レビ記19章

19:1 主はモーセにこう告げられた。

19:2 「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。

 主は、イスラエルに聖であることを命じられました。それは、あなた方の神、主が聖であるからであると、主の特性に基づくことを示されました。聖は、分離していることを表し、俗なるものと対比されます。世俗とは分離し、崇高の高さにおられることを表します。

 人に求められた聖は、次節以降に示されている掟を守ることで実現します。人が聖なるものとされることは、具体的には、神の御心を行うことであるのです。祭壇の一辺が五キュビトであることは、神の御心を行うことを表しています。その寸法は、神の要求を表していて、捧げ物として表されているイエス様は、それを満たされた方として神を宥められます。

19:3 それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 自分の父と母を恐れなければなりません。それは、父と母がその人を産み出した方々として、霊的比喩として神の立場にあるからです。神を恐れることを父と母を恐れることで、身をもって現すのです。逆に言えば、父と母を恐れない人が、神を恐れていると言うことは出来ません。実際の歩みの中に、神を恐れることを現すことは、神の言葉に対する信仰に基づくものです。口先だけの信仰ではないことを証明することができます。

 「わたし」の安息日を守らなければなりません。人が安息を守り、また、人のために備えられています。また、奴隷も休むことができることが指摘されています。しかし、本質的には、主のものです。聖なるものとして、これを守るのです。それは、その安息が、主が創造の業を終えて休まれたことを表し、また、永遠の安息が来ることを表しており、それらを証しするものであるからです。主の栄光を証しするものとして安息日があるのです。

 神は、主権者として支配者を表します。主は、永遠の存在であり、約束の履行者を表します。父と母を恐れることは、その主権者である方を恐れることを表し、また、安息日は、その方の創造者としての主権を認め、その方の約束の履行の確かさを証しするものなのです。

19:4 あなたがたは偶像の神々に心を移してはならない。また、自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 偶像の神に心を移してはならず、自分たちのために鋳物の神々を造ってはならないのです。このかただけが主権者であり、支配者です。それ以外のものに従ってはならないのです。また、この方は、永遠の存在者であり、自分のために何もできない偶像を造ってはならないのです。

19:5 あなたがたが交わりのいけにえを主に献げるときは、自分が受け入れられるように献げなければならない。

19:6 それを献げた日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは火で焼かなければならない。

19:7 もしも、三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは不浄なものとなり、受け入れられない。

19:8 それを食べる者は咎を負う。主の聖なるものを冒したからである。その人は自分の民から断ち切られる。

 「交わりのいけにえ」は、自分が受け入れられるように捧げなければなりません。そのいけにえは、捧げた人も、祭司も食べることができます。しかし、三日目にそれを食べるならば、聖なるものを冒したことになり、その人は、受け入れられません。三日目に食べることで、それは、不浄のものとなるからです。これは、進んで捧げる捧げ物です。いけにえに与ることは、その人も捧げ物として表されているイエス様を覚えることに与ることを表してます。しかし、三日目まで残しておくことは、その人が進んでそれを覚えることを願っていないことの現れになります。もちろん体調不良で食べられないこともありますが、その場合には、火で焼くことで、主に捧げることができます。三日目に食べることは、主に捧げる心もなく、また、進んでいけにえによって表されるイエス様の栄光を覚える心もないことの表明になります。それは、形式的な捧げ物であり、その行為によって、捧げ物の価値を著しく低いものにしてしまうのです。イエス様の栄光を地に落とすことになります。捧げ物をそのように扱う者を父が受け入れられるはずもありません。父にとっては、愛する御子です。却って父の怒りを買うことになります。その人は、民から断ち切られます。殺されるのです。

19:9 あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。

19:10 また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 隣人を愛することを具体的に示すことについて記されています。畑の隅々まで刈り尽くしてはなりません。また、葡萄畑の実を取り尽くしてはなりません。葡萄畑に落ちた実を拾い集めてはなりません。その理由が記されていて、貧しい人と寄留者のために残しておくためです。生産の手段を持たないので貧しいのです。寄留者は、相続地を持ちません。そのような人たちが飢えないために、畑に残しておくのです。それは、隣人を愛する愛の実践です。ここにも、わたしは、あなた方の神、主であると記されています。主のものとして主によって愛され、祝福を受け継いだのです。ですから、主の民の幸いを図るべきなのです。力無い者の弱さを担うべきなのです。

