レビ記14章

14:1 主はモーセにこう告げられた。

14:2 「ツァラアトに冒された者がきよめられるときのおしえは、次のとおりである。彼が祭司のところに連れて来られたら、

14:3 祭司は宿営の外に出て行く。祭司が調べて、もしツァラアトに冒された者の、その患部が治っているなら、

14:4 祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるように命じる。

 ツァラアトから清められる時の教えです。祭司は、宿営の外で彼を調べ、治っている場合には、清めのために二羽の清い小鳥、杉の枝、緋色の撚り糸それとヒソプを取り寄せます。

14:5 祭司は、その小鳥のうちの一羽を、新鮮な水を入れた土の器の上で殺すように命じる。

 生きている小鳥は、神の御子イエス様の比喩です。生ける水は、聖霊の比喩です。土の器は、人の比喩です。特に、清められるこの人の比喩です。

 「生きている」という形容詞が頻繁に使われているのは、ツァラアトは、肉の現れを表していて、神の前に死んだ行いを表しています。それに対して、清めは、生きた方である御子と、生きている聖霊から来るのです。

・「新鮮な」→生きている。生ける水のこと。すなわち聖霊の比喩。「生きている」小鳥と同じ原語です。

14:6 そして、生きている小鳥を、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプとともに取り、それらをその生きている小鳥と一緒に、新鮮な水の上で殺された小鳥の血の中に浸す。

 もう一羽の生きている小鳥は、よみがえられたイエス様を表しています。杉の枝は、ヒソプと対比されていて、最も高い方を表しています。そして、その方は、ヒソプが表すように最も低くなったことを表しています。緋色の撚り糸は、幕屋の素材にも使われますが、その原語による表現は、「いも虫」と「貝殻虫」の二つの語からなっています。それは、イエス様の十字架の謙りと栄光を表しています。しかし、ここでは、「いも虫」を表す語だけが使われていて、イエス様がご自分を捨てたことが強調されています。

列王記第一

4:33 彼は、レバノンにある杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣、鳥、這うもの、そして魚についても語った。

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 植物の最高位にあるのがレバノンにある杉、最下位にあるのが石垣に生えるヒソプです。

 肉を現した者に対して必要な教えは、神である方がご自分を捨て、命を捨てて神に仕え、聖霊によって御心を行い、神の栄光を現されたイエス様の模範を示すことです。

ピリピ

2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。

2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

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 ピリピでの不一致の問題に対する教えとしてキリストの模範が示されています。二人の姉妹が肉を現したのです。イエス様は、神であられますが、神に仕えるしもべすなわち奴隷となり、人となられ、十字架の死にまでも従われました。神の栄光のためにご自分を捨て、御心を全うされたことに対して、すべてに勝る名が与えられたのです。

14:7 それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七度かけ、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。

 それを、ツァラアトから清められる者の上に七度かけます。それは、その教えをよく学ばせることを表しています。その上で清いと宣言します。彼は、その教えに従って生き、もはや肉を現さないのです。

 生きている小鳥が野に放たれました。それは、彼が、イエス様がよみがえられたように、新しく生まれた者としての歩みをすることを表しています。その小鳥は、生ける水としての聖霊に浸されました。すなわち、彼は、聖霊によって新しく生まれた者としての歩みをするのです。野は、この世を表していますが、その中に生きて、よみがえらされた者として神の御子と同じ者となって生きるのです。

14:8 きよめられる者は自分の衣服を洗い、その毛をみな剃り落とし、水を浴びる。こうしてその人はきよくなる。その後で、宿営に入ることができる。しかし、七日間は自分の天幕の外にとどまる。

 服は、自分を覆うものを表します。しかし、肉を現してきました。自分の衣服を洗うことは、彼が外に現していた行いは、肉であり、肉による行いを清めることを表しています。さらにいうならば、外に表すべき振る舞いはキリストであるべきなのです。その点に関しても清めます。

