出エジプト記38章

38:1 また彼は、アカシヤ材で全焼のささげ物の祭壇を造った。 長さ五キュビト、 幅五キュビトの正方形で、 高さは三キュビトであった。

 祭壇については、「全焼の捧げ物の祭壇」と呼ばれています。その主たる目的は、全焼のいけにえを捧げることです。神に全く受け入れられて、神様を宥めたイエス様を表す捧げ物が捧げられることを目的としています。

 なお、罪のための捧げ物も捧げられますが、その捧げられる部分は、脂肪であって、それも主イエス様の栄光を表すものとなっています。

 寸法の五は、御心を行うことを表しています。正方形であることは、四面が五キュビトであり、あらゆる方面において神の御心を行うことを表しています。

 三は、完全を表します。欠けのない完全さです。それは、御心を行うことにおいて完全であることです。

38:2 その四隅の上に角を作った。その角は祭壇から出ているようになっていた。彼は祭壇に青銅をかぶせた。

 四隅の角は、権威を表していて、捧げ物は、主イエス様を表していますが、角は、神の権威を表しています。その寸法によって表されていることは、神の捧げ物に対する要求を表しています。主イエス様は、それを満たされた方です。

 青銅は、人としての歩みにおける聖さを表しています。神にふさわしい聖さの要求です。それは、御心を行うことで実現し、現されます。

38:3 彼は、祭壇のすべての用具、すなわち、壺、十能、鉢、肉刺し、火皿を作った。そのすべての用具を青銅で作った。

 壺は、血を入れる器。十能は、灰を掻き出す道具。鉢は、十能との関連から灰を入れる器。肉刺しは、肉を取り上げる道具、火皿は、祭壇の火を入れる器。いずれも青銅で、捧げ物の全てが聖なるものとして扱われます。

38:4 祭壇のために、その下の方、すなわち、祭壇の張り出した部分の下に、祭壇の高さの半ばに達する青銅の網細工の格子を作った。

 祭壇の上半分は、火と捧げ物が置かれ、神のための部分です。下半分は、灰の回収のためで人のためです。人は、主がご自分をお捨てになったことを表す灰と共に、主の記憶を表す灰を受け取ります。

・「張り出した部分」→枠。

38:5 四個の環を鋳造して、青銅の格子の四隅で棒を通すところとした。

 四個の環は、主イエス様の聖さがあらゆる方面に証しされるためです。それを担うのは、祭司です。

38:6 彼はアカシヤ材で棒を作り、それらに青銅をかぶせた。

 棒も、聖さを表すものになっています。

38:7 その棒を祭壇の両側にある環に通して、それを担ぐようにした。祭壇は、板で、中が空洞になるように作った。

 空洞であることは、祭壇の意味は、そこにいけにえが捧げられるための器であるということです。祭壇自体は、神様の要求であり、そこにいけにえが捧げられることで、初めて神にとって価値あるものになります。実際、捧げられたいけにえが表すように、神様を宥める捧げものであったのです。

38:8 また、青銅で洗盤を、また青銅でその台を作った。会見の天幕の入り口で務めをした女たちの鏡で、それを作った。

 洗盤は、宮で仕える祭司たちが手と足を洗い、また、その水を浴びるためです。これは、神に仕える者が御言葉によって身を清めることを表しています。手と足は、行いと歩みの比喩です。洗うことはそれを聖なるものとするのです。全身は、全てを表していて、自分の身を聖なるものとして捧げることを表しています。

 その青銅は、女たちの鏡で造られました。今まで、自分の身を整えるために自分を映していました。洗盤は、霊的比喩としては、その人を聖めるために用いられるのです。その働きは、御言葉によります。

 イエス様ご自身、御言葉により、ご自分を聖別されました。

出エジプト

30:19 アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。

30:20 彼らが会見の天幕に入るときには水を浴びる。 彼らが死ぬことのないようにするためである。 また、彼らが、主への食物のささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、

30:21 その手、その足を洗う。彼らが死ぬことのないようにするためである。これは、彼とその子孫にとって代々にわたる永遠の掟である。」

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ヨハネ

17:17 真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

17:18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

17:19 わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。

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 御言葉は、真理です。真理は、神の御心を行うことです。御言葉は、神の御心を示しています。真理そのものではなく、それを指し示しています。イエス様は、父の御言葉に従うことで、御心を全うされ、十字架の業をも成し遂げられました。