19:11 盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。

 これらの犯罪は、互いを害することであり、愛とは真逆です。してはならないのです。

19:12 あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

 主の名によって偽って誓ってはなりません。それは、その人が神とする方の名を汚すことになります。そのようなことをすれば、その人が神を恐れていないことが明らかになるのです。

 また、わたしは主であると言われ、存在者であることを語られました。生きて存在される方であり、人のごまかしが効くような方でないことを示されました。

19:13 あなたの隣人を虐げてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで自分のもとにとどめておいてはならない。

 隣人を虐げてはなりません。自分が力ある者だと思えば、隣人を虐げることもあるのです。それは、人間の間の力関係しか見ていないからです。自分の権力や、財力、力、または、相手の無力さなどを見て、虐げるのです。それは、職場や地域、学校などの人間関係においてはしばしば見られるものです。相手が神の前には、尊い存在であることを見ていません。しかし、信者の間では、決してあってはならないことです。そして、すべての人に対してもあってはなりません。

 掠めてはなりません。神がその人に与えた所有権を無視します。

 日雇い人の賃金は、日雇い人にとっては、毎日必要な日々の必要です。それを朝までとどめておいてはなりません。配慮が必要なのです。

19:14 あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしは主である。

 耳の聞こえない人について、耳が聞こえないだけで人は軽んじるのです。目の見えない人に対してもそうです。目の見えない人のために、躓くことがないように、躓く物を置いてはなりません。

19:15 不正な裁判をしてはならない。弱い者をひいきしたり強い者にへつらったりしてはならない。あなたの同胞を正しくさばかなければならない。

 不正な裁判をしてはなりません。具体的には、弱い者をひいきしたり、強いものにへつらってはなりません。正しく裁かなければなりません。彼らは、同胞です。愛すべき一人ひとりであり、偏ってはならないのです。

 教会において、指導者は、時として裁かなければなりません。事の良し悪しを判定しなければならないのですが、正しく裁かなければなりません。

19:16 あなたは、民の中で人を中傷して回り、隣人のいのちを危険にさらすことがあってはならない。わたしは主である。

 民の中で人を中傷することは、してはなりません。それは、隣人の命を危険ゆ晒すことになります。命に関わることを主は見過ごされません。

 私たちは、他人の悪口を言いやすいのです。それを言うことで自分が満たされるからです。他の人を悪く言うことで、自分を高くすることができるからです。

19:17 心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。そうすれば、彼のゆえに罪責を負うことはない。

 自分の兄弟が正しく歩んでいない時に、その兄弟を憎んではならないのです。むしろ、よく戒めなければなりません。それは、愛による行為です。兄弟のことを愛するので戒めるのです。それをしないと、彼のために罪責を負うことになります。放置したからです。戒めることは、また、なすべき義務なのです。

19:18 あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。

 自分に対して悪を行った人に復讐してはならないのです。自分の民の人々に恨みを抱いてはなりません。むしろ、そのような人であっても、隣人として、自分自身のように愛さなければなりません。わたしは主であると語られ、このことを堅く守るように言われます。

 自分に悪いことをした人を赦せず、恨みを持つことは、しばしば起こることです。兄弟の間においてもそのようなことは起こるのです。夫婦の間にも起こることです。しかし、決してそうしてはならないのです。

19:19 あなたがたは、わたしの掟を守らなければならない。

 主の掟を守るように言われました。

あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、あなたは二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。

 異なる種類のものを一緒にしてはなりません。主は、それぞれの種類に従って創造されました。それぞれには、神様の目的があるのです。神の主権による創造に従うのです。

創世記

1:11 神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。

1:12 地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。

1:21 神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。

--

19:20 男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ贖われていないか、あるいは自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。

