出エジプト記12章

12:1 主はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。

12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。

 この月がイスラエルとって最初の月とされます。新しい始まりを表しています。過越の子羊は、イエス様を表していて、イエス・キリストに対する信仰によって、新しい歩みが始まることの比喩となっています。

12:3 イスラエルの全会衆に次のように告げよ。この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。

12:4 もしその家族が羊一匹の分より少ないのであれば、その人はすぐ隣の家の人と、人数に応じて取り分けなさい。一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。

 この月の十日に、基本的に家ごとに一匹の羊か山羊を用意します。それは、一人ひとりが食べる分量に応じたものです。人数の大小により調整されます。それは、羊を食べることは、すべての者に課せられた義務であるからです。食べなくて良いということはないし、残してはならないのです。それは、選ばられた者がキリストに与らないということがないことを示すため、また、選ばれた人の必要を完全に満たすことを表すためです。それ以外の者が与ることはできません。

 キリストを信じて義とされることと、キリストを信じてキリストによって歩むことは、選ばれて信じた者の特権であり、それぞれが信仰によって獲得することです。

12:5 あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。

 子羊か子山羊は、彼らが飼っているいる群れからのものです。御子は、人の間にお住みになられました。一歳の雄は、人となられた神の独り子の御子を表しています。

・「羊」→群れの中の一員。

12:6 あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、

12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。

 それは、十日に取られ、十四日までよく見守られ、夕暮れに屠られます。十は、到達点の比喩です。要求されたことを満たしたことを表しています。なすべき御心を完全に行われたのです。また、傷がないのです。神様の御心に完全に適ったことが表されています。

 これは、五日間ですが、五は、御心を行うことが表されています。見守られるのですが、人の前にも、御使いの前にも見られたのです。その方が神の御心を行うがどうかが評価されました。

 キリストは、完全でした。そして、御心を行うことにおいて、これを成し遂げられたのです。これは、信者がキリストを信じて義とされ、また、その歩みのうちに御心を行うことにおいて、信者の信仰に応えてキリストがその人のうちにあってなす業が義であることを保証するものです。

 その血は、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗られます。それは、羊を食べる人の信仰の表明です。羊を食べることは、キリストを受け入れることの比喩です。その人は、その血のゆえに義とされます。罪の赦しが与えられるのです。

12:8 そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。

 過越のいけにえは火に焼いて食べられました。それは、神の裁きを免れるという比喩の中でキリストを受け入れることを表していますが、キリストを受け入れる時、火によって表される神の評価をもって受け入れることを表します。人間的な見方、この世の評価などでキリストを判断するのではないのです。神がその御子を屠り、身代わりとされたことを覚えます。

 種なしパンは、人として清い歩みをされたイエス様を表しています。それは、旅路の清さの模範者を覚えることにもなります。

 苦菜を添えることは、キリストの苦難を覚えることになります。その犠牲の偉大さは、愛の現れです。その愛に応えて働く信仰によって歩むのです。

12:9 生のままで、または、水に入れて煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。

 生のままで食べてはなりませんでした。それは、見た目のままの評価で、人間の見方で判断することを表しています。

 水に入れて煮て食べてはなりませんでした。この食べ方は、祭司が火によって捧げられたいけにえの、祭司に与えらるために残された部分を食べる時の方法です。それは、神に仕える信者が、キリストを覚えることを表しています。信者の完全な模範者であるキリストを覚えることになります。一方、過越は、信仰によって義とされることを表していて、その時覚えるキリストは、模範者として覚えるわけではありません。神が、神の御子と評価するその方を覚えて信じるのです。神が聖なる方として遣わされた神の御子を信じるのです。キリストがいかに素晴らしい人かと覚えても、その人に救いはありません。

12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは燃やさなければならない。

 それは、朝まで残してはなりませんでした。基本的には、食べ切ることが求められています。キリストの一部を受け入れ、受け入れられない部分があるとして、受け入れないことがあってはならないのです。