 毛は、自分を覆うものを表しています。彼は、自分を覆うことなく、肉を現したのです。それで、彼が自分を覆うものとして持っていた毛は、偽装なのです。それを一旦捨てます。

 水を浴びることは、御言葉による清めです。御言葉によって生きることを表しています。

 こうして彼は、清くなり、宿営に入れますが、七日間は、自分の天幕の外にとどまります。自分の天幕の中には、自分の家族がいます。宿営のように公には、肉は現れなくなっても、個人的なところでは、肉が現れやすいのです。そのような場でも、本当に清い歩みができることが求められているのです。

14:9 七日目になって、彼は髪の毛、口ひげ、眉毛など自分のすべての毛を剃り落とす。すべての毛を剃り落とし、自分の衣服を洗い、からだに水を浴びる。こうしてその人はきよくなる。

 七日目になったら、髪の毛、口髭、眉毛などの全ての毛を剃り落とします。自分を覆うものを全て剃り落として、自分がそれをしてこなかった偽装を取り除きます。衣服も自分を覆うものであり、それが偽りであったものを洗うことで、清めます。そして、御言葉に従って生きるのです。

14:10 八日目に彼は、傷のない雄の子羊二匹と、傷のない一歳の雌の子羊一匹と、穀物のささげ物としての、油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログを持って来る。

14:11 きよめを宣言する祭司は、これらのものとともに、きよめられる者を主の前、会見の天幕の入り口に立たせる。

 八日目は、新しい始まりを表しています。彼は、肉に死に、御霊によって御心を行う新しい歩みを再び始めるのです。

 清められる者は、捧げ物とともに会見の天幕の入り口に立ちます。それは、神の前に清められる必要があるからです。ツァラアトは、単に病気を意味しているのではなく、肉の現れの比喩になっているからです。

14:12 祭司は雄の子羊一匹を取り、それを油一ログと一緒に献げて代償のささげ物とし、それを奉献物として主の前で揺り動かす。

 子羊一匹は、聖めのための捧げ物です。祭司が任職にあたり清めのために捧げる物と同じです。祭司の場合は、聖なる者とするためにその血が塗られます。ここでは、肉から清められて、聖なる者となるために子羊が屠られます。それは、奉献物として油一ログとともに主の前で揺り動かすためです。

 子羊は、神の子としてのイエス様を表しています。人として、御子の栄光を現されたことの比喩です。油は、聖霊の比喩です。一は、独り子の御子の栄光を表しますが、イエス様を通して聖霊が現そうとしたのは、独り子の御子の栄光です。

出エジプト

29:19 もう一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。

29:20 その雄羊を屠り、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また彼らの右手の親指と右足の親指に塗り、その血を祭壇の側面に振りかける。

29:21 祭壇の上の血と、注ぎの油を取って、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束にかける。こうして、彼とその装束、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなる。

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・「代償の捧げ物」→罪。違反。罪過。「代償」とするには、このツァラアトからの清めの捧げ物のように、ツァラアトに冒されたことに対して代償はありません。このように該当しない場合があるのでこの語を全て「代償」と訳すには無理がある。

14:13 その雄の子羊を、罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物を屠る場所、すなわち聖なる所で屠る。罪のきよめのささげ物と同様に、代償のささげ物も祭司のものだからである。これは最も聖なるものである。

 それは、罪の捧げ物と全焼の捧げ物が屠られる聖なる場所で屠られます。その理由は、祭司のものとなるからです。祭司は、それを聖なるものとして受け取ります。それは、祭司が、その捧げ物を通して、独り子の御子の栄光を覚えるためです。

・「罪の清めの捧げ物」→罪。罪の捧げ物。

・「代償の捧げ物」→罪。違反。罪過。罪過の捧げ物。

14:14 祭司は代償のささげ物の血を取り、それを、きよめられる者の右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗る。

 罪過の捧げ物の血が取られ、清められるものに塗ります。右の耳たぶは、聞くことを清めるためです。すなわち、神の言葉に聞き従う点に関して清めるのです。右手の親指は、その人の行い、右足の親指は、その人の歩みを表していて、その血で清めます。