 別の男に決まっている女奴隷と性交した場合、女が贖われておらず、あるいは自由を与えられていない場合には、女が自由の身でないので殺されません。

 人が信仰によって義とされる以前に犯した罪について、信者に対する裁きを適用することはできません。しかし、人が義とされ、御霊によって罪の奴隷から解放されてから犯す罪については、処罰されます。

19:21 その男は、主への償いとして、代償のささげ物の雄羊を会見の天幕の入り口に持って行く。

 彼は、罪のための捧げ物を会見の天幕の入り口に持って行きます。

・「代償の捧げ物」→罪あるいは、罪禍の捧げ物。

19:22 祭司は彼が犯した罪のために、その代償のささげ物の雄羊によって、主の前で彼のために宥めを行う。彼はその犯した罪を赦される。

 その雄羊によって、宥めがなされます。彼は、罪を赦されます。これは、罪が赦されるための捧げ物です。

19:23 あなたがたが、かの地に入り、どんな果樹を植えても、その実はまだ禁断のものと見なさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって禁断のものであり、食べてはならない。

 どんな果樹でも、植えてから三年の間、決して食べてはなりません。三によって完全さが表されています。その結ぶ実は、完全さが要求されています。肉による努力によって良いと見られる業をなしたとしても、神に受け入れられることはありません。聖霊によって全てのことがなされて初めて価値ある実として結ばれるのです。御霊に満たされて歩む人でなければ、神にとって価値ある者とはなりません。

19:24 四年目に、その実はすべて聖なるものとなり、主への賛美のささげ物となる。

 四年目は、四によってあまねくということを表しています。あらゆる点において、御霊によって実を結ぶならば、それは、神への賛美の捧げ物となります。その実が神に栄光を帰すのです。

19:25 五年目に、あなたがたはその実を食べることができる。あなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、主である。

 五年目は、五によって御心を行うことを表しています。御霊によって、御心を行うならば、それを食べることができます。その人の報いを御国で永遠の資産として受け継ぐことを表しています。実を結ぶことでその人が栄光を受けることになります。

 主は、御心を行うことにおいて、永遠の命として御国の資産を受け継ぐようにされました。そのことを覚える人は、さらに熱心になります。そして、さらに実を結ぶようになり、収穫を増すことになります。

ルカ

12:34 あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。

--

19:26 あなたがたは何でも血が付いたままで食べてはならない。まじないをしてはならない。占いをしてはならない。

 血は、食べてはなりません。それは、以下の聖句に説明されています。

レビ記

17:11 実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。

 それは、祭壇の上でたましいのための宥めを行うため与えられています。肉の命は、血の中にあるとあるように、血は、命を表しています。その命によって宥めを行うのです。宥めを行うのは、主イエス様の血です。それを表すものとして血を与えているのです。ですからその血を自分の欲の満たしのために食べてはならないのです。それは、神様のものです。神が、イエス様の血の尊さを覚えるためのものなのです。

 今日、イエス様の血について覚えるならば、それは、神のためのものであることを覚えるべきです。自分自身の満たしのために覚えるべきものではないのです。

--

 また、まじないをしてはいけません。まじないは、その背後に悪霊が働いています。また、神の主権を犯すものです。占いもそうです。

19:27 あなたがたの頭のもみあげを剃り落としてはならない。ひげの両隅を損なってはならない。

 頭のもみあげを剃り落としてはなりません。また髭の両隅を損なってはなりません。これらの毛は、自分を覆うことを表しています。神の前に人のあるべき姿は、自分を覆うことです。

レビ記

13:29 男あるいは女で、頭か、ひげに疾患があるとき、

13:30 祭司はその患部を調べる。もしそれが皮膚よりも深いところに見え、そこに細い黄色の毛があるなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これは疥癬で、頭またはひげのツァラアトである。

--

19:28 あなたがたは、死人のために自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入れ墨をしてはならない。わたしは主である。

 体は、神様が与えたものです。全ての機能を必要なものとして与えられました。入れ墨は、傷にはなりませんが、見た目を変えるものです。そして、自分を飾るものであるのです。神様が与えたものをそのまま感謝して受け取ることが幸いです。それを傷つけたり、自分を現すために変えるべきではないのです。

