レビ記15章

15:1 主はモーセとアロンにこう告げられた。

15:2 「イスラエルの子らに告げよ。だれでも、隠しどころから漏出があったなら、その漏出物は汚れている。

15:3 その漏出物による汚れは次のとおりである。その隠しどころが漏出物を漏らしても、あるいは、その隠しどころが漏出物をとどめていても、そのことはその人の汚れである。

 漏出は、人のうちから出るものとして汚れています。

 その漏出物をとどめていても汚れるとされます。それは、外には出さないが、心から悪いものが出ている状態のことで、それでもすでに汚れています。

マルコ

7:15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」

7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。

7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」

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15:4 漏出を病む者が寝た床は全体が汚れる。またその人が座った物もすべて汚れる。

 漏出を病む人に触れることは、その人と交わることを表していて、その影響を受け汚れるのです。

15:5 その床に触れた者はだれでも自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。

 それは、さらに二次的な影響を及ぼします。その人は、衣服を洗います。肉からの悪いものが外に現れることのないように、洗うのです。水を浴びることは、御言葉によって教えられることを表しています。御言葉に立ち返って清めます。

 服は、自分を覆うものを表しています。漏出は、内から出てくる汚れを表していて、それは肉から出てきます。それを覆うことがなかったのです。それで、服を洗い、自分の肉を覆う歩みを再び始めることを表しています。

 夕方まで汚れます。すぐに清められることはないのです。漏出を病む当人ほど長くありませんが、清められるためには時間を要します。

15:6 漏出を病む者が座った物の上に座った者は、自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。

15:7 漏出を病む者の隠しどころに触れた者も、自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。

15:8 漏出を病む者が、きよい人に唾をかけたなら、唾をかけられた人は自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。

15:9 漏出を病む者が乗った鞍は全体が汚れる。

15:10 また、何であれ、その人の下にあった物に触れた人はだれでも夕方まで汚れる。また、それを運んだ者も自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。

 その他、漏出を病む人の触ったものや、隠しどころに触れる者は、同じように、服を洗い、水を浴びます。彼は、夕方まで汚れます。

15:11 また、漏出を病む者が水で手を洗わずに触れた人はみな、自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。

 漏出を病む人が水で手を洗わず人に触れるならば、その人は汚れます。服を洗い、水を浴びます。彼は、夕方まで汚れます。水で手を洗うことは、御言葉によって行いを清めることを表しています。そのようにして清めた上で触るならば、人に触れても汚れることはないのです。

15:12 漏出を病む者が触れた土の器は砕く。木の器はどれも水で洗う。

 漏出を病む人が触れた土の器は、砕きます。木の器はどれでも、水で洗います。土の器と木の器の扱いは異なります。土の器は、人の比喩で、しかも、この世に属するものを表しています。この世の判断や思いなどが、他の人のうちから出る汚れで汚れる時、それを清めることはできません。砕いて捨てる以外にないのです。木は、霊的成長の比喩です。霊的な成長を遂げた人が、汚れを受けた時、御言葉によって清めることで再び用いることができます。土の器については、以下の聖句を参考にできます。

コリント第一

3:1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。

3:2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

3:3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。

3:4 ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。

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 コリントの信者の中には、キリストを信じたけれども、肉に属する人がいました。彼らを清めるための固い食物としての御言葉は、彼らには無理でした。肉を捨て、御霊によって歩むことを彼らは学ぶことはできないのです。無理なのです。

15:13 漏出を病む者が漏出からきよめられたときは、自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに新鮮な水を浴びる。こうしてその人はきよくなる。

 漏出からの清めは、自分の判断によります。七日を数えて自分の衣服を洗います。内から汚れたものを出したことを清めます。

 生ける水を浴びることは、聖霊によって歩むようになることの比喩です。もはや、肉からのものではなく、聖霊によって歩むのです。

・「新鮮な水」→生ける水。

15:14 八日目に彼は自分のために山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、主の前、会見の天幕の入り口に行って、それらを祭司に渡す。

 八日目は、新しい始まりを表しています。彼は、新しく生まれた者としての歩みを再び始めるのです。

 山鳩か家鳩のひな二羽を取り、会見の天幕の入り口で祭司に渡します。鳥は、イエス様の比喩で、特に神としてのイエス様を表しています。ひなは、神の御子を表しています。

15:15 祭司はそれらのうち、一羽を罪のきよめのささげ物とし、もう一羽を全焼のささげ物とする。こうして祭司はその人のために、主の前で漏出物のゆえに宥めを行う。

 一羽は、清めのための捧げ物とします。もう一羽は、全焼の捧げ物です。内から出てくるものは、肉から出て来るのです。それに対しては、神の御子の模範が必要なのです。神の御子がご自分を捨てた偉大さを覚えることになります。罪の清めのための犠牲の偉大さによる愛の大きさを覚えます。そして、ご自分を捨てたがゆえに、すべての名にまさる名を受けられた栄光の尊さを覚えます。その模範は、ピリピ二章に見ることができます。

