出エジプト記25章
25:1 主はモーセに告げられた。
25:2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
奉納物を携えてくるように「告げる」ように告られました。奉納物は、「進んで捧げる心ある人」から受け取るのであり、自主的なものであるからです。
25:3 彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、
25:4 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、
25:5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
25:6 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、
25:7 エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。
25:8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。
それらの捧げ物は、幕屋を造るためです。幕屋を造る目的は、主がイスラエルのただ中に住むためです。いつまでもともにおられるためです。
25:9 幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。
幕屋については、型が示されました。その型と全く同じように造るように命じられました。それは、イエス様の栄光を表す型となっています。正確に同じように造らなければ、それを現すことができないからです。
■箱
25:10 アカシヤ材の箱を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半、高さを一キュビト半とする。
寸法に関しては、全てに「半」という特徴的な値が記されています。聖書で関連がある「半」は、「贖い銀」の指定量で、多くても少なくてもいけませんでした。これ以外に値として関連のあるものはありません。一連の値は、「半」を単位として構成されていて、贖いに関連して数値が示されています。贖いは、御心を行う歩みに関連づけられています。それは、贖いの業ではなく、人の贖われたものとしての状態を表しています。それは、キリストのよみがえりと関連づけられていて、肉に対して死に、御霊によって新しく生まれたものとして歩むことです。パウロは、そのことを次のように記しています。
ピリピ
3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
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イエス様に関しては、肉体を取られて、肉にはよらず、御霊によって神の御心を行われた歩みを指しています。
一、二キュビト半
「半」を単位として五つです。「五」は、御心を行うあるいは全うすることを表しています。
二、一キュビト半
「半」を単位として三つです。「三」は、神の完全さを表しています。そして、これが二箇所の寸法に当てられています。「三」が二つの組になっています。これは、イエス様の栄光を表すものとして、時々見られます。燭台の枝は、三つずつ左右に二組で、六になっています。火皿は、七つですが、枝としては、三つが二組として数えられています。「六」は、人を表しています。人としての歩みの中に御心を行うことで神の完全さを現されたことが表現されています。
それが贖いとの関連で表されています。人としての歩みの中に、完全さをもって歩まれまたことで、証ししておられます。それは、人にあらず、神としての証しです。独り子の御子の栄光を現されたのです。
・「アカシヤ材」→アカシヤの木。
25:11 それに純金をかぶせる。その内側と外側にかぶせ、その周りに金の飾り縁を作る。
箱には、純金が被せられました。「純金」は、神聖であることを表します。
出エジプト記
28:36 また、純金の札を作り、その上に印章を彫るように『主の聖なるもの』と彫り、
28:37 これを青ひもに付け、それをかぶり物に付ける。それがかぶり物の前面にくるようにする。
28:38 これがアロンの額の上にあって、アロンは、イスラエルの子らが聖別する聖なるもの、彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。これは、彼らが主の前に受け入れられるように、絶えずアロンの額の上になければならない。
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純金の札が表すものは、「主に関して聖」ということです。捧げ物の咎を負うためです。大祭司の働きを担うために必要なものでした。大祭司が神によって完全に受け入れられているので、大祭司に免じて、捧げ物をする者が受け入れられ、捧げ物が聖なるものとして主に受け入れられるのです。聖なることは、神様に受け入れられる、神に対するふさわしさを表しています。それで、純金は、この札に関連して聖なることが表されています。それは、元々神としての性質を持っているということではなく、聖なるものとして受け入れられることを表しています。
イエス様に関して、この方は神ですが、その神であるということを表しているのではなく、その歩みを通して聖なることが現されたことを表しています。すなわち、俗なるものとは分離した神に対してふさわしいことが現されたのです。そのことは、独り子の御子である神の栄光を現されたことと言えます。
飾り縁は、金で、義を表しています。行いが義であることを表しています。これは、偉大なことで、神の御心を完全に行うことで現されます。肉によっては義とされません。御霊によって実現することです。肉の行いを殺し、御霊によって歩むことで義とされたのです。イエス様の歩みは、イエス様のうちにあって父が御業をされたのです。これは、信者の歩みの完全な模範でもあります。