 弟子たちに関して、「真理によって聖別されるためです」と言われ、真理は、御心を行うことであるのです。御言葉を読むだけで聖別されるわけではありません。御言葉によって示されている御心を行うことで聖別されるのです。

38:9 彼はまた、庭を造った。南側では、庭の掛け幕は撚り糸で織った百キュビトの亜麻布でできていた。

 亜麻布は、人となられて清い歩みをされたことを表しています。百は、聖別を表します。

38:10 柱は二十本、その台座は二十個で青銅、柱の鉤と頭つなぎは銀であった。

 柱は、二十本で、その間隔は、五キュビトで御心を行うことを表しています。二十は、聖なることを表しています。二十自体も、五を単位として四です。それは、あらゆる方面に御心を行うことを表し、それによって現される聖なることを表しています。このように、百は、聖別された歩みを表しています。それは、イエス様が現された栄光です。

 青銅は、聖なることを表しています。銀は、贖われた歩みを表しています。すなわち、肉にはよらず、聖霊による歩みです。

38:11 北側も百キュビトで、柱は二十本、台座は二十個で青銅、その柱の鉤と頭つなぎは銀であった。

 北側が表すものも同様です。

38:12 西側には五十キュビトの掛け幕があり、柱は十本、その台座は十個、その柱の鉤と頭つなぎは銀であった。

 西側は、十本です。十は、到達点を表しています。五十は、御心を行い、完全に成し遂げたことを表しています。

ヨハネ

17:4 わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。

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38:13 正面の東側も五十キュビト。

 東側は、正面となり、長さは、五十キュビトです。これは、西側と同様に、御心を行い、成し遂げたことを表しています。

38:14 門の片側には、十五キュビトの掛け幕と、柱が三本、台座が三個あった。

38:15 庭の門の両側をなすもう一方の側にも十五キュビトの掛け幕があり、柱は三本、台座は三個であった。

 門があり、その両側は十五キュビトです。それは、五を単位として、三です。これは、五によって表される御心を行うことにおいて、完全に行うことを表しています。御心を行う程度の完全さです。

38:16 庭の周囲の掛け幕はみな、撚り糸で織った亜麻布でできていた。

38:17 柱のための台座は青銅で、柱の鉤と頭つなぎは銀、柱頭のかぶせ物も銀であった。それで庭の柱はみな、銀の頭つなぎでつなぎ合わされていた。

 亜麻布は、人としての清い歩みを表しています。青銅は、聖なること、銀は、贖われた歩みを表しています。

38:18 庭の門の垂れ幕は、刺繍を施したもので、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布でできていた。長さは二十キュビト、高さ、あるいは幅は五キュビトで、庭の掛け幕に対応していた。

38:19 その柱は四本、その台座は四個で青銅であった。その鉤は銀であり、柱頭のかぶせ物と頭つなぎは銀であった。

 庭の門の垂れ幕は、長さ二十キュビト、幅は、五キュビトです。これは、布の寸法で、これが掛けられる時、高さとなります。柱は、四本て、五キュビトの間隔です。五は、御心を行うことを表していて、四は、あまねくことを表しており、あらゆることにおいて神の御心を行ったことが表されています。幕は、全周にわたって、五キュビトの高さであり、御心を行うことでの聖別を表しています。

 刺繍は、イエス様の四つの面を表しています。神に近づくものが最初に見るのは、イエス様の栄光です。聖い歩みの中にその栄光を見るのです。

38:20 ただし、幕屋とその周りの庭の杭は、みな青銅であった。

 青銅は、聖なることを表しています。

 

38:21 幕屋、すなわち、あかしの幕屋の記録は次のとおりである。これはモーセの命によって記録されたもので、祭司アロンの子イタマルのもとでレビ人が奉仕したことであった。

 幕屋に関することは、記録されました。いつまでも覚えられるためです。

38:22 ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルは、主がモーセに命じられたことをことごとく行った。

 ベツァルエルは、主が命じられたことを成し遂げました。神の栄光が表されるためには、命じられた通り完成することが必要です。

38:23 彼とともに、ダン部族の、アヒサマクの子オホリアブがいた。オホリアブは、彫刻をする者、意匠を凝らす者、また青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺繍をする者であった。

