出エジプト記27章

27:1 祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの正方形とし、高さは三キュビトとする。

 祭壇の寸法の、五は、御心を行うことを表しています。正方形で、四面とも、五キュビトで、イエス様があらゆることにおいて御心を行なわれたことを表しています。人としてのご生涯、全てが神の御心を行う歩みでした。十二歳の時の記事に、すでに見ることができます。

ルカ

2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」

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「家」→「仕事」定冠詞が記されているだけで、家とも仕事とも記されていない。「父のそれに」とでも訳すべきところです。「それ」とは、イエス様がなぜここにいるかという疑問に答えるものです。ここにいて為していることは、父のものなのです。

 祭壇の高さ三は、欠けのない完全さを表しています。イエス様が父の御心を行うことは、完全であり、御心を成し遂げられたのです。

27:2 その四隅の上に角を作る。その角は祭壇から出ているようにし、青銅をその祭壇にかぶせる。

 角は、権威を表していて、これは、父の権威です。祭壇そのものは、イエス様を表しているのではなく、父の要求なのです。先ほど、寸法について触れましたが、それは、父の要求であり、イエス様は、それを完全に果たされたことを表しています。それに青銅が被せられましたが、青銅が表していることは、御心を行うことで表される聖なるということです。

27:3 灰壺、十能、鉢、肉刺し、火皿を作る。祭壇の用具はみな青銅で作る。

 捧げ物を扱うための道具は、灰に至るまで。みな青銅製品です。青銅は、聖を表しています。神の御心を行って神の目に適っていることが要求されているのです。

27:4 祭壇のために青銅の網細工の格子を作る。その網の上の四隅に青銅の環を四個作る。

 灰についての直接の言及はありませんが、青銅の編み細工の格子によって、分離されて下に落ちます。それは、灰捨て場に捨てられます。その灰自体は、聖なるものとして扱われます。ご自分を捨て、空しくすることを表す灰となることが要求されているのです。

 主イエス様は、捧げ物として御自分を捧げられましたが、それは、肉を捨て、御霊によって生きられる歩みです。御自分のことを全く捨てられたのです。

 祭壇を担ぐための棒を通す菅は、網の上の四隅につけられました。祭壇を担ぐことは、神の要求を満たされた主イエス様の証しを表しますが、それは、御自分を捨てたことを通して現されます。主イエス様が父の御心に適い、父を宥めたことは、父にとっては明らかですが、人の目には見えません。しかし、イエス様がどれほど御自分を捨てられたかは、十字架の死に至るまで従われた姿を通してよく知ることができます。そこに至るまでの御生涯も、ご自分を捨てられた歩みであり、父を満足させられたのです。

27:5 その網を下の方、祭壇の張り出した部分の下に取り付け、これが祭壇の高さの半ばに達するようにする。

「張り出した部分」→枠。

 祭壇の上半分は、火と捧げ物が置かれ、神のための部分です。下半分は、灰の回収のためで人のためです。人は、主がご自分を御捨てになったことを表す灰と共に、主の記憶を表す灰を受け取ります。

27:6 祭壇のために棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。

27:7 それらの棒は環に通す。祭壇が担がれるとき、棒が祭壇の両側にあるようにする。

 主イエス様の聖さがあらゆる方面に証しされるためです。それを担うのは、祭司です。

 棒も、聖さを表すものになっています。

27:8 祭壇は、板で、中が空洞になるように作る。山であなたに示されたとおりに作らなければならない。

 空洞であることは、祭壇の意味は、そこにいけにえが捧げられるための器であるということです。祭壇自体は、神様の要求であり、そこにいけにえが捧げられることで、初めて神にとって価値あるものであり、実際、捧げられたいけにえが表すように、神様を宥める捧げものであったのです。

27:9 次に幕屋の庭を造る。南側は、撚り糸で織った長さ百キュビトの亜麻布の庭の掛け幕を、その側に張る。

 亜麻布は、聖い歩みをされたイエス様を表しています。百キュビトは、次節から二十で分割され、五キュビトが単位となっています。五は、御心を行うことを表しています。二十は、聖なることを表しています。百は、聖別を表しています。庭を分離するための膜です。

27:10 その柱は二十本、 その台座は二十個で青銅、 その柱の鉤と頭つなぎは銀とする。

 二十により、御心を行われて聖なることが現されたことを示しています。青銅も、聖なることを表しています。

 帯輪は、銀です。銀は、贖いを表しています。イエス様の聖なる歩みは、贖いと関係しています。イエス様の栄光として、聖霊による歩みが銀によって表されています。

・「頭つなぎ」→帯輪。

27:11 同じように、北側も長さ百キュビトの掛け幕とする。その柱は二十本、その台座は二十個で青銅、その柱の鉤と頭つなぎは銀とする。

 北側も同じです。

27:12 また、庭の西側は幅五十キュビトの掛け幕、その柱は十本、その台座は十個とする。

 西側は、五十キュビトで。柱は、十本。五キュビトが単位であることは変わりません。十は、到達点を表していて、神の御心を完全に成し遂げたことを表しています。

27:13 正面の、庭の東側の幅も五十キュビト。

27:14 門の片側には十五キュビトの掛け幕、その柱は三本、その台座は三個とする。

 十五キュビトに柱三本で、五キュビトを単位としています。神様の御心をなすことを表していて、三によって表される神の完全さを現されたことを示しています。

27:15 もう片方の側も十五キュビトの掛け幕、その柱は三本、その台座は三個とする。

 もう片側も、同じで、それが二組で、イエス様が神の完全さを現されたことが証しされています。

27:16 庭の門には、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いた、長さ二十キュビトの、刺繍した垂れ幕を張る。その柱は四本、その台座は四個とする。

 長さ二十キュビトで、聖なることが表され、その布地と刺繍の色によって、イエス様の四つの面が表されています。父の御心を行い、父の御心に適った聖なる歩みを四によって表されるあらゆる方面においてなされることで、主イエス様の栄光が現されたのです。

27:17 庭の周囲の柱はみな、銀の頭つなぎでつなぎ合わせ、その鉤は銀、台座は青銅とする。

 柱は、銀によって贖いを表しています。台座は、聖なることを表す青銅です。御心を行う聖なることを土台とし、贖いすなわち聖霊による全き歩みによって証ししておられます。

27:18 この庭は長さ百キュビト、幅五十キュビト、そして高さは撚り糸で織った亜麻布の幕の五キュビトとし、その台座は青銅とする。

 膜の高さは、五キュビトで御心を行うことを表しています。御心を行うことで聖なることが現されたのです。

27:19 幕屋の奉仕に用いるすべての備品、すべての杭、庭のすべての杭は青銅とする。

 庭に用いられるものは、青銅です。一般の人の目に触れるところにあるものは、聖なることが表される青銅です。人の目の評価からも、イエス様の聖なることが栄光として現されています。

27:20 あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。

27:21 会見の天幕の中で、さとしの板の前にある垂れ幕の外側で、アロンとその子らは、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である。

 灯火が常に灯されることで、イエス様の栄光を表す幕屋の器具が照らし出されることになります。本来人には必要ないことです。このようにすることで、父がイエス様の栄光が常に現されることを望まれたことを表しています。