 子羊によって表されている神の御子は、神の言葉に聞き従うことにおいて、また、その行いにおいて、その歩みにおいて、それを聖なるものとして捧げ、独り子の御子の栄光を現されたのです。

14:15 祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左の手のひらに注ぎ、

14:16 右の指を左の手のひらの油に浸し、その指で油を主の前に七度振りまく。

 油は、聖霊の比喩です。七度振りまくことは、完全に自分を捨てることを表します。聖霊は、その人のうちにあって、完全に自分捨てるように働かれることを表しています。

14:17 祭司はその手のひらの中の残りの油を、きよめられる者の右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に、すなわち先の代償のささげ物の血の上に付ける。

 そして、先に血が塗られた部分に油が塗られます。それは、ご自分を捨てた御子の血を覚え、そして、聖霊によって聖められるためです。

14:18 祭司はその手のひらの中の残りの油を、きよめられる者の頭に塗る。こうして祭司は主の前でその人のために宥めを行う。

 さらに、残りの油は、頭に塗られました。頭は、神の栄光を現す部分です。彼は、もはや肉にはよらず、聖霊によって聖められ、神の栄光を現す者として歩むのです。

14:19 祭司は罪のきよめのささげ物を献げ、きよめられる者のために、汚れを除いて宥めを行う。その後で全焼のささげ物が屠られる。

 「罪の清めの捧げ物→罪の捧げ物」が捧げられます。これは、雌の子羊です。  

 彼の汚れは、肉を現したことです。捧げ物によって、汚れが除かれるのです。それは、御子の血によります。御子がご自分を捨てたことを覚え、また、聖霊によって聖められることで汚れが取り除かれるのです。

14:20 祭司は祭壇の上で、全焼のささげ物と穀物のささげ物を献げる。祭司はその人のために宥めを行い、彼はきよくなる。

 そして、初めて全焼の捧げ物が捧げられます。これは、雄の子羊です。これは、次のように規定されているからです。

レビ記

1:10 そのささげ物が、羊の群れ、すなわち羊またはやぎの中からの全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。

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 全焼の捧げ物は、雄と定められています。

 また、穀物の捧げ物が捧げられます。神は、宥めを受け、その人を受け入れられます。もう一匹の子羊が表す独り子の御子のゆえに受け入れられるのです。御子は、肉にはよらず、聖霊によって歩まれて、独り子の御子の栄光を現されたのです。

 また、油を混ぜた小麦粉は、人となられて聖霊によって歩まれたイエス様を表しています。その量は、十分の三エパです。十は、到達点を表し、三は、神の完全さを表しています。御心を完全に行われたことを表しています。

14:21 もしその人が貧しくて、それらのものを手に入れることができなければ、自分のための宥めとなる奉献物とするために、代償のささげ物として雄の子羊一匹を、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと、油一ログを取り、

14:22 また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、その一羽を罪のきよめのささげ物、もう一羽を全焼のささげ物とする。

 その人が貧しい場合には、「代償の捧げ物→罪過」として雌の子羊を捧げ物とすることに変わりはありません。油一ログも変わりません。

 穀物の捧げ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパは、先の捧げ物と量が異なります。「イサロン」は、「十」を表します。十は、到達点を表し、イエス様が父の御心を完全に成し遂げたことを表しています。

 そのほかに、山鳩二羽か、家鳩の雛二羽が取られます。基本的には、雛が求められています。鳥は、天に属するものを表していて、この場合神を表しています。雛は、子であることを表していて、神の御子の比喩です。

 ここでも、「代償の捧げ物→罪過」と全焼の捧げ物は、神の御子と関連付けられています。すでに引用したように、ピリピ書二章に示された、肉に対する教えとして完全な模範は、神である方が十字架の死にまでも従われたことなのです。肉に死に、自分を捨てて奴隷として神に仕えた方が、神の御子としての栄光を現されたのです。それゆえ、神の右の座に引き上げられました。

