レビ記13章
13:1 主はモーセとアロンにこう告げられた。
13:2 「ある人のからだの皮膚に腫れもの、あるいはかさぶた、あるいは斑点ができて、からだの皮膚にツァラアトに冒された患部が現れたときは、彼を祭司アロンのところか、アロンの子らで祭司の一人のところに連れて来なければならない。
13:3 祭司は、そのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、患部がそのからだの皮膚よりも深いところに見えているなら、それはツァラアトに冒された患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。
人がツァラートに冒された場合の判定基準と方法について示されています。ツァラーとは、皮膚に現れる病気ですが、それに冒された場合、祭司が判定し汚れていると宣言されます。これは、霊的な比喩となっていて、肉が現れることが神の前に汚れていることを表しています。そして、ツァラートのいつくかの症状が例示されていますが、これらは、肉の現れに伴う人の振る舞いの比喩です。
毛が白く変わっていることと、患部が皮膚よりも低くなっていることで、ツァラートと判定されます。そして、祭司は汚れていると宣言します。
毛が白く変わることは、黒い毛がが白くなったことを表しています。聖書には、毛の色は、通常、黒か白として記されています。黒は、自分を覆うことを表し、白は、自分の栄光を現すことを表しています。
雅歌書
5:11 その頭は純金です。髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く、
髪の毛について、それがやしの垂れ下がった大枝のようであると言い表されています。なつめやしは、葦と対比されて頭を表します。
イザヤ
9:14 そこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。
9:15 そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。
19:15 それで、頭も尾も、なつめやしの葉も葦も、エジプト人のために、なすべきわざがない。
それとともに、髪は、自分を覆うことを表しています。それが、大枝のように豊かであることが表現されています。このように、主イエス様に関して、最も高い頭であり、本質において神であられる方が、全く自分を覆われたことが「髪はなつめやしの枝」という表現によって表されてます。
「烏のように黒い」ことは、白い髪の毛と対比されています。
箴言
16:31 白髪は栄えの冠。それは正義の道に見出される。
20:29 若い男の栄誉は彼らの力。老人の輝きはその白髪。
白い髪は、栄光の現れです。対比される黒い髪は、自分を覆うことを表しています。烏のように黒いことは、白い部分が全く無いことを表していて、全くご自分を覆われたことを表しています。
ダニエル
7:9 私が見ていると、やがていくつかの御座が備えられ、『年を経た方』が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、
神の栄光の現れは、白い髪として表現されています。
--
次に、皮膚よりも低くなっていることは、表面的な謙遜を表しています。
コロサイ
2:18 自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、
2:19 かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。
2:20 もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、
2:21 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。
2:22 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。
2:23 これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。
--
自己卑下は、肉の現れなのです。
13:4 もしそのからだの皮膚の斑点が白く、皮膚よりも深くは見えず、そこの毛も白く変わっていなければ、祭司はその患者を七日間隔離する。