 それでも実際は残ることがあるのですが、それは燃やされます。人が覚えきれないものでも、火によって焼かれるように、神様がご自分のものとされます。

12:11 あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは主への過越のいけにえである。

 その食べ方が示されました。旅支度で食べるのです。腰の帯は、力強い活動のためです。足の履き物は、力強い歩みのためです。手の杖は、神の権威の比喩です。人の想いや願いの旅ではないことを表しています。

 急いで食べます。キリストを信じて義とされた者は、もう旅路の始まりにあるのです。キリストによって歩む旅に出るのです。いつまでも、自分が永遠の滅びから救われたことだけを味わっていてはいけないのです。

 しかし、自分が滅びから救われたことだけを喜びとしている人がいます。確かに、キリストの十字架の愛を覚えることは非常に大事ですがそこに止まっていてはいけないのです。その愛によって働く信仰が大切であり、その愛は、信仰によって私たちのうちにおられるキリストによって歩む強い動機付けになります。その愛によって働く信仰によって、旅を始めなければなりません。

12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。

 その夜に、主は、エジプトの人から家畜に至るまで、長子を打ちます。そして、そのことは、エジプトの神々に対する裁きでもあります。それらは、エジプトを守ることができないのです。主の前に無力であることが明らかになるのです。

12:13 その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。

 その血は、イスラエルの人々のための印です。主がその血をご覧になられてそこを過ぎ越すからです。裁きの対象は、長子です。また、群れからのものは、家単位で取られています。比喩としては、家の一つ一つが、信仰によって裁きを過ぎ越される信者の比喩になっています。キリストの血のゆえに裁きを免れるのです。キリストが代わりに命を捨てたことを表しています。

12:14 この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。

 それは、記念となり、その日を主のための祭として守ります。世々守るべき永遠の掟です。主は、黙示録で、屠られた子羊として示されています。それは、主の永遠の栄光です。

・「主への祭り」→主に関しての(主のための)祭りの集まり。人のためではない。

・「祝い」→輪になって動くこと、すなわち(具体的には)神聖な行列で行進すること、祭りを観察すること。暗示的には、めまいがすること--祝うこと、踊ること、(厳粛な)祝祭(休日)を(守る、保持する)こと、行ったり来たりすること。

12:15 七日間、種なしパンを食べなければならない。その最初の日に、あなたがたの家からパン種を取り除かなければならない。最初の日から七日目までの間に、種入りのパンを食べる者は、みなイスラエルから断ち切られるからである。

 七日間は、種なしのパンを食べます。それは、信者がパン種と言われている歩みを汚すものから清められることの比喩です。信者の歩みにそのようなものがあってはならないのです。七は、満ちる意味での完全を表していて、この時代の終わりまでの期間です。

コリント第一

5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

 新しい粉は、清さを表しています。そのために古いパン種を除くのです。それは、教会の信者は、パン種のないものとされているからです。そのことを過越と関連づけ、種なしパンの祭りが表している比喩を示しました。その祭りの期間は、パン種が除かれます。そのように、キリストが屠られ、贖いの業が実現しました。キリストを信じる者は、義とされます。そして、キリストを信じて歩む者は、肉にはよらず聖霊によって歩むものとされているのです。パン種がない者とされているのです。

 なお、自分には、肉があって清い歩みはできないと考える人は、自分が信仰により御霊によって歩むことで肉を殺し、神の御心を行うことができるということを信じていないのです。そのことを信じて清く歩むのが本来の信者の姿なのです。パン種のない者なのです。

5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

 古いパン種を用いることは、不品行のような肉欲による行いをすることです。肉欲が古いパン種です。

 悪意と不正は、心から出てくる悪い考えによります。

 純粋で真実なパンは、パン種が入らないパンです。祭りを行うことは、信者が受けている祝福を覚えるとともに、神に栄光を帰すことになります。

--引用終わり

12:16 また最初の日に聖なる会合を開き、七日目にも聖なる会合を開く。この期間中は、いかなる仕事もしてはならない。ただし、皆が食べる必要のあるものだけは作ることができる。

