レビ記12章

12:1 主はモーセにこう告げられた。

12:2 「イスラエルの子らに告げよ。女が身重になり、男の子を産んだとき、その女は七日の間汚れ、月のさわりの不浄の期間と同じように汚れる。

 男の子を産んだ時、女は、汚れた者とされます。出産自体は、主が人を創造された時に与えた祝福であり、聖い、良いものです。

創世記

1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

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 しかし、出産時に汚れるとされるのは、月のさわりと同じであると説明されています。それは、体内からの出血と同じで、人のうちから出るものの比喩になっています。それは、人を汚します。

マタイ

15:18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。

15:19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。

15:20 これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

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12:3 八日目には、その子の包皮の肉に割礼を施す。

 割礼は、肉を捨てることの比喩です。「肉に」割礼を施すとあり、肉を捨てることを表しています。

 八日目は、新しい始まりを表しています。これは、肉に死んで新しく生まれた者としての新しい命に歩むことの比喩です。今日、肉にはよらず御霊によって生きることの比喩です。

12:4 彼女は血のきよめのために、さらに三十三日間こもる。そのきよめの期間が満ちるまでは、いかなる聖なるものにも触れてはならない。また聖所に入ってはならない。

 彼女は、清めの期間こもります。

 血は、命を表します。彼女は、それを体の外に流したことが汚れているとされます。血は、その人の内にあって、命として働くのです。しかし、外に流すことで、その命を失うことを表しています。これは、肉体の死ではなく、霊的に経験できる命を捨てることを表しています。神の御心を行うことで命を経験できますが、それをしないで命を失うことです。「血の中の清め」となっていて、命の中での清めなのです。命を経験するか否かの問題なのです。

 三十と三日は、命を獲得する期間を表しています。三十は、欠けのない完全さを表す三と到達点を表す十からなり、その到達点は、神の完全さであることを表しています。人として御心を行うことで到達する完全さです。神の御心を行うことで命を経験できることを表しています。

 そして、三は、神の完全さです。その御心を行う程度は、神ご自身を現すようになることです。その完全さに達することが求められていることを表しています。そこに豊かな命を経験するのです。また、永遠の命しての報いを資産として受け継ぎます。今日、私たちが神の御心を完全に行う者となり、キリストを現すことです。

 聖なるものに触れてはならないと規定されているのは、彼女の汚れが聖なることに関わることを表しています。神の御心を行うことで聖とされます。神ご自身を現す聖なる者になるのです。出血は、それを否定することを比喩として示しています。それで、聖なるものに触れてはならないのです。また、聖所に入ってはならないのです。祭司以外は、入ることができないので、原語の他の意味の「来る」とすべきところと考えられます。なお、マリアは、イエス様を出産した時、八日目に割礼を施すために神殿に来ました。しかし、三十日と三日の期間には、該当しないので問題はありません。

→「三十日と三日、血の中の清めを続ける。」

・「入っては」→中に入る。来る。入って行く。行く。

12:5 女の子を産んだ場合は、月のさわりの時と同じように二週間汚れる。彼女は、血のきよめがなされる必要があるので、さらに六十六日間こもる。

 男と女の違いは、その役割の違いにあります。男は、神の栄光を表す者としての役割を担い、女は、被り物を被ることで表されるように、自分を覆うことで人の栄光を現します。人が神の栄光を現す者になることよりも、人が自分を覆うことで清められることの方が難しいことを表しています。常に肉が働くのです。

12:6 彼女のきよめの期間が満ちたら、息子の場合であっても娘の場合であっても、全焼のささげ物として一歳の子羊一匹と、罪のきよめのささげ物として家鳩のひなか山鳩を一羽、会見の天幕の入り口にいる祭司のところに持って行く。

 全焼の捧げ物は、子羊一匹です。これは、人となられた独り子の御子の比喩です。出産に関連して、この捧げ物が全焼の捧げ物として神を満たすのは、御子は、父の御心だけを行い、神と一つになって歩まれ、命のうちを歩まれたからです。出産に伴う比喩を完全に満たされた方であるからです。

ヨハネ

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。

6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

6:58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

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 父と御子の関係は、主イエス様と信者の関係と同じです。イエス様は、父によって生きておられました。それが命です。信者に関して、イエス様によって生きる者は、永遠に生きると言われ、このことが永遠の命を経験することであることを示されました。それは、また、御国においても、永遠の命を経験することになるのです。すなわち、永遠の栄光を受け報いとしての資産を受け継ぐからです。

 また、罪のための捧げ物は、家鳩の雛か、山鳩です。基本的には、雛が手に入りやすい家鳩の場合で、雛が捧げられます。鳩は、鳥として神の比喩です。雛は、神の御子を表しています。人に求められていることは、独り子の御子と同じ者になることです。イエス様は、人として歩まれて、独り子の御子の栄光を現されたのです。その完全な方が罪の捧げ物として捧げられることで贖いがなされます。

ヨハネ

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

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12:7 祭司はこれを主の前に献げ、彼女のために宥めを行い、彼女はその出血の汚れからきよくなる。これが、男の子であれ女の子であれ、子を産む女についてのおしえである。

 そのさ捧げ物の故に神の前に宥めを行うことができます。神は、御子のゆえ受け入れられるです。

12:8 しかし、もし彼女に羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のささげ物、もう一羽は罪のきよめのささげ物とする。祭司は彼女のために宥めを行い、彼女はきよくなる。」

 彼女が羊を買う余裕がない時、羊の代わりに、山鳩か、家鳩の雛が代用されました。すでに見たように、子羊一匹は、独り子の御子を表していて、家鳩の雛も神の御子を表しています。この方によって、宥めがなされるのです。