2:11 私の目は涙でつぶれ、私のはらわたは煮え返り、私の肝は、私の民の娘の傷を見て、地に注ぎ出された。幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。
2:12 彼らは母親に、穀物とぶどう酒はどこにあるのか、と言い続け、町の広場で傷つけられて衰え果てた者のように、母のふところで息も絶えようとしている。
イスラエルに対する神様の裁きは、もはや取り消されない決定でした。しかし、その神の裁きを目の当たりにした時、哀歌の記者は、神様の守りが取り除かれたことを見て、激しく動揺したのです。
「目」は、信仰を表します。彼は、信仰によって神の御心を素直に受け入れることができませんでした。イスラエルに対するこんな取扱があっていいはずがないと考えたのです。彼は、神の御心を受け入れる信仰が揺らいだのです。涙で潰れとありますが、激しい感情のために神の御心をそのままに受け入れることができませんでした。
はらわたは、内面を表しています。心とでも言える部分です。そこには、霊がありたましいがあります。神の言葉をそのままに受け入れることができなくなりますので、また、そこに従うことが揺らぎます。
肝は、神ととも歩むことで経験するいのちです。信仰の揺らぎは、そのいのちを地に注ぎ出したかのようにむなしくなりました。それをもはや味わうことができなくなったのです。それは、幼子や乳飲み子の状態と同じです。彼らは、広場で衰え果てています。もはやいのちも絶え絶えなのです。いのちが失われつつあることを表しています。そして、彼らは、穀物とぶどう酒を求めていました。幼子や乳飲み子は、通常は、そのようなものを求めないのです。これは、比喩です。彼らの求めているのは、いのちなのです。それは、穀物によって表される真の食物としてのイエス様を表しています。ぶどう酒は、イエス様が御自分を捨てたことを表しています。その方を知ることがいのちなのです。なぜならば、それは人としてのあるべき姿であり、そこに歩むことで主と一つとされるいのちを経験するからです。それは、傷つけられた者のように衰え果てたのです。彼は、傷付けられて正常な歩みができなくなった者のようなのです。息が絶えようとしているのです。いのちが失われつつありました。
このように、肝は命を表しています。主と一つであることによって経験するいのちです。
この肝臓の上の「小葉→脂肪」が捧げられましたが、それは、このいのちが聖霊によることを表しています。聖霊によって歩むことで、このいのちを経験できるのです。この肝臓の上の「小葉→脂肪」は、腎臓とともに取り除かれました。それは、腎臓と深く関係していることを表しています。たしかに、永遠のいのちは、神の言葉に従うたましいの活動と一体です。神の言葉にたましいが従うことで、永遠のいのちを経験できるのです。