 最初の日の聖なる会合と、最後の日の聖なる会合は、いかなる労働もしてはならない日として定められています。すなわち、人が自分のために労働することが許されておらず、主の聖なる日として主に捧げられるのです。レビ記二十三章には、聖なる会合と労働をしてはならないことが必ず組み合わされて記されています。

 さて、この二つの聖なる会合に挟まれた期間中は、聖なる日とされて、いかなる仕事もしてはならないとされています。これは、比喩となっていて、種なしパンの祭りの期間と重なります。キリストを信じた者が、御前に引き上げられるまでの期間は、自分のために生きることをやめる期間であることの比喩です。神に捧げられた日として神のために生きることが求められています。実際、信者の歩みは、もはや自分のために生きません。肉に従う歩みをやめます。御霊によって神の御心を行う者として歩むのです。

レビ記

23:1 主はモーセにこう告げられた。

23:2 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。

23:3 六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。あなたがたは、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。

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 ただし、食べる必要のある物は、人が神のために生きるために体を養う必要があるからです。人は、神のために生きるために、体を大切に保つことも大事なことです。

12:17 あなたがたは種なしパンの祭りを守りなさい。それは、まさにこの日に、わたしがあなたがたの軍団をエジプトの地から導き出したからである。あなたがたは永遠の掟として代々にわたって、この日を守らなければならない。

 種なしパンの祭りを守るもう一つの理由が示されています。それは、この日にエジプトからイスラエルの軍団を導き出したからです。エジプトは、世を表しています。世から導き出された者として、世に属するパン種のない者として、これを守るのです。これは、世に対する証しのためです。

12:18 最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種なしパンを食べる。

12:19 七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。すべてパン種の入ったものを食べる者は、寄留者でも、この国に生まれた者でも、イスラエルの会衆から断ち切られる。

12:20 あなたがたは、パン種の入ったものは、いっさい食べてはならない。どこでも、あなたがたが住む所では、種なしパンを食べなければならない。」

 種なしパンを食べてはならない期間について、さらに厳密に示されています。十四日の夕方は、群れからのものが屠られる日です。二十一日の夕方までです。

 パン種の入った物を食べる者は、民から断ち切られます。すなわち、殺されます。それは、イスラエルの会衆にあってはならないことなのです。そこに属する会衆の誰一人として食べてはならないのです。

 住む所は、彼らが生きて生活するところを表しています。清い歩みが求められています。教会に集う時だけ清いことが求められているわけではなく、生活の全てにおいて清いことが求められています。

12:21 それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。

12:22 ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。

 モーセは、イスラエル長老たちみなを呼び、群れからのものを取って屠るように命じました。ヒソプの束を取って、鉢の中の血に浸します。ヒソプは、植物のなかで最も低いところに位置するものとして聖書に記されていますが、キリストの謙りを表しています。命を救う尊い血を塗るのに、上等な布は使われませんでした。その血は、キリストが最も低いところにまで下られて流された血を表しています。

 そして、朝まで誰一人自分の家の戸口から出てはなりませんでした。主を恐れ、血の力を信じる者は、家にとどまるのです。

12:23 主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。

 主が行き巡られるのは、エジプトを打つためです。唯一過ぎ越される方法は、鴨居と二本の門柱に血が塗られていることです。それ以外の条件は、ありません。キリストにより神の裁きを免れる比喩になっていますが、その裁きを過ぎ越されるのは、キリストの血によります。その家の者がどのような者であるかによらないのです。神の言葉を信じ、その血のゆえに裁きを過ぎ越されると信じることによるのです。

