出エジプト記15章

15:1 そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。(なぜならば)主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。

 主の業を見、主の栄光見たモーセとイスラエルの子らは、主について歌いました。主について歌おうと。そして、その理由を述べて、主は、確かに高く上げられたからです。何を上げたか記されていませんが、ご自分の栄光を現すと言われた方は、ご自分の栄光を現し、御名を高く上げられたのです。そして、馬と乗り手を海の中に投げ込まれました。

・主に「向かって」→主について。

・「ご威光を極みまで現された」→確かに高く上げた。「上げる」が二語連なり、前の語は、 Infinitive Absoluteで「上げる」を強調している。

15:2 主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。

 主は、私の力です。主は、栄光を現すために、モーセとイスラエル子らを用いたのです。

 そして、私の褒め歌です。栄光を現されるがゆえに、賛美が相応しいのです。

 私の救いとなられました。それは、イスラエルに良いものをもたらすことで現された栄光です。彼らの救いとなられました。私と表現し、一人ひとりの経験として歌っています。

 それを受けて、この方こそ私の神と言い表しました。神は、支配者を意味します。私に良いものをもたらせましたが、それゆえ、その方を恐れて従うのです。

 それで、この方を褒め称えるのです。自分中心に考えるならば、感謝となりますが、従うべき神であり、褒め称えるのです。私の父の神です。これは、モーセの父の神です。主御自身がモーセに初めに現れられた時、あなたの父の神と名乗られたことを受けています。父が信じた神であり、信仰に応える神であるのです。その方を崇めます。

15:3 主はいくさびと。その御名は主。

 主は、戦いをする方として栄光を現しました。それは、その御名による栄光で、約束の履行者を表しています。その履行のために戦われたのです。

15:4 主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。

 主は、ファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれました。この当時のもっとも繁栄した大国の全軍を王とともに滅ぼされました。海の中に投げ込まれたのです。選り抜きの補佐官たちも葦の海に沈みました。

15:5 深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。

 深淵が彼らを覆いました。主を拒んだことに対して、光のない深淵に投げ込まれ沈んだのです。彼らは、真理の光を拒んだものであり、深淵に沈んだことは、それに対する裁きを表しています。

15:6 主よ、あなたの右の手は力に輝き、主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。

 右の手が輝くことは、その力によって栄光を現されたことを表しています。具体的には、敵を打ち砕かれました。

15:7 あなたは大いなるご威光によって、向かい立つ者たちを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それが彼らを刈り株のように焼き尽くす。

 贖いの偉大さの中に、向かい立つ者を打ち破られます。主の燃える怒りによって、彼らは、刈り株のように焼き尽くされます。

・「大いなる御威光によって」→贖いの偉大さの中に。

15:8 あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。

 水が積み上げられたというのは、海の水が壁をなして立ったことです。それは、主の鼻の息によりました。そのことは、強い東風が吹いていたことに符合します。それは、神の霊の働きを表しています。

15:9 敵は言った。『追いかけ、追いつき、略奪したものを分けよう。わが欲望を彼らによって満たそう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』

 敵が言った言葉が記されています。彼らは、イスラエルを滅ぼし、略奪しようとしていたと。しかし、ファラオは、イスラエルを労役から解放したことを悔いていました。ファラオは、軍勢の力で彼らを連れ戻す考えであったことが伺えます。しかし、このように彼らの言葉として表現することで、悪魔の比喩である彼らの本質は、彼らの欲望によって事をなそうとするのであり、神のものたちを滅ぼそうとすることです。それも、剣を用います。剣は、言葉の比喩です。多くは、判別力に優れた鋭い御言葉の比喩ですが、ここでは、悪魔が人を誘惑する判別の言葉です。神が与える祝福よりも、肉に従うことの幸いを優れたものとする判断を植え付け、人を神の前に実を結ぶことのない滅びに至らしめるのです。

15:10 あなたが風を吹かせられると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈んだ。

 主は、再び風を吹かせられました。これも、風の力によって事をなすということではなく、神の霊によって御業がなされたことを表しています。海は、彼らを覆い、彼らは、水に沈みました。鉛のようにと表現し、先の石のようにという表現と同じように、浮き上がることなく沈んだことを表しています。鉛は、さらに重いので、決して浮き上がることがないことを強調しています。

15:11 主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。

 主の偉大さが、称えられています。その偉大さは、神々も言うに及ばず、誰も及びないのです。そして、主は聖であって輝かれます。聖であることは、この世とは分離した真の祝福をもたらされるのであり、聖なるその栄光に輝いています。悪魔がもたらすものは、この世のものです。それをもって誘惑します。

15:12 あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを呑み込んだ。

 主の偉大さは、さらに、地が彼らを飲み込んだと言い表されています。これは、エジプトに対する主の業としてはありませんでした。しかし、地に飲み込まれたと表現し、彼らが地に属し、地のものを求める者として地に飲み込まれたと表現したのです。

15:13 あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。

 さらには、イスラエルの民を約束の地に導き入れることに言及されています。そこは、聖なる住まいです。

 彼らは、贖われた民です。主がエジプトから解放した民で、ご自分のものとされました。それは、主の契約によります。それを徹底的に果たされたのです。

 それとともに、これは、主が贖われた者をご自分の御国に導かれることの比喩になっています。悪魔の支配にあり、内住の罪の奴隷であった者を贖い出されたのです。それは、信仰に応えたことであり、契約の履行なのです。そして、御国に導き入れることも信仰に応え、契約を果たすことによって行われます。そこは、主の御住まいであり、主が中心におられ、その栄光を拝することができます。