ピリピ

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

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14:23 八日目に自分のきよめのために、それらを会見の天幕の入り口の祭司のところに、主の前に持って行く。

 八日目は、新しい始まりの比喩です。彼は、肉を捨てて聖霊によって歩む新しい歩みを再び始めるのです。

14:24 祭司はその代償のささげ物の子羊と油一ログを取って、これを奉献物として主の前で揺り動かし、

14:25 代償のささげ物の子羊を屠る。祭司はその代償のささげ物の血を取って、それを、きよめられる者の右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗る。

 捧げ物の血は、清められる者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗られます。耳は、御言葉を聞くこと、手は、行い、足は歩みを表していて、それらが肉によって汚れていたので、血によって清めるのです。血は、キリストの命を表していて、キリストが命を捨てた愛を表し、また、神と一つとなって歩まれた命を表しています。それを覚えて清められるのです。これは、強い動機づけです。

14:26 祭司はその油を自分の左の手のひらに注ぎ、

14:27 右手の指で、左の手のひらの油を主の前に七度振りまく。

14:28 そして、その手のひらにある油を、きよめられる者の右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に、すなわち代償のささげ物の血と同じところに付ける。

 油は、聖霊の比喩です。その人を肉にはよらず、神の御心を行うように変えるのは、聖霊の力によります。一切肉にはよりません。聖霊は、人が自分を捨てて、神の御心を行なうように、そして、御子と同じ者に変えるように働くのです。これは、神の力です。

14:29 祭司はその手のひらにある残りの油を、きよめられる者の頭に塗り、主の前で彼のために宥めを行う。

 残りは、頭に塗られます。頭は、神の栄光を現す部分です。キリストは、神の栄光を現し、男は、キリストの栄光を現します。そのように、人は、キリストの栄光を現す者とされています。聖霊によってキリストの栄光を現すのです。

コリント第一

11:3 しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

11:7 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。

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14:30 また彼は、手に入れることのできた、山鳩か、家鳩のひなのうちから献げる。

14:31 すなわち、手に入れることのできるもののうち、罪のきよめのささげ物として一羽を、全焼のささげ物としてもう一羽を、穀物のささげ物とともに献げる。祭司は主の前で、きよめられる者のために宥めを行う。」

 山鳩か家鳩の雛を罪のための捧げ物と全焼の捧げ物として捧げます。いずれも神の御子を表す捧げ物です。肉に対しては、神の御子の模範が必要なのです。

14:32 以上が、ツァラアトに冒された患部がある者で、きよめに必要なものを手に入れることのできない者のためのおしえである。

 これは、清めに必要なものを手に入れることが出来ない者に対する教えですが、その捧げ物が示されることで、ツァラアトのための捧げ物の意味がより明確にされています。

14:33 主はモーセとアロンにこう告げられた。

14:34 「わたしがあなたがたに所有地として与えようとしているカナンの地に、あなたがたが入り、わたしがその所有地にある家に、ツァラアトに冒された箇所を生じさせたとき、

14:35 その家の所有者は来て、祭司に、何か冒された箇所のようなものが家に現れたと言って、報告する。

 神が与える所有地に入り、その地の家にツァラアトが生じた場合の対処について記されています。

 そのツァラアトは、主が生じさせたと記されています。主が与えた所有地ですから、本来祝福に満ちた場所です。しかし、主は、その地に建てられた家に、ツァラアトを生じさせます。その家は、教会の比喩です。ツァラアトは、肉の現れの比喩です。教会の中に肉の現れが見られた時の対処についての教えの比喩です。

14:36 祭司は、彼がその箇所を調べに入る前に、その家を片付けるように命じる。すべて家にあるものが汚れることのないようにするためである。その後で祭司はその家を調べに入る。

