出エジプト記20章
20:1 それから神は次のすべてのことばを告げられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
主は、初めにご自分が「あなた」をエジプトから導き出した、あなたの神、主であると名乗られました。あなたと二人称単数で呼びかけられました。これから語られる言葉は、一人ひとりが受け入れるべき言葉であるからです。一人ひとりの責任において、行うべき言葉であるのです。
「わたし」という言葉がわざわざ記されています。ヘブル語やギリシア語では省かれることが多い中、ご自分がその業をなしたことを強調されました。
エジプトの地は、奴隷の地でした。そこから導き出したと言われ、主が契約を果たし、豊かな祝福を与えたことを示しました。それは、彼らが喜んでその言葉に従う動機付けとなります。
神は、支配者を表し従うべき方、そして主は、契約の履行者です。神を恐れ従っていくことで、確かな祝福を受け継ぐのです。なお、この「神」は単数で記されています。
20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
他の神があってはならないと命じ、その神に従ってはならないことを命じました。
・「神」→複数形。
20:4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
自分のために彫られた像を造ってはなりません。それがいかなるものに似せても、いかなる形であっても、造ってはなりません。
・「偶像」→彫られた像。ここに初めて記されている。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。(なぜならば)あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
拝んではなりません。像を恐れて自分を低くすることを表します。また仕えてはなりません。服従する者として仕えることです。
その理由が示されていて、主は、妬む神であるからです。他の神に向かうことを決して許すことができません。それで、この方を憎む者には、父に報い、三代、四代にまで及ぼします。これは、必ず報いるというよりも、その影響が及ぶことを表しています。その子が神に向くのであれば、契約による祝福を受け継ぐ者になるのです。それは、当人だけの問題ではないことを警告しました。
・「拝む」→ひれ伏す。
・「仕える」→仕えること、耕すこと、(因果的に)奴隷にすること、など。
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
その方を愛し、その命令を守る者には、契約を忠誠をもって果たし千代にまで及びます。そのように、契約を果たすことはとこしえに揺るがないのです。
・「恵み」→契約に対する忠誠。
20:7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。
主の名を無益に口にすることを禁じました。無益に口にするならば、主は、その人を罰します。
必要であるならば、その名を口にしても問題ありません。必要な時にも恐れ多くて使うことができないというのは拡大解釈です。
・「みだりに」→無益(また副詞的に、無駄に)
20:8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
安息日を聖なるものとすることについて、これを記憶せよと。聖なるものとするとは、神のものとして捧げることです。
・「覚えて」→(認識できるように)印をつける」、すなわち「記憶する」。
20:9 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
仕事は、六日間働いて全て行うのです。
20:10 七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
20:11 それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
七日目は、あなたの神、主の安息です。主が創造の業を休まれたからです。主は、安息日を祝福し、これを聖なるものとされました。主のものとして取り分けられたのです。それで、誰もその日には、仕事をしてはならないのです。
レビ記二十三章には、さらに安息日についてその意味が明らかにされます。それは、永遠の安息が来ることを表しています。
レビ記
23:27 「特にこの第七の月の十日は宥めの日であり、あなたがたのために聖なる会合を開く。あなたがたは自らを戒め、食物のささげ物を主に献げなければならない。
23:28 その日のうちは、いかなる仕事もしてはならない。その日が宥めの日であり、あなたがたの神、主の前であなたがたのために宥めがなされるからである。
23:29 その日に自らを戒めない者はだれでも、自分の民から断ち切られる。
23:30 だれでも、その日に少しでも仕事をする者は、わたしはその人をその民の間から滅ぼす。
23:31 いかなる仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても代々守るべき永遠の掟である。
23:32 これは、あなたがたの全き休みのための安息日である。あなたがたは自らを戒める。その月の九日の夕暮れには、その夕暮れから次の夕暮れまで、あなたがたの安息を守らなければならない。」
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20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
父と母を敬うのです。それは、主に喜ばれることで、約束が伴っています。主が与えようしている相続地で長生きするためです。
父と母を敬うことは、極めて大切なことです。自分を生み出した父や母を敬わない者が、目に見えない神を敬うことはできません。神を敬うと言ったとしても、見せかけです。このことは、信者の成長に大きな影響を与えます。神を恐れていることの実践として、父や母を敬うことがあるからです。それをしないで、どうして神に喜ばれることができるでしょうか。
20:13 殺してはならない。
人は、神が造られたものであるからです。その命の支配は、神の主権によります。殺すことは、神の主権を犯す大きな罪です。
20:14 姦淫してはならない。
人の婚姻は、神と人との関係を表す比喩になっています。
婚外性交は、偶像礼拝と関連づけられます。また、それは、人を生み出す命に関わることです。
20:15 盗んではならない。
人に与えたものを勝手に自分のものとしてはならないのです。神様が与えているものを侵害して自分のものとしてはならないのです。
20:16 あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