13:5 祭司は七日目に彼を調べる。もしその患部が祭司の目にはそのままに見えて、その患部が皮膚に広がっていなければ、祭司は彼をさらに七日間隔離する。
13:6 祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、その患部が皮膚に広がっていなければ、祭司は彼をきよいと宣言する。それは、かさぶたである。彼は自分の衣服を洗う。こうして彼はきよくなる。
白い斑点ができた場合、それは見た目には、清く見えることを表しています。しかし、人の前に清く見える時こそ、肉の現れである場合があるのです。
その判定には、慎重を要します。人の振る舞いが肉によるのか否かは、慎重に判断しなければなりません。七日を要します。判定がつかなければ、さらに七日を要するのです。それが薄れてなくなるか否かを見ます。肉に特徴的な振る舞いがなく、また、肉による振る舞いに似たような振る舞いが消えていくのであれば、肉ではないのです。
13:7 しかし、もしも彼が祭司にその身を見せてきよいと宣言された後で、かさぶたが皮膚に広がってくるようなことがあるなら、再び祭司にその身を見せる。
13:8 祭司が調べて、かさぶたが皮膚に広がっているなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。それはツァラアトである。
彼が清いと宣言されてのちに、瘡蓋が広がってくるようであれば、それを祭司に見せ、調べ、皮膚に広がっているならば、それは、ツァラートであり汚れています。祭司のところにきたのは、疑わしいからであり、その時きよいとされました。それは、特徴的な症状が見られなくても、広がっているならば汚れているのです。そのように疑わしい行動が再び繰り返されるならば、その振る舞いが肉によらないにしても、疑わしい振る舞いを止めることなく、し続けるのであれば、それは、肉の現れなのです。
例えば、不注意でそれほど問題にならない相応しくない行為が現れたとして、それに対して監督者なりから勧めや注意を受けたとします。そのようなことをしないように行いを正すならば、それは、一時的な不注意であることがわかります。しかし、一時的にそのような振る舞いが収まっても、その後も、そのような行いを繰り返すとしたら、それはもはや肉なのです。それを捨てたり、止めたりしなければならないのに、しないのは、肉に支配されているからです。
13:9 人にツァラアトに冒された患部があるときは、祭司のところに連れて来る。
13:10 祭司が調べ、もし皮膚に白い腫れものがあり、その毛も白く変わり、腫れものにむき出しの肉が盛り上がっているなら、
13:11 それは、そのからだの皮膚にできた慢性のツァラアトである。祭司は彼を汚れていると宣言する。彼を隔離する必要はない。彼はすでに汚れている。
次に、明確にツァラアトとわかる症状について示されています。
白い腫れ物があり、毛が白く変わっていて、腫れ物の上に剥き出しの肉が現れている場合です。
単に剥き出しの肉が現れるだけでは、それは怪我の場合にも現れますので、ツァラアトということはできません。同時に白い腫れ物、そして、白い毛があることです。剥き出しの肉は、肉の現れを表しています。白い腫れ物は、清さを外に現していることの比喩です。これは、イエス様のご在世当時、イエス様が指摘したように、パリサイ人や律法学者のように人の前に自分を清いとしている人のことです。しかし、彼らのしていたことは偽善でした。彼らは、通りの角で祈りをし、十分の一を捧げていました。敬虔そうに見えました。しかし、見せかけです。
毛が白いことは、すでに見たように、自分の栄光を求めて現すことです。バリサイ人たちは、そうしていました。
これらは、肉の現れなのです。
13:12 しかし、もしも、そのツァラアトが皮膚に生じて、祭司が目で見るかぎり、ツァラアトが頭から足まで患者の皮膚全体をおおうようなことがあるなら、
13:13 祭司がそれを調べる。もし、そのツァラアトがその人のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。
13:14 しかし肉がむき出しになったときは、彼は汚れた者となる。
ツァラアトが全身を覆った時には、祭司が調べます。そのすべてが白く変わっているならば、清いのです。これは、体全体を覆ったので清いということではありません。たとい全身を覆ったとしても、すべてが白くなって肉が現れていないならば、清いのです。
13:15 祭司はそのむき出しの肉を調べて、彼を汚れていると宣言する。そのむき出しの肉は汚れている。それはツァラアトである。