 その家に入る前に、その家は片付けられます。全て家にあるものが汚れることがないためです。これは、教会の中に現れた肉による行いについて調べるとき、他の人が影響を受けないように、問題の当事者だけがいるところで調べることの比喩です。 

14:37 冒された箇所を調べ、もしその箇所がその家の壁に出ていて、それが緑がかった、または赤みがかったくぼみであって、壁の表面よりも深いところに見えるなら、

14:38 祭司はその家から戸口に出て来て、七日間その家を閉ざしておく。

 それが緑がかっているか、または、赤みがかったくぼみである場合、七日間その家を閉ざしておきます。

 緑は、命を表しています。命の現れが見えることを表しています。ただし、これは、偽装です。

 赤みがかっていることは、皮膚にできたツァラアトの箇所にも記されていて、肉の現れの比喩となっています。

 くぼんでいることは、謙遜に見えることを表していて、これも偽装です。

 良い面の偽装と、肉の現れという悪い面の両方が外に現れることを比喩として示しています。

 そのようなことが教会の中に現れるのです。

・「緑がかっていて」→緑がかっている。淡い緑。命の比喩としての草の緑からきている。

14:39 祭司は七日目にまた来て調べる。もし冒された箇所がその家の壁に広がっているなら、

14:40 祭司は、冒された箇所がある石を取り出し、それらを町の外の汚れた場所に投げ捨てるように命じる。

 七日目に調べ、冒された箇所が広がっているならば、その箇所の石を取り出して、汚れた場所に投げ捨てるように命じます。

 広がっていることは、危険です。その家全体を冒すことになります。それで、その箇所を取り除くのです。それは、汚れていますので、汚れた場所に捨てさせます。

 石を取り出します。石は、教えの比喩です。肉を表す根本的な考えを捨てさせることを表しています。肉が現れるのは、その人が悪いというよりも、その人の持つ教え即ち考えが悪いのです。肉に死んで、御霊によって歩むように教えられているのに、そのようにしないその人の持つ教えが間違っているのです。そのような教えを捨てさせることが必要です。

14:41 また、家の内側のすべての面を削り落とさせ、削り落とした漆喰を町の外の汚れた場所に捨てさせる。

 その影響は、すでに教会内部に広まっているかもしれません。そのような間違った教えの影響を完全に排除するのです。その教えが間違っていることを徹底的に明らかにし、肉の影響を除かなければなりません。

14:42 さらに、別の石を取って前の石の代わりに入れ、また別の漆喰を取ってその家を塗り直させる。

 別の石を取ってきて前の石の代わりに入れます。考えを改めさせるのです。そして、別の漆喰で塗り直させます。影響のない状態にするのです。

14:43 もし石を取り出し、家の壁を削り落とし、また塗り直した後に、再び冒された箇所が家に生じたなら、

14:44 祭司は入って調べる。もしその箇所が家に広がっていたら、それは家に付く悪性のツァラアトであり、それは汚れている。

 石を取り出し、壁を削り、塗り直したのちに再び冒された箇所が生じたならば、それは、悪性のツァラアトです。汚れているとされます。

14:45 その家はその石材と木材と漆喰のすべてを取り壊し、それを町の外の汚れた場所に運び出す。

 その家は、石材、木材、漆喰の全てを取り出し壊します。町の外の汚れた場所に運び出します。元の家は無くなるのです。

 これは、教会がその誤った行動によって証しを担うことができなるなることを表します。それをするのは、主です。

黙示録

2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる──。

2:2 わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。

2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。

2:4 けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

2:5 だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。

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 燭台の間を歩く方は、教会に対してそれを取り除く権威を持っていることを表します。エペソの教会は、初めの行いから離れました。そのことは、主に対する初めの愛から離れたこととして指摘されています。彼らの行いは、主に対する愛から出たものではないものに変わっていました。主に対する愛による信仰でないものが働いていたのです。そのようなところから「悔い改める→考えを変える」ことをしないならば、教会は、燭台としての役割を終えるのです。