ヨハネ
14:10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
14:11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。
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25:12 箱のために金の環を四つ鋳造し、その四隅の基部に取り付ける。一方の側に二つの環を、もう一方の側にもう二つの環を取り付ける。
箱のための四つの金の環を取り付けます。その環については、二つずつ二組として数えられています。
25:13 また、アカシヤ材で棒を作り、それに金をかぶせる。
25:14 その箱を棒で担ぐために、その棒を箱の両側の環に通す。
25:15 その棒は箱の環に差し込んだままにする。外してはならない。
この環は、担ぐ棒のためのものです。レビ人がそれを担ぎます。そのことは、環が二つということから、証しを表しています。合わせて四つということで、あらゆる方面あるいは全世界に証しをすることを表しています。その証しは、イエス様が義であるということです。
テモテ第一
3:15 たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。
3:16 だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
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神の家である教会での行動は、真理の教えの証しのためです。その敬虔の行動の完全な模範が主イエス様にあります。それは、肉を持つ中で歩まれて、霊において義とされたように神の御心を受け入れ従うことで義とされ、御使いの前のみならず、その方が全世界に証しされ、受け入れられ、父を満たす方として栄光の内に上げられたのです。
25:16 その箱に、わたしが与えるさとしの板を納める。
箱には、さとしを納めます。神の箱に関する比喩は、神の教えを行うことに関係していることがわかります。既に見たように、主イエス様は、その教えを行い、聖であることを表し、義を現されたのです。
■宥めの蓋
25:17 また、純金で『宥めの蓋』を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半とする。
「宥めの蓋」→「宥め」。ただし、この蓋以外に適用例はない。
長さは、半を単位として五つで、贖われた者としての歩みすなわち肉にはよらず御霊によって御心を行うことが表されています。
幅は、半で贖いと、三で神の完全さを表していて、贖われた者としての歩みが神の御心を行い完全であったことを表しています。
25:18 二つの金のケルビムを作る。槌で打って、『宥めの蓋』の両端に作る。
金のケルビムは、神の義を表しています。ケルビムに関して翼が記されていることで、これが天に属する存在であることが強調されています。金は、義を表しますが、神の義を表しています。二つ作られたことは、証しを担っていることを表しています。
25:19 一つを一方の端に、もう一つを他方の端に作る。『宥めの蓋』の一部として、ケルビムをその両端に作る。
蓋の名称が表すように宥めと関連してケルビムが証しを担っています。
25:20 ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする。
ケルビムの顔が蓋に向いていたことは、イエス様の歩みが御使いに見られており、また、神の義をもって見られていたことを表しています。蓋全体を覆うことで、全てが神の義をもって評価されたことを表します。
ケルビムは、宥めの蓋の方を向いていました。ケルビムにとって注目に値するのです。ケルビムは、金で作られ、義であることを表しています。御使いは、神の御心に背かずしもべとして完全に御心を行います。イエス様は、人となられてその神の御心を完全に成し遂げたのであり、肉体のない御使いにとって驚嘆なのです。翼を上の方へ広げ、宥めの蓋を覆っていたのは、そのことを表しています。関心がなければ、何の反応もなく、翼をたたんでいたでしょう。飛ぶ必要もないのに、翼を広げているのは、その驚きを表しています。金の翼が掲げられることで、宥めの蓋が表すイエス様の義を証ししています。ケルブが二つあることで、証しを表しています。
25:21 その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。
さとしを箱に収めることが語られているのは、これで二回目です。この蓋に関しても、神様の御心を行うことと関連しています。御心を全うし、完全な贖われた者としての歩みすなわち肉にはよらず御霊による歩みによって父は宥められるのです。
25:22 わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。
この箱は、イエス様の比喩になっています。ここには、初めて「あかしの箱」としされています。すなわち、証しの箱です。これは、すでに見たように、神の御心をご自分の心とし、御心を行われた方です。その方の証しを表しています。そのようにして、神を証ししたのです。
主は、そこからイスラエルの子らに向けて与える命令を二つのケルビムの間から語られます。主は、イスラエルの子らが命令を守ることを求めておられます。イエス様が神の御心を完全に行われたように、イスラエルが御心を行うことを求めておられます。イエス様が贖われた者しての義なる歩みによって父を宥められましたので、父は、人に命令を語ることができます。それは、人のうちにあって業をなす主イエス様は、父の目に適った、父を満たす業をされるからです。父の命令を行うことが人にとって不可能であれば、父の要求は決して満たされないことになります。イエス様が人のうちにあって業をなし、義の実を結ばせることに宥めを受けられるのです。