剥き出しの肉を調べます。そして、彼を汚れていると宣言します。剥き出しの肉は、汚れています。それは、肉を現すことの比喩です。汚れているのです。
13:16 しかし、もしそのむき出しの肉が再び白く変われば、彼は祭司のところに来る。
13:17 祭司は彼を調べる。もしその患部が白く変わっているなら、祭司はその患部をきよいと宣言する。彼はきよい。
しかし、剥き出しの肉が白く変われば、それは、清いとされます。肉が現れていないからです。
先ほどの全身がツァラアトで覆われても、剥き出しの肉が現れておらず、白くなっているならば、清いのです。
13:18 からだの皮膚にできものができ、それが治った後、
13:19 そのできものの局所に白色の腫れもの、または赤みがかった白い斑点があれば、それを祭司に見せる。
13:20 祭司が調べて、もしそれが皮膚よりも深いところに見え、そこの毛が白く変わっているなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。それはそのできものに生じた、ツァラアトに冒された患部である。
次に、できものが癒されたところにに白い腫れ物や赤身がかった白い斑点ができた場合です。できものは、一時的な皮膚の疾患です。そこに、白い腫れ物や斑点ができることは、いわば、彼に疾患ができたように、何らかの罪を犯し、回復された場合のことで、そこに、今度は、白い腫れ物として、清い行いが現れるような場合です。しかし、そこに、肉が現れることがあるのです。白いことは、清いことを表しています。赤みがかった白い斑点は、それが清い行いに見えますが、肉の働きが感じられるような状況です。
13:21 もし祭司がこれを調べて、そこに白い毛がなく、それが皮膚よりも深くはなく、それが薄れているなら、祭司は彼を七日間隔離する。
13:22 もしも、それが皮膚に広がってくるようなことがあるなら、祭司はその人を汚れていると宣言する。それは患部である。
できものの跡にできた白色の腫れもの、または赤みがかった白い斑点で、皮膚よりも深いところや白い毛がなく薄れている場合には、七日間隔離してのち調べます。それが皮膚に広がってくるようなことがあれば、それは汚れているとされます。
それは、自分が清いことを人に見せようとして、その行いを繰り返しているからです。
13:23 もしその斑点が元のままであり、広がっていなければ、それはできものの跡である。祭司は彼をきよいと宣言する。
広がっていなければ清いのです。
13:24 あるいは、からだの皮膚に火傷があって、その火傷の生肉が赤みがかった白色、または白色の斑点であれば、
13:25 祭司はこれを調べる。もし斑点の上の毛が白く変わり、それが皮膚よりも深いところに見えるなら、それは火傷に生じたツァラアトである。祭司は彼を汚れていると宣言する。それはツァラアトに冒された患部である。
火傷にできたツァラアトについての教えです。この火傷は、原語によれば、「火」による火傷です。湯でも火傷しますが、火による火傷と明確に示されています。火は、神の評価を表し、この場合は、その評価の結果、打たれたことを比喩として表しています。
火傷の結果、生肉が現れることになります。それは、彼が肉を現したので神から打たれ、この人は、肉を現した者として人に知られることになったのです。
そこに、赤みかがった白い斑点がある場合、それは、彼の清い行いを表していますが赤みがかっていることにより、肉の現れが疑われるような状況の比喩です。白い斑点の場合は、肉の現れが疑われないかもしれませんが、彼に清い行いが現れた場合です。それは、純粋に清い行いを求めていのではなく、彼が打たれたことを艤装しようとしているのです。
その判別は、斑点の上の毛が白く変わっていること、そして、それが皮膚よりも深いところに見えるならば、それは、火傷に生じたツァラアトで、汚れていると宣言されます。
白い毛は、自分の栄光を現すことを表していて、皮膚よりも低く見えることは、人の前に自分を低く見せることを表しています。それは、肉の特徴的な現れなのです。
13:26 しかし、もし祭司がこれを調べて、その斑点に白い毛がなく、それが皮膚より深くはなく薄れているなら、祭司は彼を七日間隔離する。
13:27 それから七日目に祭司は彼を調べる。もしも、それが皮膚に広がってくるようなことがあるなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはツァラアトに冒された患部である。