15:16 男が精を漏らしたときは全身に水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。

15:17 精が付いた衣服と皮はすべて、水で洗う。それは夕方まで汚れる。

 精は、体のうちから出てくるものを表していて、心から出てくる汚れの比喩です。

 そこからの清めは、水を浴びること、衣服については、水で洗うことです。全身に水を浴びることは、御言葉によって清めることを表しています。

15:18 男が女と寝て交わったなら、二人はともに水を浴びる。彼らは夕方まで汚れる。

 男女の交わりにおいても、体のうちから出てくるものが、心から出てくる汚れの比喩になっています。

 清めは、御言葉を表す水を浴びることによります。

15:19 女に漏出があり、漏出物がからだからの血であるなら、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は夕方まで汚れる。

 女の漏出で、それが血である場合、月のさわりと同じようになります。彼女に触れる者は夕方まで汚れます。これは、人のうちから出てくるものが、心から出てくる汚れの比喩なっています。

 特に血の場合には、血は命を表していて、そのような汚れは、命を失わせるものであることを表しています。

15:20 彼女の月のさわりの時に使った寝床は全体が汚れる。また、彼女が座った物もすべて汚れる。

 彼女が月の障りの時に使った寝床、また、座った物は、すべて汚れます。汚れに触れたからです。これは、心のうちから、すなわち、肉から出てくるものに触れるならば、影響を受けることを表しています。

15:21 彼女の床に触れた者はだれでも自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その人は夕方まで汚れる。

 その清めは、御言葉を表す水を浴びることで、御言葉によって清められることを表しています。

15:22 また、何であれ、彼女が座った物に触れた人はだれでも自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。

 また、特に、彼女が座った物に触れた人は、衣服を洗います。特に、汚れの影響が強い物に触れるからです。服は、覆う物を表していて、肉を覆うことを表しています。その点に関して、特に清めるのです。そして、御言葉を表す水を浴びるように、全てを御言葉に適うように清めるのです。

15:23 彼女の床であれ座った物であれ、それに触れたなら、その人は夕方まで汚れる。

 彼女が触れた物に触れるならば、夕方まで汚れます。清めのために、時間を要することを表しています。肉の影響を除くことは、簡単でないことを表しています。

15:24 また、もしも男が彼女と寝るようなことがあるなら、彼女の月のさわりが移って、その人は七日間汚れる。彼が寝る床も全体が汚れる。

 月のさわりの期間に、男が彼女と寝るようなことがあるなら、彼女の月のさわりが彼に移ります。それで、七日間汚れ、彼が寝る床も全体が汚れます。

15:25 女に、月のさわりの期間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出があるか、あるいは月のさわりの期間が過ぎても漏出があるなら、その汚れた漏出がある間中、彼女は月のさわりの期間と同じように汚れる。

 さらに、月のさわりの期間を過ぎても、血の漏出がある場合には、月のさわりの期間と同じように汚れます。

15:26 その漏出の間は、彼女の寝た床はすべて、月のさわりの時の床と同じようになる。彼女が座った物はすべて、月のさわりの間の汚れのように汚れる。

 彼女が寝た床、また、彼女が座った物は、夕方まで汚れます。

15:27 だれでも、これらの物に触れた人は汚れる。その人は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。

 誰でも、これらのものに触れた人は、汚れます。清めのために、衣服を洗い、水を浴びます。夕方まで汚れます。

15:28 女が漏出からきよくなったら七日を数え、その後、彼女はきよくなる。

 漏出から清くなった時、彼女自身のために、七日を数えます。その後、清くなります。

 初めの「きよくなったら」と後の「きよくなる」は同じ原語が使われています。漏出が止まったことについて、清くなったという期待が込められた言葉となっています。彼女自身のためにと記すことで、彼女が清くなることに対して期待が込められていることがわかります。

 イエス様は、長血を患った女が、イエス様の衣のふさにこっそり触った時、彼女が清められたことを心から喜んでおられたことを知ることができます。そして、神の御子キリストに対する信仰のゆえに、彼女が救われたことを喜びとされたのです。彼女の罪は赦され、義とされたのです。これからは、さらなる祝福のために全き歩みをするように勧めたのです。

「あなたの信仰があなたを救ったのです。完全さのうちに行きなさい。」と。

15:29 八日目に彼女は自分のために山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、それらを会見の天幕の入り口の祭司のところに持って行く。

15:30 祭司は一羽を罪のきよめのささげ物とし、もう一羽を全焼のささげ物とする。祭司は彼女のために、主の前で汚れた漏出のゆえに宥めを行う。

 彼女は、捧げ物として、山鳩二羽か、家鳩のひな二羽を取り、会見の天幕の入り口の祭司のところを持って行きます。神の前に聖めをするためです。

 一羽は、清めの捧げ物で、一羽は、全焼の捧げ物です。清めの捧げ物は、雛が表すように、神の御子の犠牲の偉大さを表しています。自分を覆われ、十字架の死にまでも従われたことです。それは、肉を現した者の清めの完全な模範となっています。全焼の捧げ物は、神がそれらの全てを受け入れられ喜びとされたことを表しています。それゆえ、すべての名にまさる名を与えられました。御子の栄光の偉大さを表しています。