12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。

12:25 あなたがたは、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。

 その儀式は、相続地で永遠に守るのです。

12:26 あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、

12:27 あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。

 そして、それを子供たちに語り伝えるように命じられました。このように命じられることで、これから起こることが間違いない確実なものであることを示しています。民は、それを聞いてひざまずいて礼拝しました。

12:28 こうしてイスラエルの子らは行って、それを行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

 イスラエルの子らは、主を確かに信じたので礼拝したのです。そして、命じられた通りに行いました。

 神の約束を確かなことと信じた者は、そうするのです。私たちが御国の相続を確かなこととして信じているならば、心はそこにあるのです。地上のものを求めることはありません。

マタイ

6:19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。

6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。

6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

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12:29 真夜中になったとき、主はエジプトの地のすべての長子を、王座に着いているファラオの長子から、地下牢にいる捕虜の長子に至るまで、また家畜の初子までもみな打たれた。

 真夜中に、主は、エジプトの地の全ての長子と家畜の初子を打たれました。

12:30 その夜、ファラオは彼の全家臣、またエジプト人すべてとともに起き上がった。そして、エジプトには激しく泣き叫ぶ声が起こった。それは死者のいない家がなかったからである。

 ファラオをはじめ、全てのエジプト人は、激しく泣き叫びました。

12:31 彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立って、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って主に仕えよ。

12:32 おまえたちが言ったとおり、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」

 その夜、ファラオは、モーセとアロンを呼び出し、彼らの言葉通りに出て行き、主に仕えるように言いました。そして、自分のために祝福を祈れと命じました。彼は、主に逆らう者ですが、神に従うことをしない者の祝福は望むべくもありません。

12:33 エジプト人は民をせき立てて、その地から出て行くように迫った。人々が「われわれはみな死んでしまう」と言ったからである。

 エジプト人は、自分たちも皆死んでしまうと思い、イスラエルの民をせき立てて出ていくように迫りました。

12:34 それで民は、パン種を入れないままの生地を取り、こね鉢を衣服に包んで肩に担いだ。

 主は、すでにパン種を入れないパンを食べるように命じられましたが、実際的にも、彼らは、パン種を入れる余裕がありませんでした。

12:35 イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。

12:36 主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。

 さらに、彼らはエジプト人から、銀の飾り、金の飾りと服を求めました。エジプト人は、彼らに好意を持っていたので、求めを聞き入れました。そのことについてはぎ取ったと表現されています。何も残さないほどに貰い受けたのです。

 エジプト人は、銀、金、そして衣服を豊かに持っていましたが、主を知らない彼らにはふさわしくないものでした。銀は、贖われた者の歩みすなわち新しく生まれた者として肉にはよらず聖霊による歩みの比喩です。金は、義の比喩です。服は、自分を覆うことを表しています。それらは、神に従う者にこそふさわしいのです。

 それらのものは、幕屋の建設の時には、主に捧げられます。銀、金、衣服によって表される彼らの結んだ実は、キリストの栄光を現すものとなります。

12:37 イスラエルの子らはラメセスからスコテに向かって旅立った。女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった。

 彼らは、ラメセスからスコテに向かって旅立ちました。徒歩の壮年男子は、約六十万人です。

12:38 さらに、入り混じって来た多くの異国人と、羊や牛などおびただしい数の家畜も、彼らとともに上った。

 彼らの中には、入り混じって来た多くの異国人がいました。また、おびただしい家畜が共に上りました。

12:39 彼らはエジプトから携えて来た生地を焼いて、種なしのパン菓子を作った。それにはパン種が入っていなかった。彼らはエジプトを追い出されてぐずぐずしてはいられず、また自分たちの食糧の準備もできなかったからである。

 彼らは、種なしのパンを焼きました。パン種が入っていませんでした。その余裕がなかったからです。主は、最初から完全な形でそれが行われるようにされました。種なしのパンは、清い歩みを表していますが、信仰の旅路の初めからそうあるべきなのです。私たちは、だんだん清められれば良いと考えがちですが、初めから清められるべきなのです。