14:46 その家が閉ざされている期間中にそこに入る者は、夕方まで汚れる。

 その家が閉ざされている期間にそこに入る者は夕方まで汚れます。閉ざされている期間は、冒されている状態にあります。そのようなところに入るならば、汚れを受けるのです。影響を受けることになります。

14:47 その家で寝る者は自分の衣服を洗う。その家で食事をする者も自分の衣服を洗う。

 その家で寝る人や食事をする人は、衣服を洗います。それは、その家の滞在期間がさらに長くなるからであり、食事をすることで、交わりを深めることを表しています。

 衣服を洗うことは、その人の肉を現さず、自分を覆うことを正し、行いを清めることを表しています。そうしないと、自分に悪い影響が及びます。肉的なものが現れている教会にとどまり、また、深く交わるならば、悪い影響を受けることになります。

14:48 しかし、もしも、祭司が入って行くことがあり、調べて、家が塗り直された後にその冒された箇所が家に広がっていないなら、祭司はその家はきよいと宣言する。冒された箇所が治ったからである。

 祭司が必ず中に入って調べるのです。家の者から聞いたとか、外から見ただけとかではいけないのです。家が塗り直された後にその冒された箇所が家に広がっていなければ、祭司が清いと宣言します。

・「もしも、祭司が入っていくことがあり」→もし、祭司が確かに入り。「入る」不定詞絶対形。接続詞に続いて、この語があり、続いて、同じ「入る」の動詞が続く。この形の場合、「確かに~」するの意味になる。

14:49 祭司はその家の汚れを除くために、小鳥二羽と杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り、

14:50 その小鳥のうちの一羽を、新鮮な水を入れた土の器の上で殺す。

 小鳥は、神の御子の比喩、杉の木とヒソプは、最も高い方が最も低くなったことを表しています。緋色の撚り糸は、虫けらとなられて十字架の御業をなし遂げたイエス様の謙りを表します。「新鮮な水→生ける水」は、聖霊の比喩。土の器は、人のことです。

 小鳥を屠ることは、神の御子であられる方が十字架の死にまでも従われたことを表し、肉を捨てるための完全な模範と主の愛に応えて信仰によって歩むことの動機付けとなっています。器に水が入れられていたことは、人が聖霊によって歩むことを表しています。肉にはよらないのです。

14:51 杉の木とヒソプと緋色の撚り糸と、生きている小鳥を取って、殺された小鳥の血と新鮮な水の中にそれらを浸し、その家に七度振りまく。

 杉の木とヒソプは、最も高い方であるイエス様が最も低くなられたことを表しています。緋色の撚り糸は、膜屋に使われる緋色の語がカイガラムシと虫(ただし染料に使われる虫。他の箇所では芋虫のこと。)の二語で表現されますが、ここでは、虫を表す語が使われていて、詩篇二十二篇では、「虫けら」と訳されています。これは、緋色が表すイエス様の十字架の栄光のうち、ご自分を捨てた面を表しています。小鳥の血は、神の御子の血を表しています。それは、愛によって働く信仰により、肉にはよらず御霊によって御心を行うことを動機付けるものです。生ける水は、聖霊の比喩です。これら、肉を殺し、御霊によって生きることに関係する事柄が覚えられて、信仰によって歩むことで清められるのです。

14:52 祭司は、小鳥の血と新鮮な水と、生きた小鳥と杉の木とヒソプと緋色の撚り糸とによって、家の汚れを除き、

14:53 その生きている小鳥を町の外の野に放つ。こうして彼はその家のために宥めを行い、その家はきよくなる。」

 一羽は、生きたまま放たれます。これは、よみがえりの主イエス様を表しています。野は、この世です。この世にあって、よみがえらされた者として歩むことを表しています。そして、神の御子を現す者とされているのです。

14:57 どのようなときにそれが汚れていて、また、どのようなときにそれがきよいのかを教えるためのもので、ツァラアトについてのおしえである。

 汚れと清さは、肉の現れがあるかどうかの比喩になっています。