なお、これは、宥めを通しての交わりを表しているのではありません。
■机について
25:23 また、アカシヤ材で机を作り、その長さを二キュビト、幅を一キュビト、高さを一キュビト半とする。
聖書では、数値については、数値をそのまま比喩としている場合と、単位となる要素で分解する場合とが示されています。
ここでは、高さ一キュビト半が既に箱で見たように半を単位としていますので、半を単位として分解することを適用するのが適切です。
高さ、一キュビト半は、贖われたものとしての完全な歩みを表しています。
二は、四単位であり、あまねくということを表します。贖いとの関連で、贖いの及ぶ範囲を表しています。それは、直接的には、二によって証しを表していて、その証しがあらゆる方面に渉ことを表しています。
一は、二単位で、証しを表しています。証しを表す比喩の場合、何を証しするのかが示されないと意味がありませんが、直接的に表されている一は、独り子の御子の栄光を表します。机は、歩みにおける証しを表していて、独り子の御子の栄光が現されたのです。
25:24 これに純金をかぶせ、その周りに金の飾り縁を作り、
それは、聖なることであり、義であることです。
25:25 その周りに一手幅の枠を作り、その枠の周りに金の飾り縁を作る。
一手幅の枠は、二重構造です。内と外にいずれも金の飾り縁がありました。内と外は、義を現すという点では、心と肉体と言えます。すなわち、霊とたましいそして肉体による行いです。
手幅とその寸法を示すことで、これが手の行いと関連付けられています。内なるものの反映が外に現れる行いなのです。
25:26 その机のために金の環を四つ作り、四本の脚のところの四隅にその環を取り付ける。
25:27 環は枠の脇に付け、そこに机を担ぐ棒を入れる。
四つの環と担ぐ棒は、証しされるイエス様を表しています。環は、枠の脇に取り付けられ、その証しがイエス様の外に現れた行いであることを表しています。四は、あまねくということを表します。あらゆる人に証しされるのです。
25:28 アカシヤ材で机を担ぐための棒を作り、これに金をかぶせる。
担ぐ棒は、祭司が証しを担うことを表しています。それは、今日も信者によって担われています。信者自身がイエス様を現すことで証しとなっています。
25:29 また、注ぎのささげ物を注ぐための皿、ひしゃく、瓶、水差しを作る。これらを純金で作る。
机の上のパンについて記す前に、注ぎの捧げ物について示しています。注ぎの捧げ物は、葡萄酒を注ぎますが、葡萄酒については、酒槽の物と表現されるように、ぶどうの実を踏み潰すことで作られます。これは、イエス様が十字架に御自分を捨てたことを表しています。このことは、次の聖句に見ることができます。
ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
2:17 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
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ピリピでの不一致の問題に関して、肉を捨てることを勧めました。自分中心ではなく、他の人のことを顧みることを勧めたのですが、その模範がキリストです。十字架の死にまでも従われたことで神からの最高の栄誉を受けることになりました。そのように、自分を捨てることこそ価値があることを示したのです。その流れを受けて、パウロが示した模範は、注ぎの供え物になることです。自分もキリストと同じようにピリピの信者のために命を捨てることを注ぎの捧げ物で表現しています。注ぎの捧げ物は、自分を捨てることを表しているのです。このことは、テモテ、エパフロディトについても言え、自分のことを考えないで犠牲を払ったのです。注ぎの捧げ物は、自分を捨てることの偉大さを表しています。
ちなみに、注ぎの捧げ物が他のいけにえに添えられることをもって粗末な捧げ物と言われることがありますが、もしそうなら、パウロの犠牲はあまり価値のない犠牲であるということになります。それでは、自分を捨てることの模範にはならないのです。ピリピ二章の主題に沿って文脈を考えるならば、自分を捨てるという主題に沿って書かれており、模範として、キリスト、パウロ、テモテ、そしてエパフロディトのことが取り上げられているのであり、それぞれに関する記述も、自分を顧みない犠牲について示されています。パウロの犠牲だけが些細なものというのは、整合しません。
それは、純金で作られましたが、自分を捨てることが神の御心にかなった聖なるものであるのです。
25:30 机の上には臨在のパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。
「臨在のパン」と訳されていますが、神がともにおられることが強調されているのではなく、神が注目していることが強調されてます。
パンの詳細は、後にさらに語られますが、人としての主イエス様を表しています。人としての歩みに神は注目しておられたのです。
・「臨在の」→顔。顔や表面を表す。顔を向けているパンの意。後半の言葉が、絶えず神の前にあるようにすると記されていて、神が顔を向けていることが表現されています。ですから、このパンの名称としては、「見られているパン」あるいは「注目のパン」です。
■純金の燭台
25:31 また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作る。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁があるようにする。
次に燭台です。純金であることは、聖なることを表しています。六本の枝がついていることから、これが人を表していることがわかります。人となられたが、聖なる方であることが表されています。人としての歩みを通して聖なることが表されたのです。
燭台は、槌で打って作られました。宥めの蓋のケルビムも槌で打って作られ、蓋と一体のものとして作られました。三十六節にも、節と枝と燭台を一体として造ることが記されていて、槌で打って作ることは、一体のものとして作ることを表しています。
ちなみに、槌で打って作ることを「打つ」という語に着目して、イエス様が十字架上で打たれたことを表すという主張は、ケルビムも槌で打って作られたことを考えるときに、適用できないことから、十字架で打たれたことを表しているとはいえません。
25:32 六本の枝がその脇の部分から、すなわち燭台の三本の枝が一方の脇から、燭台のもう三本の枝がもう一方の脇から出る。
枝の数については、六と示されています。灯火皿は、七つですので、支柱の上に一つ載せられますが、ここに示されている数は、枝の数として六です。これは、人を表しています。六は、三と三を合わせた数になっています。三は、欠けのない完全さを表します。二組こあることは、証しを表していて、人としての歩みの中に完全さを御子の栄光として現されたことを表しています。
25:33 一方の枝に、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある三つのがくを、また、もう一方の枝にも、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある三つのがくを付ける。燭台から出る六本の枝はみな、そのようにする。
枝には、花弁のある節ががくとしてつけられます。がくは、アーモンドの花の形です。
アーモンドは、聖霊の比喩です。イエス様は、聖霊によって歩まれたことを表しています。
燭台では、オリーブ油が灯されます。油は、神の栄光を現すことを表し、アーモンドは、見張ることを表します。神様の言葉を実現しようと見張っているのです。そのように、イエス様の聖霊による歩みは神の御心の実現を常に求めていたのです。
25:34 燭台そのものには、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある四つのがくを付ける。
さらに、四により聖霊による歩みがあらゆる方面に及んだことを表しています。
25:35 それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。
25:36 それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作る。
枝が六つあることが示され、それらは、純金であって一体のものとして作られました。その数によって主イエス様が人として歩まれたことを表していますが、純金は、聖なることを表しています。その歩みによって聖なることが表され、神に対して聖なる方としての栄光が表されています。これらは、一つです。人となられて、神としての栄光を現されたのです。
25:37 また、ともしび皿を七つ作る。ともしび皿は、その前方を照らすように上にあげる。
灯火皿は、七つです。それは、前方を照らしました。それは、祭司だけが見る光で、主イエス様が聖霊によって栄光を現されたことを表しています。七は、満たす意味での完全さです。その栄光に限度はありませんが、完全な栄光を現されたことを示しています。
25:38 その芯切りばさみも芯取り皿も純金である。
芯は、灯火の光を妨げるものとなります。イエス様は、芯が切り取られたように、聖霊の働きが妨げられないように、肉を殺されたお方です。そのようにして、聖なることを現されたのです。
25:39 純金一タラントで、燭台とこれらのすべての器具を作る。
純金は聖なることを表しています。一タラントは、独り子の御子の栄光を表す数字です。
25:40 よく注意して、山であなたに示された型どおりに作らなければならない。
もう一度、示された型通りに作らなければならないと言われました。主イエス様の栄光を現すために、示された通りであることが必要なのです。
今日、教会において、真理の柱また土台として示された通りの証しを担うことは、幸いです。
■アーモンドについて
民数記
17:8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。
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杖が花を咲かせ実を結んでいたことは、主の選びを表していて、聖霊による選びの比喩です。そこには命があることを示し、花は、神の栄光を表し、そして、聖霊によって実を結ぶことを表しています。蕾があることは、継続して実を結び続けることを表しています。
エレミヤ書
1:11 主のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」
1:12 すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」
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アーモンドは、見張ることを表します。神様の言葉を実現しようと見張っているのです。そのように、イエス様の聖霊による歩みは神の御心の実現を常に求めていたのです。
黙示録
5:6 また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。
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目として表されている聖霊は、地に遣わされてそれを見ていることを表します。