白い毛と皮膚よりも深いところに見えることが、ツァラアトの決定的な証拠ですが、それがない場合には、七日間隔離します。そして、それらの症状がなくても、皮膚に広かっていれば、ツァラアトであるとされます。
特徴的な症状がなくても、彼の行いが消えていくことなく、拡大するならば、それは、汚れています。それが一時的なものではなく、繰り返し、しかも拡大していくのです。そこには、肉が働いています。
13:28 もしその斑点が元のままであり、その皮膚に広がっておらず、薄れているなら、それは火傷による腫れである。祭司は彼をきよいと宣言する。これは火傷の跡である。
しかし、皮膚に広がらず、薄れているなら、それは、清いと宣言されます。
13:29 男あるいは女で、頭か、ひげに疾患があるとき、
13:30 祭司はその患部を調べる。もしそれが皮膚よりも深いところに見え、そこに細い黄色の毛があるなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これは疥癬で、頭またはひげのツァラアトである。
頭かひげに疾患がある場合で、皮膚よりも低く見えること、また、毛が黄色く輝いているものがあるならば、それは、汚れていると宣言します。
皮膚よりも低く見えることは、彼が人の前に自分を低く見せる肉の現れの比喩です。また、毛が黄色く輝くことは、黒い毛と対比されて、自分を覆うのではなく、自分の栄光を現すことを比喩として示していて、それは、肉の現れなのです。
・「黄色」→(髪が)輝いている。黄色。金色。髪が黄色く輝くことを表す。
・「疥癬」→疥癬(かいせん)とは、“ヒゼンダニ”と呼ばれるダニがヒトの皮膚に住みつくことで発症する皮膚の病気です。
13:31 祭司が疥癬の部分を調べ、もしそれが皮膚よりも深いところに見えず、そこに黒い毛がないなら、祭司はその疥癬の患者を七日間隔離する。
疾患があっても、その部分が、皮膚よりも深く見えず、また、そこに黒い毛がない場合、七日間隔離します。
13:32 七日目に祭司は患部を調べる。もしその疥癬が広がっておらず、またそこに黄色い毛もなく、疥癬が皮膚よりも深いところに見えていなければ、
13:33 その人は毛を剃り落とす。ただし、その疥癬を剃り落としてはならない。祭司はその疥癬の患者をさらに七日間隔離する。
その疥癬に変化がなく、皮膚よりも低く見えず、黄色い毛もないならば、今度は、その人は、毛を剃り落とします。毛は、覆うものとして与えられています。自分の栄光を覆うのです。それが人として神の前に正しい姿です。しかし、その人を覆う毛に疾患があることは、自分自身の栄光を求めることを表しています。そのような場合、毛に覆われているように、自分の栄光を求めない態度をとっていても、偽装である場合があるのです。それで、判断のために、自分を覆うことを表す毛を一旦剃り落とし、自分を覆うように見せているものを判断の材料から外します。謙遜のように見える態度などを判断の材料から除外して、その人を観察します。そのようにすることで真の姿が見えてくるのです。
13:34 七日目に祭司はその疥癬を調べる。もし疥癬が皮膚に広がっておらず、それが皮膚よりも深いところに見えていなければ、祭司はその人をきよいと宣言する。彼は自分の衣服を洗う。こうして彼はきよくなる。
隔離してから七日目に、疥癬を調べます。それが皮膚に広がっていないこと、また、皮膚よりも深く見えないならば、祭司は、清いと宣言します。
彼は、自分の衣服を洗います。彼は、聖い歩みを外に現して歩むようになるのです。
13:35 しかし、もしも、その人がきよいと宣言された後に、その疥癬が皮膚に広がってくるようなことがあれば、
13:36 祭司は彼を調べる。もしその疥癬が皮膚に広がっていれば、祭司は黄色の毛を見分ける必要はない。その人は汚れている。
広がってくるならば、それは、汚れています。黄色い毛を調べる必要はありません。清いと見えても、それが繰り返されたり大きくなっているならば、それは、肉によるのです。
いつも一番に祈る人がいます。もはや彼の行動は、聖霊の導きではないのです。肉で決めた通りに行動しているのです。熱心のように見えても、肉の現れなのです。
13:37 もし祭司が見て、その疥癬が元のままであり、黒い毛がそこに生えているなら、その疥癬は治っていて、その人はきよい。祭司は彼をきよいと宣言する。