 オホリアブは、詳細が示されていない部分について、これを神にふさわしく仕上げる役割において、力を発揮した人です。

 聖書にも、なすべきことの全てが記されているわけではありません。一人ひとりの経験は、異なります。置かれたところにおいて、いかに神の栄光を現すかは、それぞれが御心をよく覚え判断しなければならないことです。

38:24 聖所の設営のすべてにおいて、その仕事のために用いられた金、すなわち奉献物の金の総計は、 聖所のシェケルで二十九タラント七百三十シェケルであった。

 金は、義を表しています。その数字は、以下のように構成されています。

二十九→九と二十。九は、七と二で完全な証し。これは、仮庵の祭りの牛の捧げ物から。二十は、五を単位として四つで、あらゆる方面に御心を行うことであり、聖なることを表している。五を単位とすることは、膜屋の寸法に頻繁に見られる。

七百三十→七つの百と三十。七は、完全。百は、聖別。三十は、原語は三で、完全さを表し、十二よって到達点を表しています。また、五を単位として、六つで、人として御心を行うことを表しています。人として御心を行い、完全に聖別されたことを表します。

38:25 登録された会衆による銀は、聖所のシェケルで百タラント千七百七十五シェケルであった。

 銀は、贖いを表す。すなわち、肉にはよらず、御霊による歩みです。その数値は、以下のとおりです。

百→聖別。

千七百七十五→一つの千と、七つの百と、五と、七十。一は、独り子の御子の栄光。七は完全。百は、聖別。五は、御心を行うこと。七十は、七が十個で、完全に到達すること。御心を完全に、全て成し遂げ、完全に聖別され、独り子の御子の栄光を現したこと。

38:26 二十歳以上で登録された者が全部で六十万三千五百五十人だったので、これは一人当たり一ベカ、聖所のシェケルで半シェケルである。

 銀の量は、登録された人数に応じて、贖い銀として納められたものです。一人当たり、一ペカであり、半シェケルです。量としては、半シェケルですが、一ペカであると示されているのは、一は、独り子の御子の栄光を表しているからです。これは、一人一人の信者が御子の栄光を現すことを表しています。

 その数値は、以下のとおり。

六十万三千五百五十→六っつの百の千と、三っつの千と、五つの百と、五十。六は、人を表し、百は、聖別を、五つは、御心を行うことを、百は、聖別を、五十は、五を単位として十で、身心を完全に成し遂げることを表しています。人として聖別され、御心を行って聖別され、御心を完全に行うことです。これは、聖別されることが示されていて、次第に詳細にその意味が示されています。御心を完全に行うことで聖別され、独り子の御子の栄光を現すのです。

38:27 聖所の台座と垂れ幕の台座を鋳造するのに用いた銀は百タラントで、百個の台座に百タラント用いた。一タラントで一個の台座である。

 銀は、贖いを表しています。百は、聖別を、一は、独り子の御子の栄光を表しています。肉にはよらず、御霊による贖われた者としての歩みにより聖別され、独り子の御子の栄光を表します。

38:28 また、千七百七十五シェケルで柱の鉤を作り、柱の頭にかぶせ、頭つなぎで柱をつないだ。

 すでに見たように、この数字は、御心を完全に、全て成し遂げ、完全に聖別され、独り子の御子の栄光を現すことを表しています。

 いずれも、肉にはよらず御霊によって歩まれたことが、独り子の御子の栄光を表しています。それは、一人ひとりの贖われた者としての歩みにおいて実現し、一人ひとりが独り子の御子の栄光を現す者となるのです。

38:29 奉献物の青銅は七十タラント二千四百シェケルであった。

 青銅は、清さを表しています。その数値は、以下のとおり。

七十→完全に成し遂げること。

二千四百→二千と、四つの百。二千は、大いなる証し。四は、あまねく。百は、聖別。あらゆる点において聖別され、証しを立てること。

38:30 これを用いて、彼は会見の天幕の入り口の台座、青銅の祭壇と、それに付属する青銅の格子、および祭壇のすべての用具、

38:31 また、 庭の周りの台座、 庭の門の台座、幕屋のすべての杭、庭の周りのすべての杭を作った。

 青銅は、人の目に見える場所で使われました。それは、人に対する証しの面が含まれています。神の前にあらゆる点において清められることで、聖別され、その証しが立てられるのです。