・「恵み」→契約に対する忠誠。

15:14 もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。

15:15 そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者たちを震えが襲い、カナンの住民の心はみな溶け去った。

 イスラエルを導く主の業を見て、異邦人たちは恐れました。主の導きのうちに行くとき、恐れる必要がないことを教えています。これから進んでいく地の住民たちが、それを聞いて恐れたと言い表しました。

15:16 恐怖と戦慄が彼らに臨み、あなたの偉大な御腕により、彼らは石のように黙った。主よ、あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。

 主は、そのように彼らに恐怖と戦慄を臨ませ、彼らを黙らせました。

15:17 あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。主よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。

 そして、主は、相続地まで導くことを言い表しています。そこは、主の御住まいのための地です。主は、そこに民を植え、臨在されるのです。彼らは、そこまで見据えて賛美しました。

15:18 主はとこしえまでも統べ治められる。」

 そして、そこで主がとこしえに統べ治められると言い表し、主の臨在と主の御支配が永遠のものであることを認めています。それが、イスラエルに相続地を与える目的です。

 私たちは、御国において、永遠の資産を受け継ぎ、主の臨在のもとに永久にその栄光を拝することができます。その祝福に与っています。

15:19 ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。

 主がなさったことがもう一度繰り返して記されています。それは、ファラオの馬が戦車と騎兵と共に海の中に入った時、主が海の水を彼らの上に戻されたこと、しかし、イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を歩いて行ったことです。偉大な主の栄光として記されています。

15:20 そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。

15:21 ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。(なぜならば)主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」

 その時、ミリヤムは、女預言者として歌いました。女たちは、踊りながら出て来て主の業の偉大さを称えました。ただし、声を出したのはミリヤムです。

 ミリヤムは、歌いました。主に向かって歌えと。それは、主が(ご自分を)確かに上げられたからです。馬と乗り手を海の中に投げ込まれたからです。

・「ご威光を極みまで現され」→「上げる」が二語連なっている。infinitive absolute。確かに上げる。

15:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。

 イスラエルは、三日間荒野を歩きましたが、水が見つかりませんでした。

 水は、御言葉の比喩で、命を養うものを表しています。主は、それを与えないという経験をさせました。それで、彼らは、心からそれを求めるようになるのです。

15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。

 主がイスラエルに最初に与えた水は、苦くて飲むことができませんでした。この記事は、過越の祭りから始まる信者の歩みに関する霊的な経験が、時系列的に記されている中での一つです。

 過越は、信仰による救い。

 種を入れない祭りは、聖い生活。

 雲と火の柱は、聖霊のバプテスマ。聖霊による導き。

 紅海を渡ることは、水のバプテスマ。世との分離。

 水は、御言葉を表しています。御言葉によって生きること。

 ただし、この水は、苦い水でした。生来の人にとって、御言葉を行うことは、快いものではないことを表しています。

15:24 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。

 民は、飲むものがないことで不平を言いました。これは、比喩になっていて、人は、満たされることを求めますが、喜んで神の言葉に従う思いがないのです。神の言葉は、彼らの口には合わないのです。

15:25 モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、

 モーセは、そのような民のために主に叫びました。主は、一本の木を示されました。モーセがそれを水に投げ込むと水が甘くなりました。

 これは、御言葉を喜んで行う者に変えられることの比喩です。木は、イエス様を表しています。特に十字架の御業による死を表しています。それは、イエス様の愛の現れであり、その愛に応えて信仰により歩む者となるのです。神の言葉を喜んで受け入れ、従う者になります。御言葉は、口に甘くなるのです。

15:26 そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。(なぜならば)わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」

 主は、試みられました。それは、本当に御言葉に従うかどうかを試みられたのです。水を苦いものから甘いものに変えられたことが行われた時に、このことが記されることで、この水が御言葉を表していて、それを喜んで受け入れ従うかどうかが問われていることが分かります。すでに、御言葉を甘いものとし、受け入れる動機づけが与えられたのです。

 主は言われました。あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、主の目に適うことを行い、その掟を行うならば、病気を下さないというものです。

 あなたの神は、民にとっての主権者を表しています。主権者としての神の言葉であるから従うのです。また、主と言われました。主は、存在者を表しますが、それとともに約束の履行者を表します。神が約束したことを果たされる方であることを信じるのです。そして、御声に確かに聞き従うのです。主の目に適うことを行うのです。私たちから出た考え、肉の思いなどではなく、主の目に適うことを行うのです。命令に耳を傾けるのです。よく聞くのです。そして、掟を漏らすことなくことごとく守るのです。

 なぜならば、主は、癒す方です。より健全にされます。不健全な状態にはされないのです。

・「確かに聞き従う」→「聞く」が二語連なっている。infinitive absolute。確かに聞き従う。

15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。

 水の泉は、御言葉によって働く聖霊の比喩です。十二は、神の支配を表しています。聖霊によって神の御心を行い、神に服従して生きるのです。自分を主張しません。肉にはよらず、御霊によって歩むのです。イエス・キリストを信じた者が、肉に死に、御霊によって新しく生まれた者として生きることの比喩です。

 なつめ椰子の木は、成長を表していて、主イエス様の身丈に達することを表しています。七十は、七によって満たす意味での完全さを強調しています。それは、御霊により御言葉を行って生きるところに実現します。

 マラに続く水の泉は、聖霊によって神の御言葉に従い御心を行う者が、到達するところを示しています。それは、主イエス様の身丈です。主と同じもの変えられるのです。