疥癬が元のままで、黒い髪がそこに生えているならば、きよいのです。黒い髪は、自分の栄光を覆うことを表しています。
13:38 男あるいは女で、そのからだの皮膚に斑点、すなわち白い斑点があるとき、
13:39 祭司はこれを調べる。もしそのからだの皮膚にある斑点が淡い白色であるなら、これは皮膚に生じた湿疹で、彼はきよい。
皮膚に斑点ができて、それが淡い白色の斑点である時は、清いのです。
13:40 男の髪の毛が抜け落ちるとき、それははげであって、彼はきよい。
13:41 もし顔の生えぎわから髪の毛が抜けても、それは額のはげであって、彼はきよい。
男の髪の毛が抜け落ちる時、それは禿げであって清いのです。ひたいの毛が抜けても禿げであって清いのです。
13:42 もしその頭のはげか額のはげに、赤みがかった白い部分があるなら、それは頭のはげに、あるいは額のはげに生じたツァラアトである。
13:43 祭司は彼を調べる。患部の腫れものが、頭のはげ、あるいは額のはげの部分で、からだの皮膚にあるツァラアトに見られるような、赤みがかった白色であれば、
頭の禿げに、赤みがかった白い部分があるならば、それを調べます。それが体の皮膚に見られるような赤みがかった白である場合です。
13:44 彼はツァラアトに冒された者であって、この者は汚れている。祭司は彼を汚れていると必ず宣言する。その患部が頭にあるからである。
その場合は、汚れているとされます。祭司は、汚れていると必ず宣言します。その理由も示されていて、それが頭にあるので、必ず宣言するのです。
頭は、男が神の栄光を現す部分であり、神の栄光を現すところに肉が現れたならば、それは、最も悪い肉の現れであるのです。それは、明確に汚れていると宣言されて、誰にも明らかに知らされるのです。
男が神の栄光を現すものとしての役割の担うのは、主に公に神の働きを担う時に起こります。監督の働きをなしたり、教えをなしたり、祈りをすることは、男がすることで、女には、禁じられています。しかし、そのような役割を担っているときにあっても、自分の肉が現れることがあるのです。教会の監督をする者が、肉によって判断し、肉によって指導することが行われるのです。また、神の言葉を取り次ぐ働きを自分の誉のように考えるのです。また、その祈りは、人に見せるためにする祈りとなり、神の前に祈っているのではないことがあるのです。
13:45 患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。
ツァラアトに冒された者は、自分の衣服を引き裂きます。本来、衣服は、肉を覆い、キリストを現すものとして着るのです。しかし、肉を表したことで汚れているとされたとき、その服は、偽装です。それを裂くのです。
髪の毛を乱すのは、髪は、覆うことを表していますが、肉を現して自分を覆うことをしなかったので、自分を覆うことをしなかったので汚れたとされたことを表すために、髪を乱すのです。
口髭を覆うことも、髪の毛と同様で、肉を現し、自分を覆うことをしなかったので、それを表すために、口髭を覆うのです。そして、汚れている。汚れていると叫ぶのです。肉は、汚れていることを彼自身が告白するのです。
13:46 その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。
その人に患部がある間は、その人は汚れたままです。汚れているので、他の人に影響を与えないように一人で住みます。他の人に感染ることがないように、宿営の外の家に住むのです。肉は、他の人に影響を与えます。肉の現れは、その人自身だけの問題だけではなく、他の人も同じように肉を現すきっかけを与えるのです。
13:47 衣服にツァラアトに冒された箇所が生じた場合は、羊毛の衣服でも、亜麻布の衣服でも、
13:48 亜麻または羊毛の織物でも、編物でも、皮でも、また皮で作ったいかなるものでも、
13:49 冒された箇所が緑がかっていたり赤みを帯びたりしているなら、衣服でも皮でも織物でも編物でも、またいかなる皮製品でも、それはツァラアトに冒された箇所である。それを祭司に見せる。
これは、衣服にツァラアトが生じた時に、祭司に見せることについて記されています。服の生地について、織り方、材質はさまざまです。いずれにしろ、服にツァラアトが生じた場合です。
なお、四十八節の記述は、織物、編み物、革製品について、服とは、別物として記されていますが、これは、服に関する教えです。
レビ記
14:54 以上が、ツァラアトに冒されたあらゆる患部、疥癬、