19:29 あなたの娘に淫行をさせて汚してはならない。地が淫行に走り、地が淫らな行為で満ちることのないようにするためである。

 自分の娘に淫行をさせてはなりません。使役語幹が使われていて、父が強いて淫行を行わせることです。そのようにして決して汚してはならないのです。「汚してはならない」の部分は強意語幹が使われています。地が淫行に満ちることがないためです。父は、娘を従わせる権威があります。それは、神からのものですが、それを神の前に汚れを行わせるために決して用いてはならないのです。

19:30 あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。

 「わたしの安息日」を守るのは、その日は主が聖なるものとされ、これを守るように定められたからです。それは、主の天地の創造を証しし、永遠の安息を証しするものであるからです。聖所は、主がともにおられることを約束された、主が臨在されるところです。単なる幕屋と考えてはならないのです。主が臨在されるのであれば、主を恐れるように恐れなければなりません。

 今日、バンと杯によって主を覚えることが命じられています。また、教会は、主が「わたしもそこにいるからです」と言われたように、主がおられます。それで、主への恐れに相応しく守り、振る舞うべきなのです。

19:31 あなたがたは霊媒や口寄せを頼りにしてはならない。彼らに尋ね、彼らによって汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 霊媒や口寄せは、自分の直接的な求めに答えます。信仰により、主の御心を行い、主に委ねて歩むことよりも、はるかに容易に道を知ることができます。明瞭簡単なのです。しかし、彼らに尋ねることは、自分を汚すことになります。主に求めず、悪霊に求めるからです。

19:32 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。

 白髪の老人を敬わなければなりません。それは、主を恐れることと関連づけられています。白髪は、神様の栄光の現れを表しています。同じように、白髪は、神様が栄えの冠として与えたものです。それは、神様を敬うことにつながります。白髪の老人の前では起立して、その敬意を現すのです。白髪の老人を敬わず、軽く扱ったりするならば、神を恐れているとは言えません。

箴言

16:31 白髪は栄えの冠。それは正義の道に見出される。

20:29 若い男の栄誉は彼らの力。老人の輝きはその白髪。

--

ダニエル書

7:9 私が見ていると、やがていくつかの御座が備えられ、『年を経た方』が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。

--

19:33 あなたがたの国、あなたのところに寄留者が滞在しているなら、その人を虐げてはならない。

19:34 あなたがたとともにいる寄留者は、あなたがたにとって、自分たちの国で生まれた一人のようにしなければならない。あなたはその人を自分自身のように愛さなければならない。あなたがたも、かつてエジプトの地では寄留の民だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。

 自分の国に寄留者が滞在しているなら、その人を自分と同じように愛し、虐げてはなりません。自分の国に生まれた一人のように、同胞のように扱うのです。彼らは、エジプトの地で寄留者でした。その苦しみを知っているはずです。

19:35 あなたがたは、さばきにおいて不正をしてはならない。物差しにおいても、秤においても、分量においても。

19:36 正しい天秤、正しい重り石、正しい升、正しい容器を使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から導き出した、あなたがたの神、主である。

 あらゆることにおいて不正をしてはならないのです。裁きも、物差しも、秤も正しいものを用いなければなりません。主は、彼らをエジプトから導き出した主であると語られ、彼らを奴隷の地から解放したことを覚えさせました。この世の欲に従い不正をしてはならないです。主に相応しくなることが求められています。

 彼らが奴隷であったことは、悪魔の支配のもとにあり、内住の罪の奴隷であったことを表しています。そのような状態の時は、悪魔の誘惑により、内住の罪の働きによって、肉欲のままに生き、汚れた者であったのです。しかし、そこから贖われて、御霊によって歩むようになった者が、罪の奴隷として歩んではならないのです。主に相応しく、自分を愛して命を捨てた方の愛に応え、信仰によって御霊により生きなければならないのです。それで、不正をしないのです。

19:37 あなたがたは、わたしのすべての掟とすべての定めを守り、それらを行いなさい。わたしは主である。」

 守るべきは、主の全ての掟と定めです。