人に対する評価は、神様が正しく行うことができます。人も人を判断しますが、偽りの証言は、それを覆すものです。正しいことを悪いとし、悪いことを正しいとすることになります。神様の前に全てが正しく判断されるために、偽りの証言をしてはならないのです。
20:17 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」
隣人の家を欲してはなりません。それを欲するならば、手に入れたいという思いに駆られ、ついには、それを不正に手に入れるからです。
20:18 民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた。
民は、主の栄光を見て、身震いしました。雷鳴は、神の御心を告げることを表しています。稲妻は、神の評価を表し、また、評価に達しないならば神の裁きをもたらすこと表しています。角笛は、事をなすときの合図です。煙ることは、裁きを表しています。それは、神の御心を告げるとともに、神の評価、そして、評価に適わないことに対する裁きを表していて、そのような栄光に耐えられませんでした。
20:19 彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」
彼らは、主が直接語ることに耐えられませんでした。主が語られることを行うことができないと考えたからです。主から評価されたら、死ななければならないと考えたのです。モーセが中間に入り、自分たちに語ることを求めました。
20:20 それでモーセは民に言った。「恐れることはありません。(なぜならば)神が来られたのは、あなたがたを試みるため(だから)です。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」
モーセは、恐れることはないと言いました。その理由は、神が来られたのは、民を試すためであるからです。彼らを裁くためにこられたのではないのです。彼らが見たものが主の栄光であることを彼らが信じるかどうかを試されたのです。彼らは、その栄光が神のものであることを認めました。彼らは、目の当たりにした方を「神」と言い表し、彼らの上に権威を持つ主権者として認めたのです。彼らは、この方が約束の地に導く「主」と考えることができませんでした。そのような方として信じているならば、彼らは、死を恐れる必要はなかったのです。ただし、彼らは、身を聖別していないので、恐れたのかもしれません。
また、このような光景を見せられたもう一つの理由は、その中で彼らに神への恐れが生じるためであり、それによって罪に陥らないためです。
20:21 民は遠く離れて立ち、モーセは神がおられる黒雲に近づいて行った。
民は、離れて立ちました。近づくことができなかったのです。モーセは、彼らの上に権威を持つ支配者としての神に近づきました。
20:22 主はモーセに言われた。「あなたはイスラエルの子らにこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたに語ったのを見た。
20:23 あなたがたは、わたしと並べて銀の神々を造ってはならない。また自分のために、金の神々も造ってはならない。
主がこのように神としての栄光を直接見せられたのは、この方が人の手によって造られる神々とは全く異なる方であることを示すためです。そのためには、天から直接語られました。人の手の業である偶像にはこのようなことはできないのです。民がこのことを心に刻んで、決して偶像を造らないように求めたのです。
それが銀であれ、金であれ、価値がないのです。「わたしと並べて」と記されていますが、神と並べることはできません。全く価値がないのです。
それでも人は、神と並べてさまざまな偶像を造るのです。それは、手で刻んだ像だけでなく、神に等しいあるいはそれ以上に価値あるものとして愛するものを持つのです。
20:24 あなたは、わたしのために土の祭壇を造りなさい。その上に、あなたの全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げなさい。わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。
また、祭壇を造るように命じられました。その祭壇は、一年後に完成する幕屋の前の青銅の祭壇とは違います。これは、土の祭壇です。そして、青銅の祭壇が完成すれば、それ以降、青銅の祭壇の上以外で捧げ物をすることは禁じられます。ですから、この土の祭壇を築く期間は、一年弱です。それでも、主は、祭壇を築くことを命じられました。それは、主が強く求めるところであるのです。
その祭壇は、全焼の捧げ物と「交わりのいけにえ→完全さのいけにえ」を捧げるためです。羊と牛を捧げます。
それは、祝福を伴っています。その祭壇は、主がご自分を覚えさせるための場所です。そこで、主はあなたに来て(臨み)、あなたを祝福されるからです。主イエス様を表す捧げ物を捧げることを望まれた神は、その捧げ物をするその人のところに来て、祝福されるのです。
・「交わりのいけにえ」→シャラム「完全さ」から来ている。感謝や平和ではない。これは、人のうちから捧げられる自主的な捧げ物で、人の視点から覚えられる主イエス様を表していて、その方の「完全さ」に注目されている捧げ物。人として、肉にはよらず神の御心を完全に成し遂げられたイエス様について覚える。ですから、捧げた人も、祭司も食べます。全焼の捧げ物は、神の視点から見たイエス様を表しています。
20:25 もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。
その祭壇を造るにあたっては、切石を用いてはなりません。それに、のみを当てることもしてはいけません。石は、ありのままのものを用います。それは、いわば神様がお造りになったものです。それに人の手を加えてはならないことを表しています。切石にし、のみを当てることで見栄えが良くなりますが、それは、人の手の作品です。主は、そのようなものを望まれないのです。
主に仕えることに関して、物質的であれ、教えにおいてであれ、人の考えや教えによって聖書の教えから離れることは、人の目によく見えたとしても、価値がないのです。神には、忌み嫌われます。
20:26 あなたはわたしの祭壇に階段で上るようにしてはならない。その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。
また、祭壇に階段で登ることをしてはなりません。その理由は、裸が現されないためです。これは、肉が現れることの比喩です。階段はまた、比喩としては、自分を高いところに置くことも表していますが、そのようにして、肉が現れてはならないのです。肉は、神の前には、価値がありません。それどころか、霊的なものを破壊する忌むべきものであるのです。それを現してはならないのです。