14:55 衣服と家のツァラアト、
14:56 腫れもの、かさぶた、斑点についてのおしえであり、
--
衣服だけ取り上げられているのは、比喩のためです。服は、外に表す行いを表しています。
判断の基準は、それが「緑がかっているか赤みを帯びている」ことです。
服は、外に現す振る舞いを表しています。本来であれば、その振る舞いは、キリストを現すことであるのです。
緑は、命を表しています。命の現れが見えることを表しています。ただし、これは、偽装です。
赤みがかっていることは、皮膚にできたツァラアトの箇所にも記されていて、肉の現れの比喩となっています。
良い面の偽装と、肉の現れという悪い面の両方が外に現れることを比喩として示しています。
・「緑がかっていて」→緑がかっている。淡い緑。命の比喩としての草の緑からきている。
13:50 祭司はその箇所を調べる。そして、冒された箇所がある物を七日間隔離する。
13:51 七日目に彼は、冒された箇所がある物を調べる。それが衣服でも織物でも編物でも皮でも、また皮が何に用いられていても、それらに冒された箇所が広がっているとき、その箇所は悪性のツァラアトで、それは汚れている。
外に現れる振る舞いは、一時的なものである場合があるのです。七日間の隔離の後に調べるのは、そのような振る舞いが継続しているかどうかの確認のためです。広がっているならば、それは、悪性のツァラアトで、汚れているとされます。悪性と言われてるのは、本来人の振る舞いとしてキリストを現すべきところに肉が現れているからです。
13:52 羊毛のものであれ亜麻のものであれ、衣服、あるいは織物でも編物でも、またいかなる皮製品でも、冒された箇所がある物は焼く。これは悪性のツァラアトであるから、火で焼かなければならない。
汚れた物は、服ごと焼きます。神の前に価値のないものとして、評価されるのです。悪性であるので、そうされます。
13:53 もし祭司が調べて、衣服、織物、編物、またいかなる皮製品でも、その箇所が広がっていなければ、
13:54 祭司は命じて、冒された箇所がある物を洗わせ、さらに七日間それを隔離する。
七日間隔離して、それが広がっていない場合、その服を洗わせます。それは、御言葉によって教え、そのような振る舞いが汚れていて、価値のないことを知らせることを表しています。それを受けて、清められればよいのです。
13:55 冒された箇所がある物が洗われてから、祭司がそれを調べて、もしその部分が変化したように見えないなら、その部分が広がっていなくても、それは汚れている。それは火で焼かなければならない。それが内側にあっても外側にあっても、それは腐食である。
七日間の隔離の後、そこに変化がない場合、それは、汚れているとされます。それは、彼の振る舞いが変わっていないことを表しています。本来ならば、消滅しなければならないのに、変わらずに残っているからです。キリストだけが現されなければならないのに、そこに肉が現れているからです。
13:56 しかし、もし祭司が調べて、冒された箇所が洗われた後に薄れていたら、彼はそれを衣服や皮や織物や編物から切り取る。
薄れている場合には、切り取ります。肉による振る舞いが少なくなっていることを表していて、良い傾向が見られたのです。しかし、それは、消滅しなければならないのであって、いまだに残っている部分は、切り取られます。
13:57 もし、その衣服、織物、編物、またいかなる皮製品でも、再びそれが現れたなら、それは再発である。冒された箇所のある物は火で焼かなければならない。
再び現れたならば、それは、隔離をする必要はありません。即座に焼くのです。一度消えたように見えても、再び現れたのです。彼は、肉によって歩んでいるのです。一時的に、肉による振る舞いが消えたに過ぎないのです。彼は、変わっていないのです。
13:58 しかし、洗った衣服、織物、編物、またいかなる皮製品でも、冒された箇所がそれから消えていたら、もう一度これを洗う。こうして、それはきよくなる。」
それが消えていたならば、もう一度洗います。もう二度と現れないように、教えるのです。その上で清くなります。
13:59 以上は、羊毛または亜麻布の衣服、織物、編物、すべての皮製品の、ツァラアトに冒された箇所についてのおしえであり、それをきよい、あるいは汚れていると宣言するためである。
これは、服に関する教えで、その材質と製法に関して、亜麻布の織物、編み物、皮と列挙されています。比喩が示していることは、外に現れる振る舞いのことです。