12:40 イスラエルの子らがエジプトに滞在していた期間は、四百三十年であった。

12:41 四百三十年が終わった、ちょうどその日に、主の全軍団がエジプトの地を出た。

 エジプトでの滞在期間は、四百三十年です。

 四百は、四つの百です。百は、聖別を表します。四は、あまねくことを表し、あらゆる方面において聖別されることを表しています。

 三十は、三と十からなり、三は、神の完全さを表し、十は、到達点を表します。

 これは、イスラエルが世を表すエジプトから分離し、聖別されたことを表しています。あらゆる点において聖別されたのです。完全な分離を表しています。このことも、種なしパンが表す清い歩が旅路の最初から始まったように、世との完全な分離による聖別は、この時からなのです。

12:42 それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。

 主は、彼らをエジプトの地から導き出すために、寝ずの番をされました。それで、イスラエルの子らは皆、代々にわたり、主のために寝ずの番をします。

 主のために眠らないのです。これは、霊的に目覚めていることの比喩です。主の愛に答えて、主のために眠らないのです。

12:43 主はモーセとアロンに言われた。「過越に関する掟は次のとおりである。異国人はだれも、これにあずかってはならない。

12:44 しかし、金で買われた奴隷はだれでも、あなたが割礼を施せば、これにあずかることができる。

12:45 居留者と雇い人は、これにあずかってはならない。

 過越に与ることができない者がいます。それは、異国人です。ただし、金で買われた奴隷で割礼を施すことで与ることができます。寄留者と雇人も与ることができません。

 異国人は、神の民ではないことを表しています。

 割礼は、肉を捨て、神の前に全き者として歩むことを表明することを表します。神の民とされた者です。

 寄留者は、そこに定住する者ではないのです。神の民として、神を信じて従う者ではないことを表しています。

 雇人は、金のためにそこにいるだけで、全く信仰によらない人です。

12:46 これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。

 それは、一つの家の中で食べます。それは、血によって守られているのは、その家の中であるからです。外に持ち出すことは、その血の効力を無にします。それは、血を信じていないのと同じです。キリストの救いの根拠が別にあるかのように考えることを表しています。

 骨は、その人の持つ教えを表しています。この場合は、キリストの教えです。その教えを表す骨を折ることは、教えられた通りに受け入れるのでなく、人の手を加えることを表しています。あるいは、キリストの教えを否定することを表しています。

12:47 イスラエルの全会衆はこれを行わなければならない。

 イスラエルの全会衆が行います。一人も漏れる者はないのです。一人ひとりが行うべきものなのです。家族の誰かが行えば良いというものではありません。一人ひとりの信仰にかかっています。

12:48 もし、あなたのところに寄留者が滞在していて、主に過越のいけにえを献げようとするなら、その人の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうすれば、その人は近づいてそれを献げることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。

 寄留者が過越を行おうとする場合です。「主に関して」と記されていて、単に食べるということでなく、主を信じた者として過越を行う人のことです。もちろん単に食べることも許されません。その寄留者の家の男子は、皆割礼を受けなければなりません。そうすれば、近づいてそれをすることができます。

・「主に」→主に関して。

・過越の「いけにえを捧げる」→する。守る。

・「近づく」→何らかの目的で近づく(使役的に、近づける)。

12:49 このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの間に寄留している者にも同じである。」

 適用される教えは、同じです。規定から外れたことはできません。

12:50 イスラエルの子らはみな、そのように行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

 イスラエルの子らは、命じられた通りに行いました。これは、尊いことです。

12:51 まさにこの日に、主はイスラエルの子らを、軍団ごとにエジプトの地から導き出された。

 主は、この日、イスラエル子らを軍団ごとにエジプトの地から連れ出しました。彼らは、軍団とみなされています。主のために戦う者たちであるのです。