 

15:31 あなたがたは、イスラエルの子らをその汚れから離れさせなさい。彼らが、彼らのただ中にあるわたしの幕屋を汚し、自分たちの汚れで死ぬことのないようにするためである。」

 これらのことが命じられているのは、イスラエルの子らをその汚れから離れさせるためです。それは、彼らのただ中にある幕屋を汚し、自分たちの汚れで死ぬことがないためです。

 幕屋は、教会の比喩です。彼らが肉によって、自分の心からの汚れたものを教会に現すならば、教会全体が汚れたものとなります。教会は、神の神殿としての聖さがあります。聖霊の宮なのです。教会のすべての活動は、御霊によります。御霊が信者を変えキリストを現す者とし、賜物を与え、ご自分の御心のままに用いられるのです。しかし、それを破壊するのが肉による振る舞いです。

 肉によって歩んだならば、死なのです。永遠の滅びに入ることではなく、神の前に生きた者として歩むことなく、実を結ばず、御国において報いを受けることのない状態のことです。御霊によらなければ、生きた者として歩むことはできません。

コリント第一

1:5 あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。

1:6 キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。

 コリントの信者への恵みが豊かになっているとする根拠をここに記しました。コリントの信者は、キリストの証しが確かなものとされました。これは、言葉による証言のことではありせん。彼らがキリストによって歩んでいるという歩みのことです。五節と六節を結ぶ接続詞は、「~に従って」という意味です。もし、両者が言葉に関する事であるならば、このような接続詞で繋ぐことはありません。

 六節の「〜からです。」と理由を説明している記述は、五節のことを受けています。言葉と知識が豊かなものとなった理由です。ただし、直訳では、「キリストについての証しがあなた方の中で確かになったように(確かになった程度に応じて)、すべてのことにおいて言葉と良い知識といいキリストにあって豊かにされました。」言葉と知識において豊かになるためには、キリストの証しが確かになる必要があります。

 そのように、キリストの証しが確かなものとなることで、彼らの言葉、知識も豊かにされるのです。

 もし、私たちが御言葉を理解し、知りたいと願うならば、キリストがそうであられたように、神の御心のうちだけを歩む者になることです。そうすれば、知識が豊かになります。そして、確かな正しい身についた知識は、他の人を励ますことができます。良い言葉を語ることができるのです。

・→「キリストの証があなた方の中で確かなものとなったことに従って、あなた方は、全ての点において、あらゆる言葉とあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。」

・「証し」→証拠となるもの。証言。

・「キリストについての証し」→キリストの証し。それは、彼らがキリストによって歩んでいるという証しです。

1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。

 その結果、彼らがどんな賜物にも欠けることのない者とされたのです。与えられた賜物は、キリストの証しが確かになること、言葉、知識において豊かにされる結果として与えられます。キリストの証しが確かになるとは、御霊がその人を通してキリストを現すことです。信仰により、御霊による歩みがあるから可能なことです。そうすれば、あらゆることにおいて、また言葉や知識において豊かにされます。なぜならば、御霊は、そのような人を用いることができるからです。御心を教えて歩ませるのです。そうすれば、その人自身は、体験として御心を学ぶことができます。そのような言葉と知識は、力ある働きをします。霊的経験のない人の話は、味気ないものです。塩味がないのです。

 今日、兄弟は公に語ることが勧められ、若い人がそのような働きをするように勧めることが行われます。訓練としてそのような機会が与えられることもあります。その人が御霊によってその働きをすることができるようになることは幸いなことです。しかし、一方で、技術的な訓練により語る能力を持つだけの人が働くことがあります。また、書かれていることが正しく理解されていな場合や書かれていないことを推測で話すこと、また確信のない「と思う、かも知れない、ではないでしょうか」などの表現で、信頼できない言葉が語られることがあります。御霊の賜物による働きとは言えません。

 賜物は、教会におけるすべての神の働きを行います。これは、公の働きだけではありません。姉妹の奉仕も、御霊の賜物による働きです。もちろん、肉によって行うこともできますが、それは、神の方法ではありません。すべての業は、御霊によるのです。その御霊が用いるのが賜物であり、それは、すでに見たように、キリストを現す人を通して行われます。正しい知識を持つ人を通して行われます。簡単そうに見える働きも、決して簡単ではないのです。御霊の訓練が必要なのです。

 そして、その人自身がキリストの現れを待ち望んでいるのは、御霊による歩みに対して豊かな報いが与えられるからです。それは、キリストの現れの時に与えられます。

・「その結果」→それで。

・「賜物」→神から与えられるもの。奇跡を行う力のことだけを指していない。

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15:32 以上が、漏出のある者、精を漏らして汚れた者、

15:33 月のさわりで不浄な女、男か女で漏出のある者、また汚れている女と寝た男についてのおしえである。

 人のうちから出てくるものが人を汚すのです。